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【前編】祖父が突然”スナックのママ”を始めた理由

私は最近まで、祖父が田舎で畑仕事をしながら穏やかに暮らしていると思っていました。70代後半という年齢もあって、近所の人からも「のんびり過ごしているよ」と聞くことが多く、家族も特に心配していませんでした。

ところが、ある日、地元の幼なじみから「君のおじいちゃんが夜のスナックで“ママ”をやっているらしい」という話を聞きました。最初は冗談だと思い、「そんなわけない」と笑っていました。祖父は頑固で真面目な性格ですし、ずっと畑作業を楽しんでいる印象しかなかったからです。しかし、幼なじみが真剣な顔で「本当に見た」というので、私も黙っていられない気持ちになりました。

ちょうど仕事で長期休暇が取れる時期だったこともあり、「直接確かめよう」と思い立ち、祖父の住む町へ向かうことにしました。実家の最寄り駅に着くと、迎えに来てくれたのは母だけです。いつもなら祖父が車で迎えに来てくれるのに、その姿が見えません。母に「おじいちゃんは?」と尋ねても「忙しいみたい」と言うだけで、はっきりしたことは教えてくれませんでした。その曖昧さがむしろ怪しく感じて、私の中で不安と興味が一気に膨らんだのを覚えています。

実家に着いたのは夕方ごろ。祖父の家に入ると、玄関に祖父の靴が見当たりません。居間をのぞいても姿はなく、テレビも消えたままです。母に確認すると、「夕方から用事がある」と出かけたようでした。いつもは畑か家で過ごしている祖父が、夜の用事とは一体何なのか。頭の中に「スナックで働いているのかもしれない」という噂がよぎり、落ち着かない気持ちになりました。

母と二人で夕食を済ませたあと、私はどうしても祖父のことが気になり、町の中心部へ出かけることにしました。母も止めませんでしたが、理由を詳しく聞いてこないのが、かえって引っかかります。母は祖父のことをどの程度把握しているのか、それともあえて干渉しないのか。いずれにしても、「スナックで働いている」という話を否定しないところを見ると、母も少しは知っているのだろうと感じました。

幼なじみから教えられたスナックの場所は、駅前の雑居ビルの2階です。どこか昭和の雰囲気を残す古い建物で、階段を上がると小さな看板が出ています。ドアからうっすら照明が漏れ、グラスがぶつかる音や笑い声がかすかに聞こえてきました。私は正直、不安でいっぱいでした。本当に祖父がこんな所で働いているのだろうかと疑いつつも、確かめたい気持ちが勝り、ドアを開ける前に小さなガラス窓から中をのぞき込みました。

そこには、間違いなく祖父がいました。白いシャツにスカーフを巻き、カウンターの奥で常連客らしき人たちと話をしています。祖父といえば、家の中でもよくしゃべるほうですが、どちらかといえば自分の主張を通すタイプだと思っていました。でも、その時の祖父は相手の話を丁寧に聞いて、時々笑顔で返事をしているように見えました。しかも、「いらっしゃいませ」とお客さんに声をかける様子は、いわゆる“スナックのママ”そのもので、普段の祖父とは全然イメージが違っていました。

一度見てしまったら、そのまま帰るわけにもいきません。意を決してドアを開け、中に入りました。店内は狭く、カウンター席が5〜6席ほどとボックス席が少し。お客さんは数名いて、みな祖父と楽しそうに会話をしています。私が入ると、祖父はちらりとこちらを見ましたが、すぐに“ママ”の落ち着いた表情になり、「いらっしゃい、どこでも座って」と声をかけてきました。他のお客さんは私の顔を覚えていない様子で、「初めてきたの?」と尋ねてきます。私は「そうなんです、噂を聞いて…」と曖昧に答えました。

祖父は私のことを知っているはずなのに、まるで普通の客みたいに接してきました。もしかすると、周りに孫だとバレないように気をつかっているのかもしれません。私はとりあえずカウンターの端に座り、お酒を一杯だけ注文しました。グラスを手にしながら、祖父がどんなふうにお客さんと接しているのかを見守っていると、思っていた以上に“ママ”が板に付いている感じがして驚きました。年配のお客さんには昔話を聞き、若い人には軽く冗談を言って笑わせるなど、聞き上手な様子が伝わってきます。

家では頑固な祖父という印象だったので、こんなふうに相手に合わせて受け答えをする祖父を見たことがありません。店全体が和やかな雰囲気で、祖父がその中心にいるのが不思議でした。どうしてこんな場所で働く気になったのか、何があったのか。たくさんの疑問が頭に浮かびましたが、お客さんが楽しんでいる最中にそれをぶつけるのは場違いだと思い、店では何も言わずにいました。

しばらくして、私はお会計を済ませて店を出ることにしました。祖父とはほとんど話さないままでしたが、初めて祖父が“スナックのママ”として動いている姿を確認できただけでも大きな衝撃でした。店を出た瞬間、夜の冷たい空気に触れ、「これはどういうことなんだろう」と頭が混乱するのを感じました。

家に戻ると、母はまだ起きていました。私の顔を見て察したのか、何も聞かれません。私も何をどう話せばいいのかまとまらず、そのまま部屋へ戻りました。ベッドに入ってからも、なぜ祖父がこんなことを始めたのか、どうして母は特に止めないのか、疑問ばかり浮かんで眠れませんでした。

翌朝、祖父は早くから出かけていて家にいませんでした。母に聞くと畑に行ったようですが、すぐに戻る気配もありません。夜はまたスナックへ行くのか、顔を合わせる時間がほとんどない状況です。母もあまり深くは聞かず、「本人が楽しくやってるならいいんじゃない?」という態度でした。私はその言葉を聞いて余計に戸惑いましたが、母自身も祖父が何を思ってスナックに立っているのか、はっきりとはわかっていないようでした。

どうしても理由が知りたい私は、もう一度スナックに行って祖父に直接聞くしかないと思い始めました。あんなに自然に“ママ”をしている姿を見てしまうと、逆に何か特別なきっかけや理由があるのではないかと思ってしまいます。祖母が亡くなった後の寂しさからなのか、経済的な事情なのか、それとも別の理由があるのか。頭の中で色々と考えても、実際に祖父に話を聞かなければわかりません。

私はスナックの営業が落ち着いた時間帯を狙って行き、祖父が暇そうなタイミングで話を切り出そうと考えました。店という場所は、家とは違う空気が流れています。周りにお客さんがいると、孫として祖父に何かを問いただすのは難しい。でも、閉店近くになれば少しは余裕があるかもしれないと思ったのです。

そんなわけで、二日目の夜も私はスナックを訪れました。店内には常連らしい人が数人。祖父はいつも通り、優しそうな笑顔で客と話しています。相変わらず自分の孫である私に対しても普通の客と同じように接していて、それがまた不思議な感覚でした。私は昨日と同じ席に腰を下ろし、「タイミングを見計らって祖父に話しかけよう」と待ちました。

そのうち、お客さんが少しずつ帰り、店内が落ち着いた頃合いで、祖父に「ちょっと話せる?」と声をかけました。祖父は「周りに迷惑をかけたくないから後で外で話そう」と返してきます。確かにここで大きな声で「何でママをやってるの?」と尋ねるわけにもいきません。私はそのまま閉店まで待つことにしました。

こうして、祖父がどうして突然スナックの世界に飛び込んだのか、直接話を聞くチャンスを得られそうだと思いました。子どもの頃から祖父は真面目で厳しく、どちらかと言えば「人の話より自分の意見を通すタイプ」だと感じていましたが、今回見た祖父はむしろ人の相談に乗り、うまく場を盛り上げる存在に見えました。今まで知らなかった祖父の一面を目にして、正直戸惑うと同時に、少し興味が湧いてきたのも事実です。

もし祖父が自分から語ってくれたら、私が抱えている疑問はかなり解消されるかもしれません。祖母が亡くなってからの祖父の心境や、老後に対する考え方、さらには家族に言えないような秘密があるのかもしれないと思うと、なぜか胸がドキドキしました。あの頑固な祖父がなぜ“スナックのママ”をしているのか。そこにはきっと、私の想像以上に深い理由があるはずだと感じました。

店のカウンターに座ったまま、私は祖父がどんな言葉を発するのかをじっと待っていました。このまま謎が明かされずに終わってしまうのは嫌だったし、自分自身も祖父ときちんと向き合うチャンスだと思いました。普段は説教ばかりする祖父ですが、本当は何を考えていたのか、話を聞けるなら正面からぶつかりたい。そんな気持ちでいっぱいでした。

閉店の時間が近づき、他のお客さんが店を出ていくと、祖父はホッとしたようにカウンターを片付け始めました。そして私に「待たせたな」と一言だけ声をかけ、店の外に出ます。私はその後を追いかけるように外に出ました。祖父と二人きりで話せる機会は、思えば子どもの頃以来かもしれません。あの頃は祖父から注意されるばかりで、まともに会話をしたことなんてほとんどありませんでした。

夜の風が少し冷たく、古い街灯が点在する通りを祖父と並んで歩きました。祖父はどんな話をしてくれるのか。私は言葉をかけるタイミングがつかめません。祖父のほうも黙ったままです。でも、その沈黙が嫌ではありませんでした。むしろ「ようやく祖父が何かを語ってくれるかもしれない」という期待が高まります。

次の瞬間、祖父が小さく息をつくように、「こんな形で仕事をしてるって知ったら、驚いただろう」とつぶやきました。私は思わず「うん」と答えました。そこからようやく、祖父の言葉が始まろうとしていたのです。私が知りたいと思っていた祖父の本音が、これから聞けるかもしれない。そう思うと、心臓の鼓動が一気に早まるのを感じました。

(後編につづく)

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