知識や経験を錆にしないために
「なんでnoteを書いているんですか?」と最近,聞かれることがあった。そこについて,自分なりに整理しておきたい。
講師1年目の自分を追い求める自分
講師1年目のとき,右も左も分からなかった。そして,子どものことを見ているようで見えていなかったことが多いかもしれない。ただ,それでも一番子どものことを見ようとしていたのではないかと感じてしまう。
校務分掌などの関係もあり,物理的に子どもと向き合ったり,子どものことを考えたりする時間は多かった。毎日,8時くらいまで残り,学級便りを書いたり,次の日の授業を考えたりしていた。そして,休みの日には何もせずに休み切り,また平日は子どもたちのために全力を尽くした。
年数を重ねるごとに,校務分掌や責任も増え,学級のことを考える時間の配分が変わってきた。これは,仕方ないことかもしれないが,そこにもどかしさを感じる先生は少なくないと思う。また,採用されて3年目の後半から,本を読んだり,研修会に参加するようになっていった。子どもと自分のためである。
学ぼうとすればするほど,子どもに向き合う物理的な時間が減っていることに最近気づいた。そして,次の言葉が響いてきた。
教師のなかには,「子どもを知っている」という,安易な割り切りが巣くいやすい。子どもや父兄に「先生」と呼ばれるうちに,いつの間にか,教師になりたてのころに味わった「子どもに対するこわさ,わからなさ」「人間に対する敬虔さ」を忘れていく。(p.10) 長岡文雄(1986)『子どもをとらえる構え』黎明書房
経験や知識が,自分の思考や動きを重くしていないか。
それが,研磨剤ではなく,錆になっているのではないか。
そんなことが自分の心にずっと引っかかっていた。
「今」の自分と子どもと向き合う
もちろん,学ぶことは,見えないものをより見るために大切である。ただ,それだけでは,学びと現場が乖離してしまう感覚を感じてきた。
どうすればいいかを考えたとき,「今」の自分と向き合う。そして,「今」の子どもと向き合う物理的時間を確保することが大事だと思う。
学びを研磨剤にするために,自分の現在地や思考を言語化しておく必要がある。それが,悩みやもやもやであっても,書いて可視化されることにより,次に考える足場につながる。
子どもも大人も一緒で現在地が分かって,次への道が見えてくるのかなと感じた。尊敬する先生は,書き続けている。その影響もあり,noteという選択になったように思う。
自分も「今」の自分と向き合いつつ,子どもと向き合う物理的な時間も大事にしていきたい。
最後まで,読んでいただき,ありがとうございました😌