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父に捧げるフルート

小学校に入学した時私は体育館で恋をした。
入学生を迎え入れる時、校歌を吹く吹奏楽部の楽器たちに。

その中でもキラキラと銀色に輝き光を反射するフルートの虜になった。
私はすぐに吹奏楽部へ入学することを決めた。
しかし部活は4年生にならないと入れないと言われ私は落ち込んだ。そして4年生になるまで学校は嫌いだったが吹奏楽部に入りたい一心で耐えた。

ようやく吹奏楽部に入ることが出来たが、担当の楽器は希望通りという訳にはいかなかった。
四年生の時は大きな金管楽器の担当になった。
でも楽器を吹くこと自体が面白くて私は部活にのめり込んだ。5年生の中頃にたまたまフルートの子が1人抜けたので、立候補した私はようやくフルートを担当することになった。楽器は持っていないので学校の物を借りるのだが、それは楽器の表面のメッキが剥がれていてボロボロのフルートだった。友達はみんな自分のフルートを買ってもらっていて羨ましかった。だから私はフルートを研磨剤の入った液体で毎日磨いた。そうしたらそのフルートは少し綺麗に輝いた。私はそのフルートで吹奏楽部のアンサンブルを楽しんだ。みんなで音を合わせるのは純粋にワクワクした。

6年生になると上級生が抜けるので、私は綺麗なフルートを使うことを先生に認められた。
私はますます部活にのめり込み、お祭りやコンクールでフルートを吹き続けた。

そしてたまたま仲の良かった友達が市民楽団に入ることを知り、私も入団したいと思った。
だが私には自分のフルートがなかった。
私は父にフルートを買って欲しいとねだった。高価な買い物だということも分かっていたし、ワガママだということも分かっていたが自分が抑えられなかった。父は私のおねだりに今思えば半分飽きれていたのか、ボーナスを使って私の欲しいモデルのフルートをヤマハまで買いに連れていってくれた。私が生まれて初めて手にしたフルートは揺らぐ太陽のように輝き美しい音色を奏でた。

しかし私は市民楽団に入団したものの、小学校の終わり頃にはウツっぽくなってしまい、いつの間にか楽団にも部活にも行きたくなくなってしまった。

それからフルートは放置されたまま、30年が経った。

私は結婚し生活環境が変わり5年くらい落ち着かなかったが、生活のペースが落ち着いてきた頃
夫の友人夫妻のバンドからピアノを弾かないか?と誘いを受けた。私はバンドを組んだことがなかったので嬉しかった。そのバンドはフルートがメインのバンドだった。しかも既にライブの日にちまで決まっているという。私はバックでピアノを
弾く役目だったが、一曲だけ友人の奥さんの吹くフルートにハモッて参加することになった。実に私のフルートは30年ぶりの復活ということになる。
みんなで音を合わせるのはやっぱり楽しかった。
フルートを吹くのはこんなに嬉しいことだと実感させて貰えた。
そしてライブ当日は雨だったが、バンドの演奏は大成功だった。

そんな折、父が庭の剪定をしている時、高さ3メートルの梯子から落ちて入院をしたと母から連絡があった。私は病院に駆けつけたかったのだが出来ず、容態を母に聞くと父は心臓の血管がショックで狭くなり呼吸が苦しくなってしまったそうだ。

いままで病院と縁のない父が入院?

私は一気に不安になった。そして父が退院してから様子を見に実家へ行った。父は痩せて弱々しくなっていた。
父に「買ってもらったフルート、今でも大事にしているよ」そう伝えると父は「可愛がってあげてちょ」と小さな声で言った。「思い出を大切にするんだよ」父はそうも言った。父がそんなことを言うのは初めてだった。

父のこれからの健康がとても心配になったが、
その分私はフルートを大切に吹いて生きたい、と思う。父の心に届くような、澄んだ音色のフルートをずっと吹いていく。

お父さん、フルートを与えてくれて本当にありがとう。元気が出るよう祈っています。

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