WEB Re-ClaM 第33回-1:未訳短編試訳⑦フランク・ハウエル・エヴァンズ「ジャッド・レーンの殺人」(その1)
実に久々に未訳短編試訳を掲載します。本編は、1909年10月から1910年2月にかけてザ・ニュー・マガジンで全五回連載された「オールド・ポーレー(Old Pawray)」シリーズの第一作で、元々Re-ClaM 第6号の「シャーロック・ホームズのライヴァルたち」特集のために用意していた短編でしたが、分量がかなり多くなってしまった(25,000字)ので、泣く泣く掲載を断念。WEB Re-ClaMでの掲載に切り替えることになりました。
本編の探偵役、「オールド・ポーレー」ことムッシュー・ポワレは、フランスの諜報機関で働いていたが今は引退してロンドンで暮らしています。フランス語交じりの慇懃な口調を含めた各種設定は、アガサ・クリスティーが名探偵エルキュール・ポワロを創造する参考にしたのではないかとも言われています。個人的には、太りすぎで歩くのにも難儀するが、安楽椅子に座ったままロンドン中の犯罪を睥睨する巨漢探偵という設定は、シャーロック・ホームズの兄マイクロフトを参照したのではないかと推測しています。
作者のF・H・エヴァンズは1867年生まれ。ウェールズ生まれで、多くの雑誌で短編を掲載された売れっ子作家でした。「オールド・ポーレー」シリーズの他、セクストン・ブレイク譚でも人気を誇ったそうです。なお、本編が雑誌に掲載された時に付けられたイラストはソーンダイク譚のイラストで有名なH・M・ブロックのものであったとか。実際に見てみたいものです。
Ⅰ
「なんてこった、死んでいるのか」
命なき人体に唐突に、そして思いがけず直面した時に誰もが感じる無意識の恐怖から巡査J413号は一歩身を引いたものの、次の瞬間には自らを律してアデルフィ・テラスのすぐ近く、ジャッド・レーンの賃貸住宅の前の手すりに寄り掛かって動かない男の姿をランタンで照らし出した。
最初、巡査はその男は酔いつぶれているのだと思った。一方の腕を手すりの上にグロテスクな形で伸ばし、頭を片側に倒し、足をぐにゃりと曲げていたからだ。警察官らしい善良な気質と深夜一時半に気持ちよく眠っている酔っ払いに不快な思いをさせたくないという気持ちから、彼は肩をつかんで一二度揺さぶって家に帰った方がいいぞと声を掛けるに留めた。ところが男はピクリとも反応せず、そこで初めてランタンの光を向けたところ、死者の白い顔が、ガクリと開いた顎が、見開いたままの目が、そしてその名状しがたき容貌に焼き付けられた恐怖がはっきりと見えたのであった。
間違いない。この男は死んでいる。
巡査J413号は職務上様々な形で訪れる死をよく知っていたが、ここに存在するのは間違いなく恐怖の王であった。手すりから滑り落ちそうな腕に軽く触れると、死体はまるで骨がないかのように無惨に崩れ落ち、肉の塊は戸口の隅に折り重なった。巡査J413号は口元に呼子を引き寄せると思い切り吹き鳴らした。数分後にはストランドと近辺の通りから、警察官たちが現場に駆け付けた。その中には巡査部長もいた。彼らはみな手すりの横にくずおれた死体に視線を注いだが、巡査部長は全員を下がらせた。
「警部補殿が間もなくいらっしゃる」と彼は言った。「誰も死体に触るんじゃないぞ」
地味な制服をキチンと身に付けた、細身の体格で油断のない雰囲気の警部補は、巡視の途中で呼び出されて現場に駆け付けたのだが、すぐに手慣れた様子で死体を検めた。
「死んでいる」と彼は言った。「死後硬直はこれからだろう。すなわち死んで間もないということだ。君がこの男を発見したのはいつのことだ、ソーンダーズ」
J413号、またの名をソーンダーズ巡査は知性的な警察官の見事な見本であり、簡潔にかつ明確に証言した。ジャッド・レーンは実際には通り抜けできない一方通行路である。レーンという名称は、かつてここがストランドと繋がっていたという事実の名残に過ぎない。ここには三軒の家があるだけで、その行き止まりはリージェンシー劇場の裏手の壁でふさがれている。三軒の家の向いにもまた高い壁が立てられていて、その向こう側はリージェンシー劇場の道具類が保管されている区画になっている。細い通りがこの壁と三つの家の手すりの間を走っていて、通りの暗い片隅で警察官に邪魔をされることなく短い眠りを貪るロンドンに生きる不幸な家なしの放浪者たちがそう頻繁に訪れることのないように、通りの一番奥には大きなガス灯が掲げられている。
「通りの端まで歩いてみたのですが、」とソーンダーズは説明した。「リージェンシー劇場の裏手には誰もいませんでした。荷物置き場の方も同様でして、さらにその時家の外には誰も出ていませんでした」
「よろしい」と警部補は鋭く遮った。「それで、どのようにしてこの死体に出くわしたのかな」
「はい、通りを五十ヤードほど行ったところで、マッチを落としたことに気が付きました。ジャッド・レーンでランタンに火を入れましたので、おそらくそこで落としたのだろうと思い引き返したら、死体がここにありました。おそらく、この家のいずれかを訪れた客が飲みすぎて倒れたのだろうと思ったのですが、このまま外に置いておくのも気の毒だと考え、肩を揺すってみたところ死んでいることが分かったのです」
「そうだ、死んでいた」と警部補は言った。「ジャーヴィス、メルコーム、救急車を呼んでこい。それから巡査部長、君は一番地を確認してくれ。私は五番地を確認する」
警部補と巡査部長は、それぞれの家の扉を住人全員が起きてくるまで叩き続けた。昔ながらの広々とした住宅は今では切り分けてアパートとして貸し出されていた。ロンドンではこういった住宅がいくつも見つかるが、今やほとんどスラムとなってしまっている。しかし、どちらの住人達も当夜友人や客人が訪ねてきていないと主張していたし、それに死体が戸口で発見された三番地の家は、もう何か月もの間空き家のままであった。
「よろしい、では」と救急車に乗って戻って来た二人の警察官に警部補は命じた。「死体を運べ。私は分署に戻って、その後ヤードに報告する。この事件を扱う刑事をよこしてくれるはずだ」
禍々しい荷物を積み込んだ救急車は死体置き場へと走り去り、そして警部補はソーンダーズ巡査に今一度詳細を訪ねることにした。
「劇場や荷物置き場を見に行った時には、ここに死体はなかったのだな」と彼は尋ねた。
「間違いありません。奥のガス灯が眩い光を放っているのが分かると思います。あの光のおかげで、死体を見逃すことは絶対にありません。また、引き返した時にはたった五十ヤードほど進んだだけでしたので、彼あるいは彼を背負った誰かとすれ違いでもすればすぐに気が付いたでしょう」
「あるいは、奴は君の背中を追う形でストランドの家のいずれかからほろ酔い気分で出てきて、通りを真っ直ぐ下っていく代わりに、間違ってジャッド・レーンの方へ曲がったのではないか」
「奴がそんなことをしたとは思えません」とソーンダーズは相手に敬意を示しながら言った。「我々が立っている通りのこちら側にあるのは人の暮らしていない小さな商店ばかりで、夜には閉め切られています。反対側はご覧の通り、板塀で塞がれています」
「奴は店の一つから出てきたのかもしれないではないか」
「あり得ません。扉は鍵をかけられて、外からは完全に遮断されています。もし申し上げてよろしければ、奴はあの三つの家のいずれかの中にいたに違いありません」
「まあそれは朝になれば分かることだ。我々が徹底的な調査をすませるまで、猫の子一匹この通りからは出さない。何かを知っている者がいるかどうかはすぐに分かるだろう」
しかし、高名なドレイトン警部や地元警察の署長ら犯罪捜査の専門家たちは、翌朝には困惑していると告白せざるを得ない状況に陥っていた。ジャッド・レーンの二つの家に暮らしている家族は入念な取り調べを受けたものの皆立派な職業人であり、尋問に対する答えの内容や声音、その態度から見て彼らが無実であることは人間の顔や態度を本のように読み解くことができる専門家たちにとっては明らかだった。
二つの家の住人たちは自由に自分の職場に向かって良いと認められた。しかし私服の刑事たちが彼らのことを子細に観察するようにと命ぜられ、後ろをついてくることに恐怖を感じていた。ある倹約家の男はこの事件にイライラしっぱなしであった。「俺たちが何をするっていうんだ。友人を家に誘い込み、殺して、戸口のところに死体を捨てておくっていうのか。五番地に住んでいるドイツ人のウェイターだったらそんなことをしてもおかしくないけどな。奴はイヤらしい奴だ」
事件が起こった夜現場を取り仕切ったチャルマーズ警部補はほぼ同じような意見をドレイトン警部にぶつけた。
「あのドイツ人のウェイターですよ、名前はグッゲンハイムだかなんだか。どうも見た目が気に入りません」と彼は言った。「あなたも奴に目を付けておられるのではありませんか」
偉大な警部は警部補の肩をポンと叩いた。
「彼ら全員の動向に目を配らなければならないぞ、チャルマーズ君」と彼は言った。「とはいえこの謎を解くのにそこまで時間がかかるとは思えないが。ところで、検死医はあの男が死ぬまでにどれくらいかかったと言っていた」
「少なくとも三時間半ほどと。ウィスキーに毒が混ぜ込まれていたようです」
「三時間半!」とドレイトン警部は言った。「しかも毒はあの男のウィスキーに混入していたと。ソーンダーズの証言によれば、あの死体は彼が最初にジャッド・レーンを覗いた時にはなかった。しかし三分半後に戻ってくると、戸口に置かれていた。リージェンシー劇場の後ろの壁には扉も窓もないから通り抜けることができないし、それは荷物置き場の側も同じことだ。どちらも手掛かり一つない壁だ。それに、死体がソーンダーズの目を盗んで運び込まれたということもない。外の通りは一方は鍵のかかった商店が立ち並び、もう一方は板塀でふさがれている。すなわち、この三つの家にいた誰かが有罪なのだ。実に可愛らしい謎だと思うね、チャルマーズ君」
確かにその通りであるように思えた。しかし、六週間が過ぎる頃には、ドレイトン警部はこの問題を容易いものだと考えるのを止め、むしろ難事件であるとはっきり見做すようになっていった。というのは彼もその部下も、たった一つの証拠すら手に入れることができなかったからだ。一番地の最上階に暮らす機械工から五番地の一階に一人で暮らしているお針子まで、二つの家の住人全員が監視され、スパイされた。彼らの生活のすべてが一分一秒に至るまで、訓練された警察組織の手で調査された。殺人であることは間違いない。すなわち、チャルマーズ氏が陰鬱な顔で示唆したように、飛行船が通りの上空にやってきて、死体を戸口に投げ落としでもしたのでない限り、あの家の住人の誰かが行ったはずなのだ。しかし、逮捕のきっかけになるような証拠の一欠片、糸くずひとつすら発見することができない。最終的に検死審問においてドレイトン警部は、「精神が不安定になり自殺した」という「男は何らかの理由で勇気を奮い立たせるために酒を飲んだ。そして、ジャッド・レーンに入っていき、毒を呷って死んだ」という仮説に適合する評決を引き出すような穏当な証言を何とかひねり出した。
陪審団が戻って来た。その先頭に立っているのは、とてつもなく太っている、灰色の髪にピンク色の顔、頬は何段にも重なり金縁の眼鏡をかけた年老いた男で、ゼイゼイ息をつきながらよたよたと検死法廷に戻ってくるのを若い警察官が手伝っていた。
「オールド・ポーレーだ!」 警部はもごもごと口を動かした。
「オールド・ポーレー? あの人は誰ですか」と相手は囁いて聞き返す。
「以前はフランスの諜報機関にいた男だ。太りすぎたため退職したそうだが」
「フランス人がなぜ陪審員をしているんですか」
「今では帰化してイギリス人になっているからおかしくはない。昔からの習慣でいつでも謎の中にいたいという手合いだそうで、検死審問の係官は可能な時には彼を陪審団に入れるようにしている。今回は陪審員長を務めているようだ」
ムッシュー・ポワレ、あるいは警察官の間ではフランス語の発音を無視して「オールド・ポーレー」と呼ばれているこの男は、息をつきよたよたと歩きながら、自分が暮らしているアデルフィのチャタートン・ビルディングへと向かった。
そのフラットはあまりにも小さく、逆にムッシュー・ポワレの体が大きすぎるようにすら見えた。巨大な肘掛椅子にポカンと口を開けたまま座り、大きな腹に手を当て、出目気味の目を見張っている様は、まるでホワイトチャペル通りのペニーショーである。
彼はしばらくの間、呻いたり喘いだりしながら座り込んでいたが、足とひとしきり格闘し、ワハハと一人で大笑いすると寝室を通り抜けて奥の暗室へと入っていった。ここで彼は、カメオのような形の大きな石がついたタイピンを外した。ピンを外すのは時間のかかる難行であった。というのは、ムッシュー・ポワレのチョッキのポケットに入った小さな玉と細いゴム紐で繋げられていたからだ。しかし、作業はついに終了し、太った男はなおも呻き喘ぎながら、現像液と忙しく向き合い、三十分後には満足そうな笑みを浮かべていた。すると彼は窓の前に置かれた、半ダースの美しいカナリアが入った大きな鳥かごへと向き直った。かごの扉を開き、口笛で美しい旋律を吹き鳴らすと、小鳥は一羽また一羽と外に飛び出し、彼が持っている長い棒に停まった。そして彼が吹いた通りに、鳥たちは歌ったのである。丁寧なお辞儀をすると、彼はかごの扉の近くに棒をそっと置いた。
「紳士淑女の皆様、今宵はこれでお開きです」 そう言った彼がもう一度短く口笛を吹くと、カナリアたちは鳥かごへと戻って行った。ムッシュー・ポワレが再び大きな肘掛椅子に座ると、三分もしないうちに大音量のいびきが小さなフラットの部屋の壁を揺すぶるばかりに響き渡った。
Ⅱ
ムッシュー・ポワレはフランス政府の諜報機関のエージェントとして長いこと勤めてきた。しかし今では引退し、チャタートン・ビルディングの小さなフラットで、でっぷりと肥えた室内履きの中年男らしい生活を送っている。カナリアの飼育を趣味とするこの途轍もない胴回りの老人(彼の体重は18ストーン(約114キログラム)以上ある)は、イングランド中のバード・ショウで有名人だった。彼の特技は口笛で、その分厚い、すぼめた唇から紡ぎ出される美しく鳥のさえずりを思わせる音色は、どんな不機嫌な鳥でさえも思わず一緒に歌を奏で始めてしまう代物であった。
ムッシュー・ポワレをよく知る人は、彼はずば抜けた経歴の持ち主だと言う。彼は顕微鏡を持ち出したり手掛かりを求めて駆けずり回ったりするようなフィクションの中の探偵とは違う。彼はただオフィスの大きな安楽椅子に腰かけて、超人的な頭脳を働かせる。彼の大きな体、血色のいい太った顔の奥に隠された脳髄は、些細な事実を結び付けて確かな真実へと花開かせる。できるだけ手間を掛けないことが彼のポリシーであったからこういう風に語ることはなかったけれど、彼の言葉を突き詰めるとこうなる。すなわち「親愛なる友よ、いつでも明白なる事柄に注意を払いたまえ。まだ乾いていないペンキ、指紋、家を飛び出した男といった微かな手がかりに拘泥しすぎるな。常に、被告席へと通じる分かりやすく、広い通りを選んで進むことだ」 そして彼は不吉な笑みを浮かべることだろう。
彼は大きくて太りすぎた蜘蛛であり、考えて考えて考えて、犯罪者という名の蠅が足を踏み入れるだろう網を作り上げる。彼はよく、自分は考えるだけで行動するのは他の連中に任せると言っていた。考えるだけで十分に疲れると言うのだ。無政府主義者、スパイ、殺人者、文書偽造犯の大いなる脅威であるムッシュー・ポワレは、引退するまで15年間フランス政府に奉仕した。しかし、年々少しずつ太っていった彼はついに碌に動き回ることすら出来なくなった。ヨタヨタ歩くことくらいはできるが、しかしその鈍足ぶりは一マイル移動するのに一時間かかるほどである。さらに、大きすぎる胴回りのせいで、ついには大陸中の犯罪者から見覚えられるに至った。結果、彼は解雇ではなく緩やかな退職という形で嫌々ながらも一線を退き、安楽に暮らせるだけの年金を与えられた。しかし同時に、彼は必要に応じて自分の能力を発揮できる「推薦状」を受け取ったのである。
ここ数年、彼は変わらぬ敬意を抱く国、イングランドで生活していた。彼の妹はマーク・レーンに事務所を構えてトウモロコシの取引をしている富裕なビジネスマンと結婚している。ムッシュー・ポワレはチャタートン・ビルディングの小さいが快適な部屋から、イングランドが開けっ広げに迎え入れてしまう無政府主義者や外敵に目を光らせていた。あらゆる立場の犯罪者が彼のことを知っている。その頂点に位置するのは、王冠を載せた頭を爆弾によって速やかに取り除く専門家、大規模な偽造集団、そしてロンドン(おお、ロンドン、イングランドの首都にして自由人たちの我が家よ)に本部を構える国際的スパイ組織といった連中だ。彼は、多くのヨーロッパの国々の言語を流暢に使いこなすが、しかし英語を話すときだけはどうもうまくいかないと語る。彼の英語には訛りは見られないけれど、しかしどこか奇妙な点があってすぐに外国人だと分かってしまうのである。
とはいえ、ムッシュー・ポワレは小鳥や友人たちと過ごすときには、巨躯の男らしい鷹揚で穏やかな気質や犯罪の世界での経験から、優れた語り手、また楽しい仲間とみなされていた。チャリング・クロスやヴィクトリアの駅からバード・ショウに向かうときには、かつて自らの手で牢獄に送り込んだ老悪党と頻繁にすれ違ったけれど、その時交わす挨拶は穏やかな物であり、その悪漢がフランス人でもイタリア人でも、ドイツ人でもスペイン人でも、ムッシュー・ポワレはいつでも親しげな言葉を投げかけた。
「我が子よ」と彼はいつも、友人に奇妙な響きの言葉で語った。「我が子、犯罪者たちよ! ああうん、彼らはみんないい連中なのだ。私はかつて彼らの手首にブレスレットを、すなわち手錠をかけてやったものだが、しかし何の問題もない。それは当たり前のことだからだ。彼らは生活のために懸命に働いていた。私も彼らと渡り合った。うむうむ、私たちはともに生きるために働いていた。そこに何の問題があろう。彼らも時には成功を収めたが、しかし結局のところポワレおじさんの掌に収まることになった。そうなんだ。彼らはいい連中なんだが、愛おしさと同時に、時に大いなる悲しみに襲われる。駅で会うたびに彼らは言うとも。「ポワレさんだ! ポワレさんは引退したそうだから、ブランデーソーダをおごってあげなくちゃ。いらっしゃい、ポワレさん。さあさあ、何を飲みたいんだ」……うむ、そう、我が子だ。彼らをギロチン台に、デビル島に、あるいは残念な場所に送り込まねばならないのは実に悲しいことなのだが、しかし私はなお彼らを愛している。彼らは賢い、そう、賢いのだが、それはポワレも同じこと……いやかつてはそうだった、というべきか。こんなにも太ってしまっては」(そう言って、彼は自分の腹を叩いた)「ポワレは、いわゆる「月遅れの雑誌」なのだよ」
陪審団の長として姿を現した朝、彼は昼食の時間までずっと暗室に籠って、ジャッド・レーンで見つかった死体の顔を映した写真を現像していた。
十分ほどじっくり写真を検めるその間、彼の分厚い唇からは鳥かごの中のカナリアを誘う美しい旋律が紡ぎ出されていた。その後、大きな安楽椅子にどっかりと座りこんだ彼はいつも通り手を腹の前で組んで、半ば目を閉じたまま小一時間思考を巡らせているようであった。すっくと立ちあがった彼は部屋の隅のイーゼルを立て、そこに写真を立てかけて大型のキャンバスに向かって作業を開始した。
絵筆捌きにおいてなかなか立派な腕前を持つムッシュー・ポワレは、絵を描くのに都合の良い光を得られる二時間ほど、作業に没頭した。彼がキャンバスに描き出したのはいずれも同じ、写真に映った死者の顔であったが、血の気のない肌と綺麗に剃り上げられた顔の代わりに、容貌を崩さぬ程度にひげを描き加えた。短く刈り込まれた濃い色の顎鬚、ふさふさと伸ばした薄い色の鬚、綺麗に整えた頬髯、あごからちょろりと伸びた髭。顔を九つ描いたところで彼は手を止めた。喉奥からクックッという小さな笑い声が漏れ出した。彼が描き出したのは、死者の顔に黒いなかに微かに白いものが混じった薄い口髭を書き加えた絵画であった。書棚に向き直った彼は黒い革で装丁された本を抜き出し、パラパラと中身を確認してパタンと閉じ、元の場所に戻した。彼の唇から零れ出した勝利のメロディーにカナリアたちが和した。そして、部屋の隅に置かれた電話へ歩み寄ると、風変わりでぶつ切りな英語でウエストエンドにある大きなホテルの番号を呼び出した。
「支配人かな」と彼は言った。「ああ、私はポワレ、ジュール・ポワレだ。うん、君のところのジャック・ボータンをこちらに寄越してくれないか。ええと、すまん、正確な発音ができないのだが……「グルルイールルーム」の第二ウェイターだ。ありがとう、恩に着るよ。それでは」
ジャック・ボータンは四十五分で到着した。彼はきびきびとして慇懃な、いかにも外国人のウェイターといった感じの男である。一言も発することなく彼の腕をつかんだムッシュー・ポワレは、彼を椅子に座らせた。
「ふむ、無政府主義者を全員知っている君であれば、この男も知っているのではないかね」 そう言って彼はキャンバスに描かれた髭の男たちのうち、九番目の顔を指さした。
「ええ、はい、ムッシュー・ポワレ!」と言ったウェイターは恐怖に縮み上がり、ペコペコと媚び諂うような態度になった。「もちろん存じております。しかし、ここ二週間ほどは見かけませんでした」
「それでは、二週間前以前のこの男について知っていることをすべて述べたまえ。さあこちらを見て、ムッシュー・ボータン、君は今ここにいる、そうだね」 太った男はまるで虫を潰すように親指と人差し指をギュッと押し付けた。「君は無政府主義者だな、うん。君は王制を嫌っている、うん。むしろ何もかもが嫌いなんだな、うん。素晴らしい。それでは、君は私の言うことに抗弁せず従うようにしなさい。さもないとプチッだぞ。君をフランスに返してやったら、後家さんは君を殺すだろうな」(彼は左手で手首のところをぶった切るようなしぐさをしてみせた)「黙ってしまったな。ほらほら、ジャック・ボータン、真実を、警察署で求められるようにすべての真実を、ぶちまけてしまいたまえ」
太った男はウェイターの腹を指でつつきながら、鋼のような鋭い青い瞳で彼の眼を覗き込んだ。するとまともに立てなくなったジャック・ボータンの口からフランス語が一気に溢れ出した。
髭を生やした男はジャン・ガルニエなる人物で、往時は恐るべき無政府主義者として名を馳せたものの、ここ五年ほどは組織ともまともに連絡を取り合っていなかった。酒を飲んで酔っ払った彼がボータンに告白したところでは命の危険に晒されていたらしい。ジャン・ガルニエは、腹心の友であるウェイターの知るところでは十二年前に妻を殺している。正義の裁きを免れはしたものの、彼女のことを愛していたピエール・ゴードンなるミュージック・ホールの芸人で、「早変わり」の達人として知られる男から命を狙われていた。この芸は、二十五分間の一幕物の劇の中で、一人の役者が少なくとも十五人以上の別人の役を演じるというものである。長い間、彼は世界中で成功を収めていたが、五年前生きていくのに十分な金をもって引退した。それ以来、彼の行方を知る者はいないという。
「どうか信じてください、ムッシュー・ポワレ」とウェイターは締めくくった。「ジャン・ガルニエが命の危険を感じながら暮らしていたのは奴の過去故のもの。もし奴が急死したというのであれば、それはピエール・ゴードンの仕業だと思います」
「しかしな、髭だよ。ボータン君、髭だ。なぜ偽髭を付けていたのだろう?」
「ああ、ムッシュー。それは変装のためです。ガルニエに聞いたところでは、逮捕された時、前にひげを剃ってから一週間経っていたのだとか。その後、被告席に立たされた時には綺麗に剃られたようですが、その時がマダム・ガルニエの昔の恋人、ピエール・ゴードンとの初顔合わせだったそうです。だから、最近は偽髭をつけるようにしていたと」
「しかしなぜ最近になって? ほらほら、全部吐いてしまえ、ボータン君、早く!」
ムッシュー・ポワレの口調が厳しいものに変わったのを聞いたウェイターはペラペラと話し出した。
「ピエール・ゴードンがイギリスにいて、命を狙っているという噂を聞いたからだそうです。「奴は俺を狩り出そうとしている。俺にはそれが分かるんだ、ボータン」と言っていました。「奴は必ずやる。裁判所で見た奴の眼が忘れられないんだ」 だから奴は偽髭を付けていたんですよ、それからムッシュー」 ウェイターは怖々と周りを見回しながら続けた。「私も命を狙われています。というのも、私は大陸にいた時にピエール・ゴードンと知り合いだったんですが、うっかり奴に、ガルニエの妻を殺したのは奴自身だと教えてしまったんです。「ありがとうよ、ボータン」とゴードンは言いました。ああ、奴のあの目つきが忘れられません。「いつか俺はジャン・ガルニエを殺す、そうだ、俺が殺しに行くと伝えておけ」 そうなんです、ムッシュー。ガルニエの奴に匿名の手紙を送って警告したのは私なんです。ゴードンはロンドンにいる。ストランドで見たから間違いない、と。でも本当はゴードンのことなんて見ていません。キャフェにも来ませんでしたしね。そうこうしているうちに、ガルニエが消えたんです。ビビッて逃げ出したか、死んだと思ってました。ムッシュー、ああ、ムッシュー・ポワレ、私の知っていることはこれで全部です。もう解放してくださいますよね、そうでしょう。今では正直な暮らしをしていて、問題を起こそうなんて気持ちは毛頭ありはしません。そうだと言ってください、ムッシュー。どうか、もう勘弁してください。私の命はあなたに差し上げます」
怯え切った男は、コートの襟をつかんで引きずり上げようとするムッシュー・ポワレの足元に這いつくばらんばかりであった。その指は、むしろその言葉より雄弁に彼の内心を語っていた。
「もういいぞ、ムッシュー・ボータン」と彼は言った。「行きたまえ。そうそう、口はしっかり噤んでおくように。さもないとプチッ!で、デビル島行きだ」
ウェイターが部屋から脚を縺れさせながら転げ出ていった二時間後、ムッシュー・ポワレはジャッド・レーン三番地を管理している不動産会社を訪れた。
「推薦状」を提示し、調査官に過去十二年間の帳簿を調べさせると、十二年前の殺人が起こったちょうどその頃の日付に、ジャン・ガルニエなる人物が一年間の契約で建物を借りたという事実が明らかになった。五分後、ムッシュー・ポワレはジャッド・レーン三番地を、同じく一年間賃貸する契約を結んだのであった。
---
果たして犯人の正体は。そしてムッシュー・ポワレはいかなる裁定を下すのか。後編は明日投稿予定です。
(後編はこちらへ→https://note.com/reclamedit/n/nf45e1234b7b2)