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パクリかどうかばかりがニュースになったけども。

国際的祭典のロゴやキャラクターはこれまでも商標の酷い戦いがある。
それは、それだけ名誉とお金が絡んでるからだ。

中にはキャラクターの目が私が書いた線と似てるだろ!といって裁判になるとかもあったとか。
えーっていう話だったり、たしかになぁだったりしてきた。

リオ五輪のエンブレムはアメリカの慈善団体のロゴに似ていて話題になった。

東京オリンピックロゴでも同じように、商標攻撃はあるだろうなぁと誰もが思っていたが、突然でてきたのは意外なところだった。

ベルギーの劇場のロゴと似てるっていうのは、感覚的にみれば、半分くらい似てて、半分くらい違うみたいなところだろう。そもそもTという文字は世界中で認識する文字であり、こうした文字での認識させることをタイポグラフィーという。

文字に思いを込め、研ぎ澄ましたアートは極端にキャラクター化しない限り難しい。
ユニクロとかコカコーラとか企業名が明確なものとは別だ。
でもそれぞれ独自性あるタイポグラフィーでもある。


ちょっと厄介なのはタイポグラフィーアートの巨匠にヤン・チヒョルトがいる。実は一部のクリエイターのなかには、オリンピックロゴはベルギーのロゴよりもヤン・チヒョルトの企画展ポスター(Jan Tschicholdという頭文字のタイポグラフィー)に似てるというのが話題となっていたくらいに。


デザインとかクリエイティブとかは常にアップデートされ続けていく。

アートとの境目はわからないが、多くの情報から研ぎ澄まされて多くの人に届くように思いを込める。

だから
「コンセプトは真似ができない」

デザインを見る時はコンセプト、つまりストーリーが大事になる。
ストーリーによって生まれたか、模造されたかわかる。
結果独自性として発表されたはずだ。

今回、いやこれからはたいへん難しい時代になってきている。
コンセプトを理解することもなく、見た目を比較してしまうのはこの時代の利便性、ネットとデジタルの進化。

逆に言えば、今置かれてる立場はみんな平等だともいえる。

だから、当該のクリエイターだけが悪者にうつってはいけない。

もう一つの問題-----------------

承認欲求の中に正義という心がある。

たとえば
「あの人、蟻を踏んでいる」
という事実があったとしても、多くの人は気にとめることは困難である。
だが、たとえば憎しみがある人が声を荒げると、急激に悲しみが加速する。

「踏んでいるよ」ではなく、踏んでいるかどうか確認もなく「踏んではいけないんだ!」と扇動に変わるからだ。

あるとき声は扇動となり、そして暗示に変わる。

踏んでいなくても、踏んだことになる。それは確認ができないことが暗示によってコントロールされる。

ネットではいま顔の見えない人と、陣取りゲームが盛んのようだ。
私というイメージをよくするためになのか、自分のブランドを作っていく。
でも全部匿名というのが面白い。

それでは、我こそは君主とばかり声を挙げる。

そしてそれに群がる人、そして面白がる人。

承認欲求という間がみせる闇だ。


最後にクリエイティブとは--------
クリエイティブとは創造ではあるが、人間が創造できるものは限られる。

表現をするということは、さまざまなモノ・カタチが情報となってインプットされたものから生み出されていくもの。

まるで夢でもみるように創造の海にもぐってしまうと、現実感を失い、夢中でなにかをつくってしまう。その時は見た記憶からなのか、別な刺激なのか、それとも生み出されたモノなのかなんてだれも理解できない。

無我夢中というのはまさにその時であり、その結果うまれたものがクリエイティブな作品となる。
それを持ってすべて「模索」と捉えることも、「作品」と感じることも同じになる。

それでもそこには個性があり生まれ出てくる。

個性があったかな?という点でちょっと不思議な思いをしたと答えたい。

仮にスタッフが作ったとしても、それはネットから拾って夢中になれたのだろうか?単純に悪夢の作業をしていただけでクリエイティブを見失ってたんだろうなぁ。それを監視するのはネットではなくそのチームのリーダーである。

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無我夢中 (語釈)
物事に心を奪われて,我を忘れた状態になること。「―で逃げる」

夢中 ー(広辞苑)
自覚を失うこと。我を忘れること。

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佐藤みつひろ
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