憲法記念日
この記事は豆腐アドカレ老害版2024の枠埋め記事です。感想は#豆腐老害アドカレまで。
12月6日。今日は憲法記念日です。
何言ってんだアホとか思った人は廊下に立っていてください。私も立ちます。
そうですね。日本の憲法記念日は5月3日です。
1947年のこの日、日本国憲法が施行(実際に効力を持つこと)されました。
発布(こんな法を出すよ!と周知する)はその前年の11月3日。文化の日です。かつては同日が明治天皇の誕生日であり、この日は祝日の中でも古参組に入ります。
じゃあなんで今日この記事を書いているのか?という疑問に答えましょう。
憲法とは、立憲国の数だけあるのです。現在の立憲国の数はよく知りませんが、今日はスペインの憲法記念日になります。
Constitución Española de 1978
スペイン憲法と呼ばれるこの憲法の成立は1978年12月6日。他のスペイン憲法と区別するためにスペイン1978年憲法と呼ばれることもあります。
日本の場合は施行記念日でしたが、スペインの憲法記念日は成立記念日です。
この制定にはかなり揉めた(理由はのちほど)のですが、結局は10月31日の国民投票で賛成88%を得て、12月6日に国会で可決。27日には当時の国王フアン・カルロス1世が署名して公布され、29日に施行されました。
日本国憲法と比べるとかなりのスピード感ですが、まぁ日本は戦後でドタバタしてたので仕方ない。
日本国憲法の制定には色々問題があるのですが、まぁそれは5月にアドカレがあったりでもしたら話しましょう。(あるわけない)
各国の憲法
さて、1978年と聞いてどう思いました?割と最近だなと思った方もいるのではないでしょうか。試しに主要な各国の現行憲法制定年と比べてみますか。
国名→施行年月日(最終更新年)、憲法名
アメリカ→1789/5/4(1992)、アメリカ合衆国憲法
オーストラリア→1901(1977)
日本→1947/5/3
中国(民)→1947/12/25
韓国→1948(1987)
イタリア→1948/1/1(2020)
ドイツ→1949/5/24(2022)
インド→1950/1/26(2020)
フランス→1958/10/4(2024)
スペイン→1978/12/29(2011)
中国(共)→1982/9/4(2018)
ロシア→1993/12/25(2022)
これ、クリスマス当日にロシアの憲法を語るアドカレを書いたら多分非難大殺到ですね。
察しの良い方は、立憲主義の本家であるイギリスさんはどこに行ったのだろうと思うことでしょう。
実はイギリスには憲法がないのです。正確には「これは憲法、これは憲法ではない」というのはあるのですが、明確に憲法としてまとめられていません。
有名な所だとマグナ・カルタ(1215)、権利の章典(1689)などですかね?
それまでのスペイン
ロシアの憲法制定が遅い理由は多くの人が知っているでしょう。そうです、かつてはソビエト連邦であり、その後にできたロシア連邦の憲法だからですね。
スペインにも同じような事情がありました。
実は、現在のスペイン王国(Reino de España)の建国は1975年。1939年からそれまで、Estado Español、日本語にするなら「スペイン国」を名乗っていました。(正確には王国との混在でしたが、当時の実質的な憲法とされるものなどでは「Estado」表記)
スペイン国は、王位が存在しているものの国王は不在で、権力は総統であるフランシスコ・フランコが掌握していました。
スペイン内戦(1936~39)の結果、その前のスペイン共和国(República Española)を打ち倒して成立した国家で、当時広まりつつあったファシズム国家のひとつになります。
このスペイン共和国は数年間の短い命ですが、その前にはまた王制(1874~1936)が存在して、このときの王家の末裔が現在のスペイン王国の王族として復古しています。
その前にさかのぼるとまた共和制、その前にまた王制…もっと遡れば民主制が出てきたり、評議会制だったり、もっと遡ればスペインではない国名だったり、イスラム教国だったり。
ともかく、スペイン憲法の制定が最近なのは、最近政体が変わったから、というのが答えですね。
日本においては、建国以来2000年程度ずっと特定の王家があり、政治的にはそこまで複雑な変化は無い(別の複雑さがありますが)ので、受験生に優しい。
独裁政治
さてさて、そんなこんなで独裁を敷いていたフランコ将軍。
世間では第二次世界大戦をやっており、ファシスト仲間のドイツやイタリアが世界を相手に戦っている中、「内戦で疲れたから〜」とか言って、のらりくらりと参戦を拒否します。日本の参戦にもお祝いを送りますが、日本がフィリピン資本をいじりはじめると、フランコも幻滅します。(フィリピンはアメリカに取られる前はスペインの植民地なので、当時も影響少しあり)
ドイツが劣勢になると、連合国へ仲介を持ちかけ、「一緒にソ連を倒そう」とか言います。拒否られました。
戦後もしれっとファシスト政権を存続させ初めての米西首脳会談ではアメリカの当時のアイゼンハワー大統領と仲良くなり(元軍幹部同士だからなどとも言われる)、対ソ連で一致したアメリカから支援を受けます。
そうしてスペインの国際的な地位を取り戻したフランコくん、独裁者あるある(こんなあるあるは嫌だ)、後継者問題は中々決着がつきませんでした。
フランコ的には、共和国に対して内戦を起こして勝利したように、議会制民主主義は失敗すると考えていました。
そこで王制にしたかったのですが、スペインにも王家がいくつかありましたし、他の王家を迎えることも歴史上不自然ではありません。また、一部からはフランコの腹心や娘に継がせる案も出てくるなどしました。
1969年に出た結論としては、直近の王家であるボルボン家から、フアン・カルロスが即位することに決まりました。
次回、フランコ死す!
フランコ死す!
まぁ人間ですから寿命はありますね。
1975/11/20にガンで死亡します。最後まで総統の席に座り続けますが、それとは別に首相の座があり、そちらは73年まで座っていました。
首相を継いだのは腹心のルイス・カレーロ=ブランコ。年内に爆殺されます。
爆殺犯はバスク祖国と自由(ETA)。手口としては、道路に爆弾を仕掛け、首相を乗せた公用車が通る時に爆破。攻撃を受けた車は宙を地上十数メートルまで飛び上がり、建物の2階へ墜落。搭乗者らは即死でした。道路には直径10メートルを超える穴が。
バスク問題についてはのちほど。
その後、臨時を経て首相になったのがカルロス・アリアス・ナバーロ。
さて、話を戻すとフランコが死にましたね。ガンと言いましたが、海外では日本よりガン死の割合が少ないです。原因としては生活習慣とか色々あると言われますが、先日どこかで面白い言説を見たので(真偽は不明ですが)挙げると曰く、「ガンは細胞分裂のエラーなので、長生きするほど確率が高まる」、つまり「平均寿命が長い日本ではガンの確率も高い」という説ですね。
フランコも実に82歳で没します。これは現在のスペインの平均寿命と同等の長さです。スペインの平均寿命は今後更に伸び、2040年には日本をも抜くという研究もあります。
そういえば去年の日本死亡原因はガンとかより老衰の方が多かったとかだったような。
もはや医療の進歩はガンをも敵としなくなってきました。皆さんも早めのガン検診を。
王制復古
さて、フランコの決めた通りに死後2日で、ボルボン家のフアン・カルロスが即位します。
フアン・カルロス1世です。
フランコは前述の通り、議会制民主主義には否定的で、後継者たるフアン・カルロスにも、同じように独裁的な教育を施しました。
ところが、彼が即位するや、早々に独裁を否定し立憲君主制の整備のために邁進する事になります。手始めに、フランコの葬儀にやってきた南米チリの独裁者、アウグスト・ピノチェトを追い返します。(ピノチェトは一応参列はできたが、フランコの葬儀に参列した唯一の国家元首であった)
1976年には、フランコ体制を否定する国王の姿を見てカルロス・アリアス・ナバーロが辞任。
後任にはアドルフォ・スアレスが就き、ついに本格的な民主化を加速させていきます。
議会制復活
そして1977年、フランコが忌避した議会制が復活します。1977年スペイン総選挙は大盛況で、大小100以上の政党が候補を立てますが、殆どはタクシー1台で移動ができる人数の「タクシー政党」でした。日本でも、1946年の戦後最初の衆院選には258の政党から1997人の立候補者が出たようです。(ほか無所属773人)
最終的な議席内訳はこの通り、
アドルフォ・スアレス率いる民主中道連合(166)
後に首相ともなる、フェリーペ・ゴンサーレス率いるスペイン社会労働党(118)
内戦後、亡命生活をしていたサンティアゴ・カリーリョ率いるスペイン共産党(19)
そしてカルロス・アリアス・ナバーロも参加したマヌエル・フラガ率いる国民同盟(16)
ほか、少数民族の政党として、
フランス国境東部のカタルーニャ人らのカタルーニャ民主協定(11)
フランス国境西部のバスク人らのバスク民族主義党(8)※前述のバスク祖国と自由は武力も辞さないため、バスク民族主義党とは対立
ほか、人民社会党(6)とその他(6)
という体制が決まりました。
カルロス・アリアス・ナバーロは落選した末、様々な勢力から叩かれ、政治の舞台には出てこなくなります。
憲法制定
さて、憲法の話ですがこの辺よく知りません。
本題じゃねえのかよ!と思ったそこのあなた、ぜひスペインの政治について語った本を読んでみてください。
議会で決めて
↓
国民投票して
↓
決まって
↓
今も使ってる
くらいですか?
強固に反対したのはフランコ派の人々。
国民同盟をはじめ、ファシスト・極右・そして(フランコはカトリックをかなり優遇したので)カトリックなどです。
しかし1978年10月31日、国民投票により国民は憲法への賛成を示し、年末には施行されました。
主な柱は3本、
・地方分権
・多民族共生
・連邦主義
です。これに基づき、スペインは多数の州が集まったある種の連邦の形となります。
それぞれの少数民族も、ある程度の自治を手に入れて、融和が高まるかと思われました。
主な少数民族として挙げられるのは、カタルーニャ、バスク、そして北西部に集まるガリシアですかね。ほかにもアフリカ大陸が近いので、ある程度の数のアラブ人などが南部に集まります。
現在のスペイン政治
現在、スペインの政局には波紋があります。
まずひとつが、少数与党であることです。
実は日本よりも厳しい状況で、与党であるスペイン社会労働党は下院(日本でいう衆議院)にて半数の175を大きく下回り、野党第一党である国民党の議席数(137)と拮抗する147議席に。
閣外協力として、社会労働党と主張の近しい左翼だけでなく、カタルーニャ・バスク・ガリシア・カナリア(太平洋のハワイとも呼ばれるスペインの島々)の民族主義政党の閣外協力を取りまとめ、どうにか177議席を確保しました。
なんとか政権を立てられた一方で、閣外協力を維持しなくてはならない以上は、彼ら少数政党の意見を反映させて行く必要もあります。
民族主義政党が与党をも動かすようになれば、再びスペインは混乱の時代を迎えることでしょう。
また、王制についても問題が出てきています。国民的英雄となったフアン・カルロス1世は、スペインが不景気の頃に、絶滅危惧種であるアフリカゾウの狩り(現地ボツワナでは禁止されていない)をするなどして批判、息子フェリペ6世へ譲位して海外へ出ていきます。その頃には王制賛成派は世論調査で半分程度にまで。
先日のバレンシアの豪雨では、フェリペ6世に泥を投げつける住民も。
スペイン政治の今後の情勢には、特に注視して適宜発信していこうと思います。安全に旅行したいし。
ちなみにHearts of Iron IVのスペイン内戦は、DLCなしだとめちゃくちゃ簡単です。ラ・レジスタンスを入れると操作が多くてめんどい。2つどころか、4つの勢力に分裂します。
さて、明日は久々に老害版の普通の記事が上がります。
柊まんじゅうさんに乞うご期待。