「学び」はつながり
表題のことを考えようと思い、昔の記事を見返していたら、もう四年前の記事になるが、つながる部分があると思った。
きっかけ
「学び」について考えたくなったきっかけは、宗實直樹先生の「発問のデザイン」という本である。この本で一番心を揺さぶられたのは、第7章「子どもの側からの問い」だ。
以前は、子どもの問いを大事にしたいという時期もあったのだが、今はむしろ、算数の見方・考え方を働かせるためにはどこか子どもの問いに対する比重を軽く考えている自分もいた。
算数は問題がある。未知と既知の間に課題が生まれ、それを解決する活動が行われる。そして、その解決方法を対象とし、統合的・発展的に考える流れがあるかと思う。だからこそ、子ども一人ひとりの中に問いとまではいかなくても今日明らかになった未知の部分があれば良いのではないかと考えていました。
ただ、本書の第7章を始め、第8章2節、第2章を読むごとに、
・問いと学びの関係
・主体的な学びって
・そもそも学びって何だろう
と次々と疑問が浮かんできた。
これらの疑問を解決するためにまずは、「学びって何だろう?」と考えてみる。
自分が考える「学び」
今の段階で自分が考えている「学び」について言葉にしてみる。
解像度は荒い気がするが、これが今の自分だろう。上のように学びを捉えると、「学ぶ」は、「分からなかったことが分かるようになったり、できなかったことができたりするために行う行動」な気がしている。
この辺りについて調べながら考えていきたい。
「学び」と「学ぶ」
このあたりまでは、自分の捉えとそう離れていないと思う。Geminiが提案している3つ目の視点はまさに深い学びにあたる部分だと思う。
鹿毛(2019)では、自ら問おうとする状況を創り出すことの重要性が述べられている。ただ、他問ではダメなのだろうか。
佐伯(1982)の「子どもの学びを成立させるもの」という章では、次のように書き始められている。
この表現を読んだときに、「ああ、自分もそう考えているかも」と捉えていたが、自分は「学び」を”教師の「教え」の結果”としては考えていないことに気付いた。あくまでその子が行ったこと、その子の中に位置づいたことが学びとなるのだと思う。
ここでも鹿毛(2019)と同様に内なる「問いかけ」といった言葉が出てくる。言葉を「教え」たからといって、一人ひとりの学びや解釈は異なるはずである。それは、その子なりに情報をつなぎ、扱い易く利用し易いモデルに変えているからだと考えると自然である。
自分が考える「学び」②
他の方とも話し、佐伯(1975)もつながる中で、「学び」が自分なりにスッキリしてきた。
今のところ3つのパターンを想像している。
・知っている情報と情報のひもづき方が変わる
・新たな情報がひもづく
・1つの情報の観点から今までの情報が整理される
→情報のつながり方が変わるからこそ、同じ言葉でも見え方、感じ方が変わってくるのではないか。
佐伯(1975)では、”空白”という言葉が出てくる。意味のネットワークがつながる中で、”「空白」が、われわれに「問い」や「疑問」、さらには「仮説」や「予想」を生み出す"(p.54)と述べられている。
学びを情報のつながりと考えた上で、ネットワーク上の空白が分かるということは、その空白が埋まったときどこにひもづくか見当がついているとも捉えられる。
一方、他問ではその空白がその子のネットワークに結びつくこともあれば、その空白が宙に浮いてしまうことがあるだろう。多くの方が「問い」を大事にしているのは、情報のひもづき方が変わるからだと捉えた。
そう考えると、子どもの中でどう情報をつなごうとしているのか?今、情報が紐づかずに浮いていないか?どのような情報を得ようとしているのか?を見取っていくことを大事にしていくのが良いのかと考えている。
【引用・参考文献】
鹿毛雅治(2019)『授業という営みー子どもとともに「主体的に学ぶ場」を創るー』,教育出版株式会社
佐伯胖(1975)『「学び」の構造』,株式会社東洋館出版社
佐伯胖(1982)『考えることの教育』,株式会社国土社
宗實直樹(2024)『「発問」のデザイン 子どもの主体性を育む発想と技術』,明治図書株式会社