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同調する、ということについて。
最近、子どもと過ごしていて、ふと感じることがありました。
子どもを自分に合わせようとしてないか?って。
私の口から出る子どもへの言葉は、
「好きにしていい。」
でも、自分と違う一面を見せる子どもに感じているもの、私の根っこにあるものは、
『私の考えから外れないで。』
だったりするのかも知れません。
私と同じであるように。
他者と同じであるように。
これって、「同調」ってやつかも知れません。
合わせるという意味での。
私も、
知らず知らずのうちに、同調することの圧力をかけ、またかけられていたのかも知れないなぁ
と感じています。
かけられていた、というのは…
他者と同じでないことについて、
きっと、他者から
同じであることの
同じものに合わせることの
圧力があっていたのかも知れないし、
仲間外れにされないか、
自分が恐怖していたのかもしれないということ。
私は、
それが、これまでの日本の教育であり、ある種の文化であり、習慣だったように感じています。
ある意味、美徳な感じ。
人と同じであること
横並びであること
飛び抜けないこと
目立たないことが
正解だ
という風潮とも言えるかも知れません。
その思い込みが、同じでないものへの、同調圧力となり、人と違うところのある自分への圧力となる。
でも結局それは、
自分が周囲と同じでないことへの恐怖。
そこに端を発し、
自分を押し殺して周りに同調していることへの怒りや我慢からくる、他者への圧力が生まれているのかも知れません。
そして連鎖していく。
それって、本当に自分の人生を生きてるのかな?
他者が自分の人生を生きることを奪っていないのかな?
今の私は、そんな疑問が湧いています。
このnoteで何度か触れている、
本当の自分として
本質的な自分として
生きることを意図し、選択していけば、
この同調圧力とは、自然と離れていくのかも知れません。
一朝一夕にはできないかも知れないけれど、
一歩ずつの積み重ねを大切にしていきたいな。
そんなことを感じている、今日この頃です。