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自分の時間を愛して case⑤

 主人は、急いで私の実母に、電話した。

 母はすぐに、タクシーで駆けつけてくれた。その際、入院中に預かってくれていた1才の長女も、一緒に連れて来たのだった。

 長女を主人に任せ、母は私と共に陣痛室に入った。この部屋で、陣痛がある程度進むまで、待機するのである。

 私が入院していたベッドに長女を寝かせ、主人も陣痛室にやってきた。今は午後7時。担当の先生の見立てでは、出産は真夜中であろうとの、ことであった。

 私はまたも心の中で、まじでーーーっ、ながーーーい!と、叫んでいた。

 切迫体質のため陣痛の進みが早く、痛みが強くなってきているのだ。
 しかし夜中まで、この痛みと格闘しなければいけないのかと思うと、うんざりするのであった。

 長女の経験があったので、あの陣痛の悶絶するほどの痛みと苦しみをもう一度味わうのかと思うと、やはり妊娠したことをまたもや後悔している自分がいた。しかし後の祭り、もう後には引けないのであった。

 「本格的に陣痛が来る前に、おトイレにも、行っておいてくださいね!」との看護師さんの指導。陣痛の波の合間合間を見計らって、トイレに駆け込む。これが結構、ひやひやものだ。トイレ中に陣痛の波が来たら、私はどうすれば良いのだ。こんなトイレ中の恥ずかしい格好を、看護師さんにお見せするわけにはいかない。
 私は、じんじん痛む大きな下腹部を抱え、用を済ませたら素早くトイレから出た。

 この痛みと苦しみから逃れるには、出すしかない、産むしかないのだ。そう覚悟を決めて、陣痛に耐える。
 看護師さんが、暖めたタオルを腰の辺りに巻いてくれたり、さすってくれたりした。さすったりなでられたりすると、そこに何割か神経が使われるためか、下腹部の激痛が、和らぐ気がするのだ。不思議なものだ。

 看護師さんが、定期的に子宮口の大きさを確認する。「○○さんは切迫で思った以上に進みが早いから、いつ最大に開くか、分からないから。」とのことだった。

 第一子の出産を見逃した主人は、今度こそと、意気込んでこの場所にやってきたようであった。私が入院していた部屋のベッドに娘を寝かせつけ、急いで陣痛室にやってきた。
 
 陣痛室のベッドの、向かって右サイドに主人、左サイドに実母がついて、私は挟まれた位置でベッドに横たわり、陣痛に耐えていた。

 しかし長女で経験した、いきむつもりがないのに勝手にいきめてくる、あの感覚は、まだない。陣痛は痛いが、まだ分娩台に乗るまでの段階ではないようだった。

 第二子は、初産よりも楽だったと、よく経験者は語っていた。しかし私は、第二子も、痛いものは痛い。何が違うのか。さっぱり分からなかった。第一子で、陣痛の絶頂期がどんな痛みか分かっていたため、後は恐怖しかないのだった。

 ぐぐぐぐぐ・・・。
 ・・・勝手に、いきめてきた。

 キタ
 キタキタ、コノカンカク。

「○○さん、子宮口が最大になったから、分娩台に上がって!」と看護師さんに言われ、主人と母に支えられながら、分娩台に上ったのだった。

 そして足を開き、姿勢を整えた。

 主人と言えば、私を心配しつつも分娩室に初めて入った興奮と物珍しさで、絶えずキョロキョロしているようであった。

 「○○さん、もう少し足開いて、次、いきんで!」と、担当医の先生がおっしゃる。
 言われなくても、いきむつもりである。少しでも早く、この痛みから逃れたいのだ!
 
 「んーーーー、んんーーーー!!」と、額の血管がぶちぶち切れそうなまでにいきむ。出口から頭は見え隠れしているのに、赤子は、なかなか出てきてくれない。皮膚の皮一枚隔てた、向こう側に、もうそこにいる感じだ。

 「がんばれ・・・がんばれ・・・。」ぼそぼそと、恥ずかしがり屋の主人が、私に向かって声援を送る。

 「男の子だから、骨格が、丈夫なのかなあ。なかなか出ないなあ。」そう、先生がおっしゃった。
 そうか。男の子はやはり、赤子の頃より、骨太なのか。男女の違いは、赤ちゃんの頃からあるんやなあ。と、はあはあ言いながら、思った。

 そして何度かいきんだ後、ようやく頭が、出たようだった。「もういきまないで!そう、ゆーーっくり、出すからね。」
 うにゅーーっと、股から何かが、出て行く感じがする。そして、出きった後、スタッフサイドで、何か、ざわざわし始めたようだった。

 出産直後の私は、天井を見ながら、ぼーーとしていた。何が起こっていたのか、分からなかった。主人も、何だか表情が、心配そうだった。

 そういえば、鳴き声がしないなあ。
 担当医の先生の、看護師さんへの厳しい指示が飛ぶ。
 
 何が、起こっているのだろう。
 赤ちゃん、どこにいるんだろう・・・??

 そして、ようやく、私の右腕の中に、羊水で濡れた、ちっちゃな赤ちゃんが、清潔なおくるみでくるまれて、乗せられたのだった。

「ごめんねえ、心配したねえ、赤ちゃん、大丈夫だよ。生まれた時は泣かなかったけど、今、元気に泣いてるよ。」と、看護師さんは、おっしゃった。

 ・・・まじで。泣かなかったって。大丈夫なん???

私の表情を見て、「男の子の赤ちゃんは、泣かずに産まれてくる事、結構あるから、今は大丈夫。元気やから、心配ないで。」と、ドクターが、説明してくださった。
 あたまの思考が追いつかなかったが、とりあえず大丈夫とのこと、あと数時間、主人と母と赤ちゃんと、この分娩室にいて、その後産後のお部屋に、移るらしかった。
 
 主人であるが、子どもが無事で元気だとドクターに聞いたからか、途端に上機嫌になり、滅多に入れないこの分娩室の隅々を、物珍しげに観察し始めたのだった。
 
 陣痛が始まったのが午後4時過ぎで、出産した時間は、午後9時過ぎ。やはり私の出産は、思った以上に早く進んだのであった。

 後で長男の母子手帳を見た際、「特別な所見・処置」の欄が、「新生児仮死→蘇生」と、記されていた。
 ・・・そうか、だから、泣かなかったのか。危なかった、神様、ありがとう。と、無事に産まれてきてくれた事を、天に感謝した。

 こうして私の、切迫早産の疑いによる大層な出産事件簿は、幕を閉じた。なぜかというと、第三子妊娠時は、不思議なことに、入院しなくて済んだのだった。
 
 体質的に、入院の覚悟はしていたのだが。

 仕事もフルでしていたのに、子宮口が、全く開大しなかった。
 代わりに長女が、第三子を妊娠5ヶ月目くらいの時、左肘を複雑骨折し、緊急手術の末、数日間入院した。
 身重な私は、ほんの数日間だが、年中さんになっていた長男を連れ、自宅とこども園と職場と病院を、一日に何回も往復する羽目になってしまった。
 
 入院の付き添いは、主人にしてもらった。
 
 切迫早産の体質の私が、妊娠中期、動きに動いた末、しかし子宮口の変化は全く見られず、切迫での入院は、とうとうしなかったのだ。

 人間の身体は本当に不思議なものだと思った、一件であった。

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