カッコいい人

最近は櫻坂46にドハマりしていて、『そこ曲がったら、櫻坂?』という番組を見逃し配信で視聴するのが毎週の楽しみの1つになっている。

今週の放送は、簡単に言うと今度発売されるシングルで中心的な役割を担う7人のメンバーが、ヒット祈願として空中ブランコに挑戦するという内容のものだった。

予想外に皆スイスイとこなしていく中、あるメンバーは高いところがかなり苦手らしく、練習でも台から飛び降りることすらままならない状況で本番を迎えていたようだった。
本番でも、はしごを登り切ってから飛び降りる決心をするまでかなり時間がかかり、血の気が引いたような顔をしていたのが見ていて心苦しかった。

しかし最終的に彼女は自分を奮い立たせて、技こそできなかったものの勇気を出して一歩を踏み出し飛び降りることに成功したのであった。
その姿に僕は感動したし、代わりのメンバーがしっかりと技を成功させてカバーしたのにも胸を打たれた。


ところが、これがネットでは結構賛否両論だったらしい。

だいたいこういう場合は「否」の方が強いパワーを持っていて、中にはそんなことまで言われなければならないのか、と悲しくなるような書き込みも見た。

まぁ確かに技は成功していないので、その点では「否」軍団の言い分もわかることにはわかる。
だが、何よりも苦手なことに立ち向かった勇気や努力を踏みにじるような言葉が僕は許せなかった。



僕は「新卒チケット」をほぼ諦めてしまった人間だ。

しんどくなってしまったからだ。


10社ぐらい面接に進んだだろうか。
通過したのはたったの2回だった。2社ではなく2回。

自分に興味を持たれること、そして言葉で伝えることが苦手な性格のせいで、ここまで何度も苦しい思いをしてきた。
どうしてうまく喋れないのか、どうしてわかってもらえないのか…


上手いか、面白いか、それはわからないが、文章で自分を表現するのは好きで、そのおかげで7~8割方の会社では書類選考を通過することができた。
結果的には無駄な出費に終わったが、浜松町の駅を出た先に見た大きなビルへの感動は今でも忘れられない。

面接が苦手な自覚はあったので、想定される質問をあらかじめすべてノートに書き出して、その1つひとつに完璧な回答を用意しておいた。そしてそれを常にシミュレートし続けて本番に臨んだ。

でも、いつも面接が始まった瞬間に頭が真っ白になってしまった。
用意してきた回答はすべて頭の中で消えてなくなり、しどろもどろで喋るうちにだんだんと相手の顔が曇っていくのを何度も見た。
接続が切れた後、今日もダメだったと落ち込んでスーツを脱ぐときの感覚がまた自分を苦しめた。



最後の1社から最終選考不合格の通知が送られてきた次の日。

大学の学食で昼食を済ませ、さあ帰ろうとしたところ、左手側に明らかに体調が悪そうにうずくまる学生を見つけた。
あの日はとても暑く、すぐに熱中症だと思い当たった僕は、いち早く駆け寄っていたもう1人の学生が職員を呼びに行くのと入れ替わる形で、彼の様子を見ていることにした。

ぼーっとしてまともに受け答えができない彼と2人で待っている間の周囲の視線は冷たかった。
横たわる学生を好奇の目で見る者、邪魔だと言わんばかりに横を通り過ぎる者、遠くの方で指を差しながらひそひそと話す集団…

それから職員が来て、常駐のドクターが来て、救急車が来るまでの間、僕たちはその視線を受け続けていた。


救急車が来たので、学生の僕たちはそこで解散した。

そのまま自転車に乗って1人で帰っているとき、ふとこんなことを思った。


なんで自分はこんなにいいことをしているのに、報われないのだろうか。


そう思っていることに気付いた瞬間、「あぁ自分はもう終わった人間だな」と感じた。

今までコツコツと積み上げてきたものは、自分では特別なものだとは思っていない。就活の準備にしろ、学業にしろ、何にしろ自分がやるべきだと思ったことをブレずにやり続けてきた。
それがいつからか周りの人と比べ始めて、「なんであんなのがよくて自分はダメなんだ」「自分はこんなに頑張っているのに」と思ってしまう自分は、もうダメだと感じた。

元々立派な人間だったとは口が裂けても言えないけれども、この時期を経てそう思ってしまうような荒んだ人間に変わってしまったことが本当に嫌で、僕はもうそれ以上戦うのをやめてしまった。



僕は、自分に「頑張った」「努力した」という言葉を使っちゃう人がちょっと苦手だ。

「頑張る」「努力する」のは当たり前のことで、「ご飯を食べます!」「歯を磨きます!」と言っているのと同じだろ、と僕は感じてしまう。
だから僕は、そういう言葉を自分に対して使う人のことは懐疑的な目で見てしまうし、もちろん自分自身にも使おうとは思わない。
僕自身が何かを特別「頑張った」「努力した」と思ったこともないし、誰かに見せびらかしたいとも思わない。たとえ就活が成功していたとしても「頑張ったから」だとは思わなかっただろう。「頑張る」のは当たり前だから。

だいたい「頑張った」「努力した」の後に続くのは「のに」「けど」といった逆接的な意味の接続詞だ、と思う。
自分のための頑張りや努力を他人に同情してもらうための材料にしているようで、なんだか気持ち悪く感じてしまう。
だから、意志の表れや自分を奮い立たせる言葉として「頑張る」「頑張ろう」という言葉を使うことはあっても、過去形で使うことは僕はしたくない。


一方で、僕は頑張っている人に対しては「頑張ってるね」「いいね~」みたいな言葉をよく使う方だと自分で思っている。
やっぱり当たり前のことを当たり前のようにできる人のことは応援したいと思うし、なんだかんだ言ってそれができない人がたくさんいる中で地道にコツコツとやり続けられる人はカッコいい。
そういう人の頑張りはできるだけ見ていたいし、わかっていたい。



他人と比べて誰かを評価することは簡単だけれども、自分の中で、あるいはその人の中でどれだけ前に進むことができたのか…ここを大切にしたいと僕は思っている。
たとえ目標に達することができなかったとしても、その積み重ねがまったくの無駄になってしまうなんてことはないはずだ。小手先だけでなんとなくやれちゃう人の方がむしろ危険だと思う。

いろいろ自分のやりたいことに挑戦してみたけれど、今はやっぱり誰かの頑張りや努力を近くで感じられる仕事ができたらいいな、と考えている。
努力が必ず報われる世界ならこんなにいい話はないけれども、そうは言ってもやっぱりそういう人が最終的にはいい思いをしてほしいなという気持ちだ。

まぁ面接爆落ち野郎が何を偉そうに言ってんだ、って話ですが。
バイトやるにも面接受かんなきゃなー。僕もまた頑張り始めなければいけません。



たまたまだと思うが、放送翌日の夜のラジオに例のメンバーが出演していた。

芸人さんにツッコミを学んでできるようになろう!という企画だったのだが、ゆるふわ~な雰囲気の彼女は最初お世辞にもツッコめているとは言えない有様だった。

しかし、芸人さんがツッコミの極意を伝授する間、彼女は熱心にメモを取り、教わったことを活かして少しずつながらキレのあるツッコミができるようになっていった。

なんとなくツッコめるようになった頃、出演者の方がこんなことを言っていた。


「○○さんはね、努力する方なんで」


また、応援したくなった。


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