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WEB Re-ClaM 第33回-2:未訳短編試訳⑦フランク・ハウエル・エヴァンズ「ジャッド・レーンの殺人」(その2)

前回掲載した「「ジャッド・レーンの殺人」(その1)」の後編を掲載します。入り込むことも抜け出すことも、また中に留まることもできなかったはずの行き止まり小路、ジャッド・レーンで発生した殺人事件。真相を突き止めるため、小路の空きテナントを借り受けたオールド・ポーレイ=ジュール・ポワレはいかなる真実に到達するか……
前編はこちらから→(https://note.com/reclamedit/n/nb669530b6d17)

(承前)

 不動産業者から鍵を受け取ると、彼はすぐにその屋敷に向かった。十八か月間借主のいなかった建物だけに必然的に荒れ果て埃っぽくなっていたが、ムッシュー・ポワレは早速居間と寝室の二間に必要な家具を送り付けた。その後数週間のうちに、ジャッド・レーンの隣人たちの間では三番地の屋敷を借りた太った老紳士の姿はすっかりお馴染みのものになった。
 朝、彼は窓を開け放ちジャッド・レーンでも既に受け入れられた「カナリアたちの合唱」を誘う美しい口笛のメロディーを吹き鳴らす。一番地と五番地に暮らす子どもたちはみな、甘いものをいつでもポケットから振る舞ってくれる太っちょのおじいさんのことを尊敬した。彼は、通りで見つかった男を殺したのは五番地に住むドイツ人のウェイターではないかという疑惑を警察に告げた機械工を含めて、通りの住人たち全員と親しくなっていた。
 五番地の一階で暮らしている小柄なお針子さえも、小鳥を愛する太った老紳士に挨拶し微笑みかける。彼女は毎朝八時にウエストエンドの工場へ出かけていき、そして夜の八時に再び帰ってくるが、毎度三番地の窓辺に腰かける老人に一礼し、微笑むのであった。
 この家に落ち着くとムッシュー・ポワレはすぐに、古い屋敷を上から下まで調査して回った。壁を叩いて音を聞き、自らのありとあらゆる知識を総動員してこの屋敷の中で殺人が行われたかを確認した。しかし徹底的な調査の結果、事実はその仮説と食い違うことが判明した。階段にも廊下にも室内にも、塵や埃が分厚く積もっている。正面のドアの鍵は固く錆付いている。つまり、この屋敷に誰かがいたとして、何らの痕跡を残さずに立ち去ることはできない。そのため彼は、ジャッド・レーン三番地は今回の悲劇とは繋がりがないと結論付けた。
 それでも彼は新しい部屋での生活を続け、段々と両隣の家の住人たちと親しくなっていった。夕暮れ時の時間が長くなり、太陽が明るくなってくる頃には、房の付いたスモーキング・キャップを身に付けた太った老紳士がポーチで大きな椅子に腰かけている様子は、見慣れた光景となっていった。時に彼はそこに座ったまま開け放った居間の窓に向かって口笛を吹き、愛するカナリアたちに声を揃えて歌うよう働きかけることもあった。彼が再び口笛を吹くと、隣家の子どもたちは大男が唇から紡ぎ出す素晴らしい音楽によって魔法を掛けられたかのようにポカンと口を開けたまま立ち尽くした。
「口笛はお好きかね、うむ」ある夜彼は自分の前を通り過ぎようとした小柄なお針子に声を掛けた。「ああ、うむ。あれはなかなかよく出来ているが、自然のものではない。いつも自分に言い聞かせるようにしている。私の鳥たちは見事に囀ることができる。あれこそ自然のものだ。良かったら見ていかないかね。家の外から覗いただけで、近くで見たことはないだろう。さあ、どうぞ」
「あら、本当ですの。窓から見て本当に素晴らしいと思っていましたわ。本当に素敵な小鳥さんたち!」お針子は答えた。実に美しいお嬢さんだ。暗い色のつやつやとした髪、真っ直ぐな鼻、素晴らしい形の口と顎。手も綺麗に保たれている。彼女は、独立独行の人間らしくすいすいと大きな歩幅で家の方に歩み寄った。
「おっと、少し、少し待ってくれないか」鳥かごが置かれた居間へと彼女を導いていたムッシューは丁寧な口調で言った。「蝋燭を持ってくるから少しだけ待ってもらいたい。この段差のところは少し暗い。足を踏み外して美しいかかとを挫いてしまうといけないから、私が明かりを持ってくるまで動かないようにしなさい」
 老人は玄関ホールのテーブルに立てられた蝋燭に火を付けると、慇懃な態度で腕を伸ばし、居間に繋がる二段の下り階段を彼女が降りるのを手助けした。彼女が降りている途中、ムッシュー・ポワレは軽くよろけてうっかり火のついた蝋燭をお針子の髪に軽く触れさせてしまった。しかし彼が稲妻のような素早さで蝋燭を吹き消したおかげで、髪の毛が燃えた微かな匂いと毛の房の先がわずかに焦げたという事実を除けば、大事にはならなかった。ムッシュー・ポワレは深々と頭を下げて謝罪し、そしてもう一度蝋燭に火を付けますよ、しっかり持っているようにするからと述べ、さらに今度は何らの問題も起こらないように適切な距離を空けた。
「大事に至らなくて本当に良かった」彼は言った。「マドモアゼルの髪に蠟燭の火を近づけるとは、アチッ、とんだ過ちを。でも、見たところ大事にはなっていないようだし、それにマドモアゼルはこんなことで機嫌を悪くしない素敵な方だ。さあ、小鳥を見てください」
 鳥たちは見事に芸を披露し、その後ムッシュー・ポワレはお針子を家まで送っていった。そして十時になると入念に鍵をかけて、のっそりと自分のフラットへ戻って行った。電話をした先はスコットランド・ヤードで、数分後にはドレイトン警部を相手に話をしていた。
「ジャッド・レーンの事件だがね、ドレイトン君」ムッシュー・ポワレは唸り声を上げた。「何か見つかったかな。見事な発見はあったかね」
「いえ」ドレイトンは答えた。「散々考え抜き、尋問をし、調査をした結果、あれは自殺だったという結論を付けようとしていたところです」
「確かに、確かにな。ドレイトン君」ムッシュー・ポワレは言った。「君の出した結論は、蓋然性が高い。自殺、なるほど。検出された薬物は、誰もが手に入れることができる、誰もが購入できる、そういう毒物だったということだな」
「まさに然り、適切な分量を服用する限りでは何ら害のない物質です。この新しい薬品は「ノーマ」という名前で呼ばれています。アヘンチンキに似ていますが、そこまで強力ではありません。毒劇法の範疇に入る代物ですが、半ダースも薬局を回れば人ひとりを殺すのに十分な分量が手に入ります」
「うむ、うむ、良く分かった」ムッシュー・ポワレは言った。「実は今ちょっとした事件に関わっていてね。もし良ければ助けてもらえないだろうか。君のところは優秀なスタッフが揃っているからね、ドレイトン君。ピエール・ゴードンという、数年前にちょっとした財産をもって引退したミュージック・ホール芸人が今どうしているか知りたいのだ。うむ、五年前だ、ドレイトン君」
「ピエール・ゴードンですって? ええ、覚えています。目端の利く頭の切れる奴ですね。はい、ミュージック・ホール仲間と話をして、奴の痕跡を辿るのはごく簡単なことです」
「おお、うむ、善良なるドレイトン。君はいつでも親切な男だ。ついでにもう一ついいかな。ドレイトン君。ムッシュー・ピエール・ゴードンの友人と話をするときに、彼にふ、ふ、英語では何と言ったかな、そうだ、風変わりな特徴や傷のようなものがなかったか聞いてもらえないか。彼とは一度会ったことがあるのだが、その時はじっくり観察する暇がなかったのだ」
 約束したドレイトンが電話を切ると、ムッシュー・ポワレは安楽椅子に座り直し、腹の上で掌を打ち鳴らしニッコリと微笑んだ。
「善良なドレイトン!」彼はそっと声を出した。「自殺ね、ふむ。自殺者が賢明なソーンダーズの後ろをつけていき、戸口のところで死体が見つかるように仕向けたというのか? 善良なドレイトンは医者が死は三時間半前にもたらされたと言ったことを忘れている。まったく、善良なドレイトン、この事件は君には荷が重い。せいぜい自殺として事件を解決したような気になっているといい」

 ムッシュー・ポワレはジャッド・レーンに戻った。二日後、彼はドレイトンからピエール・ゴードンは引退して以来ブリクストンで静かに暮らしているという報告を受け取った。彼は同業者の中では非常に人気があり、約一月前にロンドンを発ってパリに出かけたという。友だちが覚えている限り、彼の体で際立って特徴的なのは、事故のせいで左手の小指の第三関節が内側に巻いていることだという。
「ふむ」ムッシュー・ポワレは満足そうに深くため息を吐いた。
 翌朝、子どもたちが学校へ行き、男たちが仕事に出かけた後、女たちだけが居残っている通りで、ムッシュー・ポワレは愛するカナリアたちの一羽を短い棒に止まらせて舗道まで出ていった。快活に口笛を吹き鳴らしながらウロウロと歩き回っていた彼は、五番地に暮らす女たちがそれぞれバスケットを携えて市場に向かうのとすれ違った。「一、二、三!」とムッシュー・ポワレは数え上げた「四。これで最後だな」と彼は内心呟き、四番目の女が階段を下って買い物に行くのを見送った。「もういいぞ、モナミ、ナポレオン、籠に戻っていなさい、さあ!」
 口笛で風変わりな音色を吹いて棒を軽く振ると、カナリアは開いた窓の方へ飛び去って行った。辺りを見回したムッシュー・ポワレは、その巨体に似合わぬ素晴らしく滑らかで軽やかな動きで五番地の戸口まで移動するとポケットから長くしなやかな鋼の器具を取り出し、一階の一番手前の部屋の鍵に差し込んだ。軽く押し込み手首を返すとドアは開き、ムッシュー・ポワレはお針子の部屋へ滑り込んだ。
 寝室兼居間の一間はすっきりと片付けられていて、職業婦人の部屋として相応しいものだと思えた。鋼の器具で鍵を掛け直すと、ムッシュー・ポワレは驚くほどの素早さと訓練された探偵の正確さでタンスや部屋の隅を調べ始めた。苛立ちが顔に現れ始めたところからも、彼が望みの物を見つけ出せずにいるのは明らかだった。尋常でなく素早く細やかな指先で抽斗の中身を確認し、元の通りに戻した彼は、次にベッドを調べ始めた。ここでも、彼の調査は報われることがなかったが、次に調べた枕でついに当を得た。揺さぶり、手触りを試し、そして耳を当てて音を聞く。枕をギュッと搾り上げてそれを摘まみ上げると、今度はグッと押し込んだ。ポケットから取り出したペンナイフで端を切り裂き、手を内側に突っ込んで引っ張り出したのは付け髭と小瓶であった。そして針と糸を取り出して器用に枕カバーに開けた穴を縫い上げる。部屋からするりと抜け出して再び鍵を掛け、誰にも見られぬうちに自分の家に帰還した。
 その後、ムッシュー・ポワレは食事と睡眠、それから座り込んで鳥の世話をすること以外何もしていないように見えた。しかし彼の力強い脳髄ではあらゆる事実が組み合わされ、素晴らしいモザイク模様が紡ぎ出されていたのだった。
 お針子が家に帰ってくる午後八時になると、ムッシュー・ポワレはポーチで待ち受けていた。
「今晩は、マドモアゼル」彼は慇懃に声を掛けた。「美しい髪は元通りになりましたか」
「あら、ありがとうございます。ポーレイさん」という応えが聞こえた。「私、明日ここを発ちますので、もうあなたにお目にかかることはありませんわね」
「明日いなくなるですって! なんとなんと、この通りから太陽が欠けるようなものですよ」
 お針子はニコリと笑いかけると自分の部屋に引き取った。ムッシュー・ポワレはその後もポーチで煙草を喫いながら待ち続けた。15分ほど経つと、ドイツ人のウェイター、グッゲンハイムが細長いイタリア製の葉巻を喫いながら歩いてきた。昼間しっかり働き、夜になってやっと休憩ができたという雰囲気をまとっている。
「今夜はお休みなんですな、ヘル・グッゲンハイム」ムッシュー・ポワレは尋ねた。「ちょっとした休暇といったところですかな、ふむ」
「まあ、そうだ」ウェイターは答えた。横顔にうっすらと頬髯を生やした青白い顔の男で、その言葉には強いドイツ風の訛りがある。「まあ、そうだ。休暇だ。がっちり働いて多少の小金ができたんで、ドイツにすこうしばかり帰ることにしたんだ。まあ、ええ、明日出発すんだ」
「明日ですと!」ムッシュー・ポワレは言った。「おやおや、それでは別れの一杯と洒落こもうではありませんか。入っていらっしゃい、ウィスキーがあるんですよ」
「いやあ、ありがてぇ」ウェイターは応えた。
 彼は、ムッシュー・ポワレの後について鳥籠の置かれた居間へ入った。探偵がドアを閉める時、良く油を差した錠が微かにカチリという音を立てて掛かったが、片手にソフト帽を抱え、もう一方の手で長い葉巻を持っていたウェイターには聞こえなかった。
「おっと、帽子をこちらへ、ヘル・グッゲンハイム」ムッシュー・ポワレは言った。
 そして、帽子を受け取ろうとして前に出る動作と併せて、ほとんど目にも止まらぬ素早さで右手を尻ポケットに走らせた。次の瞬間にはグッゲンハイムはまるで催眠術にかかったように、太った男が眉間に突き付けているリボルバーの銃口を見つめているばかりであった。
「よろしければ、そちらの椅子に掛けたまえ」柔らかく絹のように滑らかな声が聞こえる。「ジャン・ガルニエ殺しについて、ちょっと話をしたいと思ってね」
「ジャン・ガルニエ殺しだと!」ウェイターは疑わしげに繰り返した。「ジャン・ガルニエ! あんたの言っていることがさっぱり分からねえな、ムッシュー」
 ムッシュー・ポワレはゴクリと喉を鳴らし、左手で上着のポケットを手探りした。
「ピストルで君の頭を狙っているのは疲れるのでね、このお飾りを使わせてもらうよ。君が望むならドイツ語で話したってかまわないのだよ」
 何をされたか理解する間もなく、ウェイターは手錠で繋がれてしまった。ムッシュー・ポワレは椅子に腰かけて彼の囚人に向かい合った。
「実に、実に見事な腕前だろう、我が友よ」彼は言った。「さて、君がパパ・ポワレに黙っていることは何かな」
 椅子に繋がれた男は可能な限り肩を竦めてみせた。
「後でたっぷり後悔するといいや。これは傷害事件だぞ。あんたは頭がおかしいのかい、んん?」男はドイツ語で言った。「俺が殺したとあんたが言うジャン・ガルニエっていうのは誰のことだ? 外へ出たらすぐに警察に通報してやるからな」
 ウェイターは激昂し椅子から立ち上がらんばかりだったが、ムッシュー・ポワレは親指で彼を押し込み、元通りに座らせた。
「君が警察に通報することはない」探偵はドイツ語で静かに語り掛け、「そんなことをすれば後悔するのは君の方だ」と強調した。「しかし、君がなお私に迷惑を掛けようというのであれば、ジャン・ガルニエについてのちょっとしたお話をしてあげよう。そうすれば、君も警察に行こうという気が無くなるだろうからね」
「金を払わせてやる!」ドイツ人の言葉に、ポワレはただ微笑み平静な声で語り始めた。
「ジャン・ガルニエというのは、数週間前にこの屋敷の外で見つかった死体の名前だ。なぜ分かったか知りたいかな? 教えてあげよう。謎めいた殺人の噂を聞いた。私は謎が大好きなんだ。それで、私の友人の検死官に頼んで、陪審員団の陪審員長として召喚されるようにしてもらったのだ。私のタイピンには小さなスパイカメラが仕込まれていて、死体安置所に置かれた死体の顔を撮影した。ネガを引き延ばしてじっくり観察したところ、頬に残った微かな線や痕跡からつい最近付け髭をしていたことが分かった」
「馬鹿げた話を!」ウェイターはもごもごと口を動かした。「帰らせてもらうぜ」
「まあまあ、黙って聞きなさい。私は変装について何でも知っている。だからドレイトン警部や他の人々が知らないこと、つまり死者が大きな付け髭を付けていたことも分かった。この痕跡は特徴的なので、写真を引き伸ばせば(私にならば)簡単に見分けることができる。次に私は死者の顔を画布に写し取り、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、それからもっと色々な髭を付け足したものを描いてみたのだ。そしてやっと、正しい髭を見つけた。二十年ほど前、私が彼を、ジャン・ガルニエを知っていた時に生やしていた髭に辿り着いたのだ」
「あり得ねえな!」ウェイターはせせら笑いながら言った。「しかし面白いぞ爺さん、あんたの嘘は。続けな。しかし金を払うことに変わりはないぜ」
「おかしなことなど何もないさ」ムッシュー・ポワレは穏やかな口調で言った。「私は人間の顔を鼻と額で認識している。変装で付け髭をしていると分かった時、彼に似合うぴったりの髭を書き足してやることにしたのだ。すぐに、旧知のジャン・ガルニエだと分かった。手元に残してある帳面で記憶を新たにすることで、彼がどんな悪人か思い出したというわけだ。彼は無政府主義者であると同時に何にでもなれる男だった。かくして、警察にもできなかったことができたことが分かったのだ。私は殺された男の名前を知った。ジャン・ガルニエがそれだ」
「面白い話だが」椅子の上で蠢きながらウェイターは言った。「しかし、俺とは何の関係もないな。これで終わりなら帰らせてもらうぜ。気を悪くしないで欲しいがあんたはボケ老人だ。金はきっちり払ってもらうからな」
「さて、それでは誰がジャン・ガルニエを殺したのか」男の茶々を無視してムッシュー・ポワレは話し続けた。「彼は無政府主義者だ。おそらく敵もいただろう。私は彼の腹心の友にして無政府主義者の兄弟であったウェイターのムッシュー・ジャック・ボータンから話を聞いた。彼はピエール・ゴードンの話をしてくれたよ。私もガルニエ裁判に居合わせたので知っているのだが、彼は妻殺害の容疑を受けながら無罪放免になったジャン・ガルニエを殺してやると脅して法廷から放り出されたピエール・ゴードンとまさに同一人物であった。ボータンが私に話してくれた事実を受けて、私はこう考えた。「ピエール・ゴードンがジャン・ガルニエを殺した。次はピエール・ゴードンを探せ、ポワレ」と。それでこの家に残った手がかりがヒントになりはしないかと考えて、何年か前にジャン・ガルニエが借りたこの屋敷を借りたという訳だ。「おお、なるほど」と私は考えたよ。「男の死体は、己の妻を殺したまさにその屋敷のドアの前に転がっていたということか。感傷、ああ、なんと美しい感傷だろう。殺人者は男を、妻を殺したまさにその屋敷の戸口に配したのだ。うむうむ、なるほど、なるほど。ピエール・ゴードン、やはりピエール・ゴードンに違いない」と思ったのさ。できるものならこういう風に感傷的なやり方で復讐を果たしてみたいものだと思わずにはいられなかった。だからこう考えた。「では急げ。走れ。ピエール・ゴードンを見つけて、彼の言い分を聞かなければ」と。私はピエール・ゴードンに尋ねようと思う。「君がジャン・ガルニエを殺したのだな。教えてくれ、どうやって、そしてなぜ」と」
「いい加減にしろ!」ウェイターは怒りをぶちまけた。「それ以上喋ったら警察に怒鳴り込んでやるぞ。話を聞く限り、あんたはピエール・ゴードンをジャン・ガルニエ殺しで挙げたいようだが、奴を探す代わりに俺を椅子に縛り付けている。なあ、爺さん、あんたは狂ってる」
 ムッシュー・ポワレは前屈みになると、もう一度ウェイターを椅子に押し戻した。
「私が君を縛り付けているのは、ヘル・グッゲンハイム、なぜなら君がピエール・ゴードンだからだ。間近で見てみると実に良くできた変装だな。しかし、パパ・ポワレを騙すことはできませんぞ」
 老人が手を前に伸ばし、ウェイターのブロンドの眉毛を素早く引っ張ると、その下から黒い眉毛が現われた。続いて金髪のカツラがはぎ取られ、短く刈られた黒髪の頭が露わになった。
「俺は俺の都合でカツラを付けているんだ」ウェイターは言い募った。「それを見破ったくらいで、俺をピエール・ゴードンだと決めつけることはできんぜ」
「おやおや」ムッシュー・ポワレは微笑んだ。「それでは、ジャン・ガルニエの付け髭と、彼のウィスキーに入れられた毒が入った小瓶を見たら何を言うか試してみようか、ふむん。私がこれらを小柄なお針子の部屋の、枕の中から見つけてきたと言ったらどう反応するかな。さあ、どうする。ムッシュー・ピエール・ゴードン?」
「なんてこった、いかれてやがる」ウェイターはかすれた声を出した。「あんたはどこかから何かを見つけだして、それで俺をピエール・ゴードンだと証明したと言いたいのか。はっはっは。俺もあんたのように気が狂ってしまいそうだぜ」
「そうだな。そして、この話を聞いたらますます困惑することだろう。すなわち、ドイツ人のウェイター、ヘル・グッゲンハイムとピエール・ゴードンと、そして小柄なお針子、この三人が同一人物だと聞かされたらね。どう思うかな、ムッシュー・ピエール・ゴードン。私はまだ、そこまで狂ってはいないと思うね、多分。パパ・ポワレは正気を保っている。さあどうだ」
 椅子に座った男は居心地悪そうに体を蠢かせた。容貌は落ち着きなく変化していたが、ふと半笑いになり、そして訛りのないフランス語で話し始めた。
「分かった。降参するよ。俺はピエール・ゴードン、別名グッゲンハイム、別名お針子だ。しかしあんたどうやってこのことを探り出したんだ、ムッシュー・ポワレ」
「つまり、君は自分がジャン・ガルニエを殺したことを認めるのだね」ムッシュー・ポワレもまたフランス語で語り掛けた。
「あんたの目には、俺が奴を殺したと映るんだろうが」というのが答えだった。「俺にしてみれば、あれは処刑だ」
「ふむ、ふむ、なるほど」ムッシュー・ポワレは呟いた。「君がそう言うならそうなのだろう。よく理解できた、少なくとも私はそう思う。全部話してくれるかね。もしかすると、君を助けることができるかもしれない」
「ちっ、まったく」ピエール・ゴードンは肩を揺すった。「もう全部言ったようなもんだがね。ジュリーを殺った奴に死を送り付けてやったんだ、心安らかに死ねらあ。そうだぜ、ジュリー、可愛いジュリー、自分の子どもみたいに愛した彼女は俺じゃなくあのクソ野郎と結婚したが、奴はあの子を殺したんだ。コーヒーを飲みながら、奴はあの子を殺したことを自慢していやがった。奴はおかしくなって、彼女に飽きちまって、それで毒入りウィスキーを飲ませて殺したんだ。彼女は、俺のジュリーは一滴だって酒を飲まなかったのに! 奴はジュリーが飲みすぎた、と証言した。死んだ夜、あの子は歯痛で苦しんでいて、それを少しでも和らげようとウィスキーを飲んだ。それが審問で採用された証言だった。だが本当は、その方がいいと言って、奴が無理やり飲ませたんだ。奴はこのことを俺の知り合いにべらべらしゃべった。俺がその知り合いから話を聞いたのは、裁判のずっと後、大陸のミュージック・ホールで偶然会った時だったが」
「その知り合いというのは、ジャック・ボータンのことかな」
「そうだ」ピエール・ゴードンは続けた。「あいつはずっとガルニエのことを恐れながら生きてきた。ガルニエの奴が、自分の秘密を喋ってしまったと気が付くんじゃないかってな。それから、ガルニエは俺につけ回されていることに気が付いた。芸人のキャリアを諦めた後、俺は昼も夜もなく奴のことを探した。俺の可愛いジュリーを殺した奴をこの手で殺してやると誓って。奴がソーホーのとあるカフェに入り浸っていると聞きつけて、俺はすぐにウェイターの職を手に入れた。俺のことを聞いてビビって始めた付け髭はなるほど巧みな変装ではあったが、俺にはすぐに分かったよ。しかし奴には俺のことは分からなかった。やれやれ、演技が巧すぎるのも考え物だな」
 ムッシュー・ポワレは微かに笑った。
「俺たちは知り合いになっていった」ピエール・ゴードンは続けた。「無政府主義者、そして公共の敵に成りすましたんだ。友達になった。仕事が休みの日には一緒に出掛けた。奴は俺のことを何度も訪ねてきた。グッゲンハイムのところに髭の男がやってくることは周知の事実になった。奴が最後に訪ねてきたのは、何年も前に可哀想なジュリーが毒殺された祥月命日の夜だった。俺たちは無政府主義について、その他様々なことを話した。そしてウィスキーを出したんだ。その中には簡単に入手できる毒物、ノーマが注ぎ込まれていた。奴が飲み込むのを待って、俺は自分の変装を剥ぎ取り、奴の顔を睨みつけながらこう言った。「ジャン・ガルニエ、お前はジュリー・ガルニエを殺した。俺はピエール・ゴードンだ」と。奴がくたばるまで、俺は言葉を投げつけ続けた」
 ムッシュー・ポワレは袖口に鉛筆で何かを書きつけていた。
「そして君は彼の死体を家の外に放り出した……どうやって?」彼が尋ねると、「単純な話だ」とピエール・ゴードンは続けた。「まず、俺は奴の付け髭を取って、俺のことを訪ねてきた男だと分からないようにした。俺には警官連中が何を考えるか手に取るように分かる。死体は三時間半ほど俺の部屋に転がしておいた。警察官が通りをやってきて、戻って行ったのを確認すると、ジャン・ガルニエを苦もなく担ぎ上げて、奴が可哀想なジュリーを殺したその家の戸口に転がしてきたのさ。それから俺は自分の部屋に駆け戻り、警察官に起こされるまで眠った。俺は痕跡を全部消したつもりだったし、己の正義を達成したことで満足していた。俺の正体が暴かれるなんて思ってもみなかったぜ」
「君にも直に分かるだろうが、ムッシュー」ムッシュー・ポワレは言った。「私は探偵だ。かつてはフランスの諜報機関に勤めていた。この事件に公的な立場で携わっている訳ではないが、君がジャン・ガルニエ殺しの件で逮捕されるということを伝えておくのは私の義務だと思う」
「分かってるさ、ムッシュー。しかし俺は上手くやったと思う。もし良ければ、あんたが俺よりどういう風に賢く立ち回ったか、教えてもらえないか」
「構わんよ。ピエール・ゴードンがジャン・ガルニエを殺したに違いない、という考えは私の中ですぐに固まった。そして、常識的に考えてガルニエがここ以外のどこかで殺されたとは思えないので、この通りの家にピエール・ゴードンが潜んでいるに違いないと考えた。慎重に見張りを続ける中でな、ムッシュー、どうも妙だなと思ったのだ。お針子が昼間の仕事に出かけた時には、ヘル・グッゲンハイムも家におらず、ウェイターが夜の仕事に出かけた時には、お針子も家にいない。彼女はたった半時間前にウエストエンドでのきつい仕事から帰ってきたばかりのはずなのに」
「さらに、ムッシュー、私はお針子が工場へ出勤するのではなく、ウエストエンドのビジネス街の建物に入ったフラットに通っていることを突き止めた。そこで、ジャッド・レーンに帰る頃合いまで時間を潰しているのだ。そのフラットを借りているのがピエール・ゴードンなる人物であることはすぐに分かった。ピエール・ゴードンの内側に巻いた左手の小指は、ヘル・グッゲンハイムにもお針子にも共通していた。また、お針子はカツラを付けていた。この事実は、蝋燭を用いることで簡単に確認することができた。人工の髪の毛の燃え方は、天然自然のものとは異なるからな。これらの事実が揃ったことで、ヘル・グッゲンハイムとお針子がピエール・ゴードンと同一人物であることが私の目に明らかになったのだ」
「素晴らしい、素晴らしいね、ムッシュー」ゴードンは褒め上げた。「自分のフラットでは、変装したり、あるいは素のままで過ごしたりしたよ。しかし、ガルニエの付け髭と小瓶を、お針子の枕からどうやって見つけたんだ」
「私は、自分で開発した合鍵でお針子の部屋に忍び込み、室内を徹底的に調査した。その中でいくつかの事実を知ったが、まず前々から考えていた通り、早着替え用の衣装はごく薄い布地で作られていた。そしてそのおかげで二つ目の事実、すなわち君がミュージック・ホールの舞台において優れた才を発揮していたということを思い出すことができた。ヘル・グッゲンハイムの早変わり用の衣装がお針子の部屋に置かれている。これは大きなミステイクだよ。そして、付け髭と小瓶を見つけたことで、証拠が揃ったという訳だ」
「誉め言葉をいくつ並べても足りないよ、ムッシュー」ゴードンは言った。「そして俺に残されているのはギロチン、あるいはここはイングランドだから絞首台だけということも分かった。ああ、俺がジャン・ガルニエを殺した。俺は奴の死体を家の外に軽々と放り出すとベッドに戻って就寝した。ウェイターとお針子の二重生活は実に簡単なものだ。警察がドレッシング・ガウンを身にまとい、肩にかかるほど長い黒髪のお針子を調べ終わると、排水パイプをよじ登って、開けておいた裏窓から自室に入り込み、グッゲンハイムに成りすまして尋問の準備をする。ムッシュー、俺はいつでも緊急事態に備えていたんだ。ジャン・ガルニエ殺しの犯人だと決めつけられた時のために。この家の住人達にも感謝しないと。みな善人で気安く、よく働く連中だ。彼らがお針子やウェイターのことを疑ったことはなかっただろう」
「しかしなぜかな、ムッシュー・ピエール・ゴードン」ムッシュー・ポワレは彼の言葉を遮って言った。「なぜ、お針子とウェイター、二つの偽の身分が必要だったのか。ウェイター以外の迷彩がなかったとしても、ジャン・ガルニエを扱うことはできたのではないかね」
「できただろう」ピエール・ゴードンは答えた。「ああ、そうだ。俺ならできた。なぜなら俺は強い男だからだ、ムッシュー・ポワレ。さもなければ、男の死体を担いで階段を降りることなどできはしない。だがもし、もしだぞ、ムッシュー・ポワレ。グッゲンハイムに追手が掛かったらどうする。もし彼が疑われたら? そんなときにはほら、俺の早変わりの技でたちまちお針子に化ければいい。グッゲンハイムは消え失せる。黒衣の小柄な女を疑う者はどこにもいない。そしてしばらくしたら彼女もまた消え失せるのさ。さてムッシュー、質問がなければもう行こうぜ」
 ポワレは立ち上がり、手錠を外した。しかしその瞬間、半分開いた窓の外を人影が通り過ぎた。彼は素早く隣の部屋に通じている扉を開けると、再び手錠を嵌められたゴードンをそこに押し込んだ。
「静かにして、ここに留まっているのだ。まだ伝えなければならないことがあるのでね」彼は急いで付け足した。
 扉をノックする音が聞こえ、ムッシュー・ポワレはドレイトン警部を迎え入れた。
「なんだってこんな屋敷を借りたんですか、ムッシュー・ポワレ」警部は言った。「あなたがここに引っ越したという知らせを読んで驚きましたよ。暇つぶしに殺人犯を探そうという訳ですか?」
 ムッシュー・ポワレは照れくさそうに笑った。
「私はあの醜い死体を作り出した人間が絞首台に送られなければいいと思っているよ、ムッシュー・ドレイトン」彼はゆっくりと口にした。「私、パパ・ポワレがここでしばらく暮らすのは節約のためなのだ。ご存知かどうか、ムッシュー・ドレイトン、アデルフィのフラットというのは金が掛かる。それに私は今では公職からは離れている、特にイングランドではね」
「それこそ、私があなたの元を訪れた理由なのですよ、ムッシュー・ポワレ。これは非公式な話ですが、我々の調査で浮かび上がってこない事実をあなたなら掴めるのではないかと思うのです。我々の報告書には我々が掴んだ情報が書かれます。しかしそこに載らない事実があるのも分かっています。よろしければ、来週改めてお目に掛かれませんか」
「構わないよ」ムッシュー・ポワレは答えた。「またちょっとした仕事をするのも悪くはないだろう」
 ごく短い時間、二人は言葉を交わし、ドレイトンはムッシュー・ポワレと来週会う約束をして帰って行った。
 スコットランド・ヤードの有名な刑事が帰っていったあと、ムッシュー・ポワレが寝室の扉を開くと、手錠を掛けられたゴードンは椅子に座っていた。
「それでは、わが友よ」ムッシュー・ポワレはフランス語で話し始めた。「話し合おうじゃないか。君と私で、人間と人間としてな。私も、理の是非にかかわらず、君と同じように行動するだろう。君はその女を愛した。彼女は他の男と結婚したが、君は変わらず彼女に純粋な愛を捧げ続けた。たとえ、彼女がそのことを知らなかったとしても。悪い男が彼女を殺し、君はその男を殺した。私はフランス男だ。私も同じことをするに違いない。しかし同時に、私は法の側の人間であり、給与を支払う政府に対して仕えることもまた私の義務だ。たとえ今の私が、給与の支払いを受けていなかったとしてもね。君に正義の裁きを受けさせることは、私の国家への愛から生じる義務に違いない――しかし、事実として君はジャン・ガルニエを殺してはいないのだ!」
「俺がジャン・ガルニエを殺していないだって!」
「そうだ。さあ、聞きたまえ。ガルニエが君を訪ねてきたのは何時だね?」
「おおよそ午後九時だろう」
「君が奴に毒入りのウィスキーを飲ませたのは何時だね?」
「九時半過ぎ――死んだジュリーが発見された時間だ」
「そして奴が死んだのは何時だね?」
「五分以内だな。一口飲んだのを見て、俺は変装を解いて奴に言ったんだ。「ジャン・ガルニエ、俺はピエール・ゴードンだ」と。一目見た奴は半分飲んだグラスをテーブルに置き、椅子に沈み込んだ。顎がガクンと落ち目が飛び出て、三秒後には死んでしまったと思う」
「しかしな、わが友よ。奴は心臓発作で死んだのだ。検死審問の時に医師に聞いたところでは、奴の心臓は弱っていた。あまり道徳的とは言えないかもしれないが、君が与えたショックによって奴の死期が早まったというだけで奴を殺したのではないとも言える。件の毒は効き始めるまでに三十分以上かかる。君は奴のことを殺そうとしていたかもしれないが、厳密には君が手を下したとは言えない。またこのようなことを言うのは法の拡大解釈かもしれないが、結局のところジャン・ガルニエはフランスでは別の犯罪で指名手配されていて、ギロチン刑に処せられるところであったし、彼がそれを免れ得るとは考えられなかった。フランス男でありそれ以前に人間である私は、君を、ピエール・ゴードンをその行動によって称賛する。それを間違っている、歪んでいる、愚かであるというのは確かに正しい。だが、同時に非常に人間的だ。握手しようじゃないか、ピエール・ゴードン。そして、君は君の道を行くがいい」
 ムッシュー・ポワレは手錠を外してやり、扉の方を指さした。ピエール・ゴードンはしばらくの間、顔をくちゃくちゃにして座り込んでいたが、実にフランス人らしくムッシュー・ポワレの体に腕を回すとその両頬に口づけをして感情を表現した。
「俺、行きます」彼は言った。「そして、ムッシュー・ポワレのことを一生忘れんでしょう」
 太った老人はピエール・ゴードンが扉をくぐるところを、そしてストランドへの角を曲がる自由の身となった男のことを見守った。お針子でもウェイターでもない彼は、二度とジャッド・レーンに帰ることはないだろう。
 ムッシュー・ポワレは居間へと戻り、日記帳の真っ白なページに最新の経験を丁寧な筆致で書きつけた。
「それでは、可愛い坊やたち」ペンを置いた彼は言った。「パパ・ポワレに歌を聞かせておくれ」
 太った老探偵がカナリアの籠の扉を開けてやると、黄色い鳥たちは一羽一羽次々に飛び出して差し出された木の棒に飛び乗った。偉大なる犯罪捜査官は何もかも忘れたように、半目を開きながら椅子の背に寄りかかって小鳥たちの美しい旋律に耳を傾けた。
「信じているさ」彼は眠そうな声で言った。「この世界も決して悪くはないものだと。さて坊やたち、おうちに帰るんだ。パパ・ポワレも眠ることにしよう」
 数分もしないうちに長々としたいびきが響き渡り、偉大なる探偵は眠りに就いたのであった。



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