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リセラノヒトVOL.7下澤洋昭
今回ご紹介する〈リセラノヒト〉7人目は、 子供の頃の夢は「世界征服」。 学生時代は洋服好きが高じ、ファッション誌の読者モデルでもありながら、スポーツではフィールドホッケーで日本トップレベルの選手・コーチとして活動。20代後半からは会社役員として年俸契約で仕事に向き合うプロフェッショナルなビジネスパーソン。
ドクターリセラ株式会社執行役員
ウェルネス・コーチ株式会社代表取締役社長兼CEO
ABCテレビ「おはよう朝日です」のキャラクター「おきたくん」が大好きな1歳児のパパ、いや、おとん!下澤洋昭さんをご紹介します!
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個性豊かな下澤家
昭和50年(1975年)生まれの下澤さんは、ご両親と歳の離れたお姉様の4人家族。
商売人が多く住む大阪の下町で生まれ育ち、ご両親がお寿司屋さんを経営されていたため、小さな頃からお店に立ち、お客様に遊んでもらいながら、大人の中で育ちました。
そのため、同級生と話していると、冷静に大人目線で見たり聞いたりする癖があり、いつも「しょうもない話やなぁ~」と少し冷めた少年だったそうです。
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昨年(2023年)、パパになった下澤さんに、自身のお父様との思い出について尋ねると、怒られた記憶がなく、ずっと笑っている平和な人で、
「人に迷惑かけへんかったら、何をやってもいい」
「アホにならなアカン!ただのアホとアホになるのはちゃう!」と、
教えられたことはそれくらいでした。
お寿司屋さんのお客様と毎日のように夜を徹して飲む、大のお酒好きのお父様。
下澤さんが小学校の登校時には、通学路の植え込みに自転車で突っ込んで寝ているお父様を何度見たことか!と。(笑)
お母様のご実家はお手伝いさんがいて、街頭テレビの時代に自宅にTVがあるような裕福な家庭で、お嬢様として育ったのですが、その反動からか、お父様と駆け落ち結婚されたそうです!!
とにかく負けず嫌いで、
「男やったら、何でも一番になれ!」
と言われ育ったとのこと。
6つ歳上のお姉様は小さな頃から「神童」と言われるほど頭が良く、就学前には、お父様が麻雀をしている横で、「東(トン)南(ナン)西(シャー)北(ペー)」と口に出しながら牌の読み方を覚え、
小学1年生の頃には小学6年生の本を読み、興味が湧いたものは全てお母様に「あれ何?」と聞いては全て覚えていたそうです。
いつもテストで満点を取り続けるお姉様に、下澤さんが勉強のアドバイスを聞いた時には、
「授業中は先生の話だけ聞いといて、ノートなんか取らんでええ!大事なのことは先生の話すことだけやで!」と教えてもらったので、
実際に下澤さんは小学校高学年から中学生の時はほとんどノートを取らずにいると、いろんな先生にめっちゃ怒られたそうです(笑)
現在の下澤さんが「知らないことやわからないことは嫌」で、
「知って、わかって、説明できる」まで徹底的にやるのは、お姉様の影響が大きいと話されてました。
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小学生の頃は昭和の野球少年
当時阪神の人気選手だったバース選手や掛布選手の影響を受け、当初の右打ちを左打ちに変えて、懐かしの藤井寺球場でホームランを量産。 足が速く、リレーはいつもアンカー、ハードルをしたら、いきなり東大阪市で1位になったりと、運動神経だけ?は抜群の子供でした。
また、当時流行ったビリヤード映画「ハスラー2」を観て刺激を受け、「自分もやりたい!」と、実家のお寿司屋さんの常連でよく来ていたビリヤードのプロ(元世界チャンピオン)に教えてもらうと、みるみるうちに上達し、大人の大会で優勝したりし、当時は本気で「ビリヤードで食べていく!」と考えていたそうです。
家では広辞苑大好き少年で、わからない言葉をひたすら孫引きしたり、知っている漢字を組み合わせ創作して遊ぶ文武両道?の子供だったそうです。
やればできるを教えてくれた人
時代背景もあって、相当荒れていた中学校に通っていた下澤さん。
窓ガラスはほとんど年中割れており、校庭ではバイクで走り回っている輩がいて、近隣の学校とは日々喧嘩が勃発しているような環境でとてもたくましく育ちました。
小さな頃から、どこに行っても「○○の弟やろ!」と、優秀なお姉様と比べられることが嫌だった下澤さんは、
反抗心からか「おもろかったら何でもいい!」と、遊んでばかりでその頃の成績表は「1」「2」のオンパレード。
そんな中学2年生の時、お姉様の担任だった先生が下澤さんの担任になりました。
ある日いつものように、やんちゃな友達とやんちゃな遊びをしていたら、
担任の先生に「お前はやったらできるやろ!」と、ボッコボコ(当時は先生も熱血でした)にされ、そのまま職員室に引きづられていき、
「高校行きたいんか?」と聞かれ、「高校行くならこれまでは関係ない、受験で見られるのは3年生の内申点と点数だけや」と。
それを聞いた下澤さんは、「ほなやったるわ!」と、勉強を始めると見事に成績表は「4」「5」だけになり、
「やったらできる!」
「勉強は暗記するだけ!ひょっとしたら、かしこかもしれん?!」と受験勉強を本格的にはじめ、
高校受験の時には、お姉様の通われた大阪府下のトップ校に行ける偏差値になっていました。
が、ファッション大好き下澤さんは、
「私服で通えて!」
「学校帰りにアメ村(ミナミ)に寄れて!」
「男子より女子の方が多い!」
自由な校風の大阪府立夕陽丘高等学校に進学しました。
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ファッション誌の読者モデル⁉
学校帰りのミナミのアメ村やフリーマーケットで、度々ファッション誌のストーリートスナップ企画等で取材、掲載されるようになり、
ファッション誌『メンズ・ノンノ』では東西ストリートスナップの「西日本代表No.1」に輝いたことも!
その頃から、周りの人と被らないファッションで、トレンドをつくるのが好きだった下澤さんは、
「ビルケンシュトックのサンダルを冬場に履く」を、ファッション誌の企画と連動させ流行らせました。
一度流行ると、自分はまたその次のトレンドの服を着て、また翌年それが流行り・・・
「流行は人によってつくられたもの」という、高校生にして「大人の事情」に気づいたそうです。
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フィールドホッケーの出逢い
運動神経抜群で校内スポーツテストではすべての種目でトップ3にランキングされていたことから、様々な体育会系クラブから勧誘がありましたが、見たこともやったこともない「フィールドホッケー部」に入部しました。
理由は、11人制のチームスポーツでサッカーと同じく、パスやドリブルでボールをつないで得失点差を競う球技で、シュートは時速200kmにも及び、そのスピーディーでスリリングな試合展開に虜になったそうです。
ですが、入部後すぐに怪我で長期入院し、復帰後はフィールドプレイヤーではなく、キーパーをやってみることに。
キーパーは最後尾に位置することから、フィールドプレイヤーを気分よく、常に前向きにさせることが役割で、やればやるほど、キーパーの役割やチーム全体を動かす面白さにハマっていったそうです。
高校最後の試合相手は日本ベスト4に入る強豪校。
残り時間3分という場面でキーパーだった下澤さんはキーパーチャージを受けながら審判に失点とみなされ、
0対1で負けてしまいました。
その悔しさから、「いつか絶対に日本一になる!」とフィールドホッケーを大学でも続けることを決意。
下澤さんは大学へスポーツ推薦で選手兼コーチとして進学。
自身も選手として練習しながら、コーチとして先輩に知識やスキルを教え、「ENJOY HOCKEY!」を
スローガンにホッケー漬けの日々を過ごします。
その結果、入学直後の春リーグで早速リーグ優勝。
しかし、上位の部との入替戦では前後半戦い、0対0で引き分け、PS(サッカーでいうPK)で惜敗。
キーパーの下澤さんは、「自分が止めてたら勝ってた!」と、責任を強く感じ、人目も気にせず号泣したそうです。
そこからもっと強くなり「日本一になって、最後にみんなで笑う!」ことを決意し、そこから約2年間は全試合無敗。
自分たちの実力を感じはじめた時、日本代表選手を半数以上擁する名実ともに日本一の天理大学と試合がありました。
結果は撃沈。「ホッケー」と「玉転がし」くらい、あらゆるレベルが違っていて、「個人技だけではなく、組織(戦略・戦術)が必要」と、その時に気づかされたそうです。
「三流が一流に勝つには組織(戦略・戦術)が必要」
常勝軍団である天理大学に大敗を喫した試合のビデオを何度も何度も見直すと、相手の戦略で見事に自分たちが踊らされていたことが分かりました。
その頃、中学・高校時代に日本一を経験した後輩が入部し、
「日本一になるには、日本一の練習をするしかない」
「やったらできる、やらなければできない」
と言われてからは、24時間ホッケー漬けの日々を過ごし、チームはトップリーグで四強。下澤さんは日本代表のセレクションに選ばれるほどの選手になっていました。
大学卒業後は「日本一の選手・チームを育てる」という目標のもと、コーチやアンパイアの資格も取得し、本格的に指導者の道を歩み始めました。
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実家がお寿司屋さんだったこともあり、漠然と「何か商売がしたいなぁ」と思っていた学生時代。
当時店舗が増加し始めた24時間営業のコンビニエンスストアに興味を持ち、アルバイトを始めました。
当初より起業が目的だったので、コンビニ運営会社の社長に商売のノウハウをあれこれ質問しまくり、かなり鬱陶しがられていたアルバイトだったそうです(笑)
卒業後は母校の高校と大学のフィールドホッケー部のコーチをしながら、ファッション好きで読者モデルだったこともあり、セレクトショップのユナイテッドアローズで働き始めます。
当時ショップスタッフになる競争率は50倍以上。
面接官が下澤さんが読者モデルをしていたことを知っていたこともあり、下澤さん1名だけが合格、入社。
店舗に立つと、読者モデルの頃のファンの方々が「下澤さんにトータルコーディネートして欲しい!」と来店し、提案した洋服は飛ぶように売れ、人気ショップ店員に!!!
しかし、自分の好みでない(これはないなぁと思う)デザインの服も、お客様にコーディネートすると喜んで購入してくださることに、モヤモヤと心の葛藤が出てきました。
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そんな時、下澤さんの活躍を知っていた前述のコンビニ運営会社の社長から
「フランチャイズ本部の直営店(西日本1号店)を引き受け、事業拡大したいから下澤さんのチカラを貸して欲しい!」
とお声がけされ、当時28歳の若さで会社役員(専務取締役)としてコンビニ業界に。
ジョイン後、フランチャイズチェーンの中で「日本一になりたい!」との思いで、
お客様が「欲しいものを、欲しい時に、欲しいだけ」買えるよう、
まずは自ら店舗に立ち、POSシステムを活用し、「単品管理」を徹底、毎日のように売場を変え続けたことで、カウンターフーズ等、様々なチェーン日本一の販売記録をつくり、FC本部のSV(スーパーバイザー)を必要としないロールモデルとなり、気が付けばFC本部とともにチェーン戦略を策定する役割を担うようになっていました。
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ドクターリセラとの出逢い
前職では10数年、会社役員(専務取締役)として働き、40歳に近づいてきた頃、経営方針の違いから袂を分かつ決意をしました。
転職する条件として決めていたことは、
・家族との時間を大切にする
・お金は必要最低限ではいい
・経営理念やビジョンが明確にある会社
・人を大切(中心)にしている会社
の4つでした。
ヘッドハンティングやエージェント経由で国内7社からオファーがあり(関東4社/関西3社)
数千万円の年俸を提示されたり、自分の後任としてCEOとして来て欲しいなど。
好条件をたくさん出されていた中で、なぜドクターリセラを選んだのか?
その理由を尋ねると、代表の奥迫が、
「お金の話を一切せず、経営理念や今後のビジョンを楽しそうに話されていたから。」だそうで、事業は人なり、社会課題の解決が事業活動であり、ドクターリセラは社会貢献を軸に未来へ向かっている。
「この人とやりたい」と、その時フィーリングを感じ決断したそうです。
※ちなみに、面接で同席されていた現副社長のKさんは無関心・無反応だったことを覚えているそうです(笑)
福祉事業部の責任者として入社した下澤さんは、社会課題の解決のため、世の中に必要とされ求められるサービスだと確信し、デイサービス事業(きたえる~む)を立ち上げ、入社4か月後には、1店舗目をオープン、1年半後には8店舗を運営するまでに。
さらにその裏で並行して新規事業(エニタイムフィットネス)の提案を代表に行い、粛々と事業展開の準備を始めていました。
現在、デイサービス事業(きたえる~む)はリセラノヒトvol.4で紹介している平田社長に継承し、ご自身はウエルネス・コーチ株式会社代表取締役兼CEOとして、
関西中心に、24時間年中無休のフィットネスジム「エニタイムフィットネス」を41店舗経営、
新しいゴルフの楽しみ方を追求する会員制インドアゴルフ場「ラウンジレンジ」を3店舗経営しています。
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【Get Fit, Get Smile. ~今日よりも「健康」で、ちょっといい「明日」へ~】
を、ビジョンに掲げ、200名を超えるメンバーを率いて日々飛び回られています。
これからの夢
子供の頃に夢見た「世界征服」から、スポーツやビジネスで日本一を目指した先に、
「周りの人が健康で、笑顔で、幸せでいること」が自分にとって一番嬉しいことに気づき、
今は事業を通して、日本が直面している社会課題を解決し、より大きなインパクトを与えることをビジネスのひとつの目標としています。
また、「運動」「食事(栄養)」「睡眠(休養)」の側面からのウェルネスなサービス提供とともに、
「衣」「食」「住」のライフスタイル全般をデザインしたいとも話されていました。
現在は若手メンバーの育成に特に注目されており、
学生時代は、
「先生が言うことはすべて正しい」
「はじめから問題が用意されていて、答えは一つ」
と捉えがちですが、
社会人になると「上司が言うことはすべて正しい」ということはなく、「課題や答えが用意されている」ということもない、
必ず答えのある学生時代から、答えのない社会人になると
「知識(Information)」だけでなく「知恵(Intelligence)」が必要だと。
だからこそ、縁あって一緒に働いているメンバーには、様々な失敗・成功体験を通して「成長」を感じてもらえるように、
若い時から自分で考え抜いて、自分なりの「仮説検証」を繰り返し、自分なりの「ゴール」に迎えるように、
どんどん教育し、どんどん権限委譲を推進していきたいとも話されていました。
経営者として、若手メンバーへ伝えたい事を尋ねると、笑顔で一言!
「失敗を恐れず、何でもチャレンジしてみたら!」
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「未来は社会により大きなインパクトを与えたい!」と、目をキラキラさせ話してくださった下澤さん。
ヒアリングしていた同じ年の筆者まつもとですが、
「まだまだいける!」とパワーをもらえ、下澤さんの数年先はどんなことをされているのか、とても楽しみになりました。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
次回のリセラノヒトもお楽しみに!
まつもとしのぶ
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