許容出来るのか。

どこかの研究所でキメラを孕んだ受精卵を作ったというニュースを見る。


着実に今までの倫理観の通用しない時代が来るのだろうなという予感がする。

食物の操作で切れ目のない供給を実現し、医療の発達で生きながらえる術を獲得してきた人類だから、これから150年、200年と生きる人間が出てきてもおかしくはない。


神の国の住人は途方もない時間を生きるそうだ。


命、遺伝子というものを操作することは神の領域と言われればそうなのだが、私にはその行為がそこまで崇高なものでもなく、長い宇宙の時間の中でそのような時代が過去にあってもおかしくないよねと思うくらいには驚いていない。

ヒトというもの以外であればヒトによって操作は既に様々な種で行われている。操作されなくとも生物はその都度最適と思われる選択を時に驚くような方法で行うもの。

ただ、神という存在が全ての時代を目撃していたのであれば淡々とヒトの行く末を見ているのだろうなと思うくらいには、あまりポジティブな未来は想像し得ない。


先日手塚治虫作品の続編をAIが描くという企画が話題になったことを思い出す。

その時も同じことを感じたのだけれど、


結局はそれを私たちが許容出来るのか、と言うこと。


それが倫理観と言うことなのだけれど、

果たして私たちはそれを拒み続けられるのだろうか?と。


誰かの意思で発展し享受しているこの環境に違和感を覚えることもあるし、発展し続けたお陰で穏やかな暮らしを手に入れられていると思うこともある。


近頃昔の人は強いと思い知らされることが多く、さほど医療の世話になることもなく、家族が促しても世話になるもんかと拒んで、寿命を全うしたように息を引き取る、そんな高齢者を見ていると、この便利な生活を享受している私たちが今後クローンやキメラや臓器の培養や、そう言った現在の倫理観が引き止めているだけの技術の発展を拒めるのだろうか?と疑問が残る。


生への執着はそれほどまでに強いものなのか。

我が我であるということに執着する者がそんなにも多いのか。

と思えば簡単に命を断つ者が居たりする。

とてもアンバランスだ。


現在性差を無くそうと躍起で。

時に「それは議論にあげることか?」と思う厄介な意見もあるけれど、差を自覚することは大事なのだろう。だからといって差を無理矢理埋める必要もないとは思う。

医療の発達も差を埋めていくという意味では有効で。出生前診断などで障害を事前に知ると言うのも差を無くす行為だろう。(良い悪いはさて置き)

恐らく臓器の培養や部位の培養なんかも実用化したら、あまり差の無い人々が誕生していくのかもしれない。(障害があれば良いという話ではなく)

見た目も選べるようになる。


予測不能ののダイナミックさを無くした世界はとても消極的だ。


飛躍したような考えに思えるかもしれないが、

何もかもデザイン出来て、修正出来るようになると、多様性などなくなるのでは無いのか。

それこそ行き場のなくなった人類はあまりポジティブではない方向へ進んでいくような気がする。


何もかも自分たちの思い通りになる世界など、何が面白いと?


ただ、望まなくともそんなデザインできる未来が訪れるのであれば

許容出来る心構えだけはしておきたいなと思う。

そういうこともあるよね、と。


ヒトの形をしたヒトではない何かと共存していく未来ですら、進化の一部なのだと許容出来るように。

それが出来るのであれば、それは一種の多様性ということになるのかもしれない。


そしてその差異を認めることこそ現代にも必要とされている倫理でもある。


きっと人口が減ることを想定した動きでもあるであろう実験。それが好奇心であれ、実現不可能では無いと知っているはずだ。

生きながらえた人類が循環の新陳代謝能力が衰えた人類が、差異を柔軟に許容出来る精神を獲得していないとなれば、きっと不必要な争いなども起きるのだろう。

そう思う。


1000年後の地球人に人類が残っているとしたら、驚く形になっているかもしれないな。

きっとどんどん新しい方法を見出し、生きながらえていくのだろう。

それも進化のうちなのだろう。退化のうちなのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?