肌に縫い付ける恋文は
凛としたオールド・ローズの花の写真を拝見し、八重の、多くの人が頭に思い浮かぶであろう薔薇の襞<ドレープ>、の迷宮のような求心性よりも、花弁の少ないその花には、はっとする美しさがある、ように思えていた。
はっとする。瞬時に連想したのは、二重の人と、一重の人だった。洪水のようにおしよせはびこり享受する西欧至上主義に依拠したオリエンタリズムの美しさ、とかいう発想に至った自分に嫌悪が湧くが、やはり、オールド・ローズの美しさ、それも野薔薇のようなそして花弁の数が少ない、にも拘らずそれが薔薇なのだという瞳を奪う美しさ、かつて良さが全く分からなかったマチスの赤、ようなしかしあくまで野暮ったさ(マチスの画における調書)はなく、子規の美しい花に関する二つの句を連想してしまう。
朝な朝な掃き集めたる落椿紅腐る古庭の隅に
地に落ちし葵踏み行く祭かな
便利な二項対立それも、聖と俗の相克、とかいった羞恥無しに口にできないどうしようもない連想が、オールド・ローズには似合うような、そんな気がしてしまう。彼/彼女は、多くの人にとっては薔薇ではないしかし、薔薇でしかないのだ。荷風の『ひかげの花』という題を、高校の頃、素敵な形容だ、と勘違いしてしまった頃のまま俺は、野に咲く或いは手入れが行き届いていないオールド・ローズを目にして、「穢れを知った子供のように愛して」あげたく、その身を手折りたい衝動に駆られる、が、手折るまで、がオールド・ローズの美しさであり、手のひらに収まってしまった幼い花弁は、指で簡単に散らすのが似合いだろう。簡単に散らせる花ならば、早急に、薔薇という総体のイマージュをうしなってしまう。しかし、彼/彼女らが毟られるだけ、毟られる奪われる瞬間においてならば、誰もが連想する薔薇に負けない強度を持っているのだと、一等美しい花だと、そう思う。
気がつけば好きな物ばかりを手にしていることに気づかされることがしばしば、それに最近は(というか今も)労働と賃金のことばかりに腐心している生活で、あまり好きじゃないものにまで熱情を注ぐのは無理だろう、とはなから見向きもしなかった、ことを、最近反省している。反省、というと少し違うかもしれない。波があって、少し上向きになっているような、そんな時期なのだと思う。「波乗り趣味っす暇あれば海とか行くんすけど、海とかマジ癒されますよね」とか、言ってみたいね!
見たいもの、読みたいものが沢山あり、また、それはいつものことだけれど、さっさとしなきゃな、と思う、そんな時期。かねてから欲しく、久しぶりにダグラス・サークのDVDーBOXの値段を見ると、中古約十万円でした。この××××! 殺すぞ! (本当は殺しませんが)。ユシュターシュも一枚で一万越えとか、なめとんのか。でも、映画だって、好きだった、というか好きだ、から買おうと思う。もう少し安いのをポチポチ。
懐かしい名前に甘える、わけではないけれど、読み直したり、自分でとっているメモを読み返しながら、彼/彼女のような人達に出会えますようにと、とにかく、憎むべき(小)金との決別を。生活のことばかり考えないで考えないで黙して、いいえ、喋って。超名曲『涙のシャンソン日記』(おれもこの邦題はどうにかならないかと思う)みたく。
せっかくなので、引用を残しておこうと思う。長いが、彼/彼女のように美しい言葉だ。
順番に、ユルスナール『目を見開いて』、ジャコメッティ『エクリ』、ジュネ『葬儀』。
―厳密にあなたに従おうとすれば、聖人になることを人々に求めることになりますよね。
フランス文学のもっとも美しい言葉のひとつを、あなたへの答えにします。いいですか、それはレオン・ブロワのなかに見出される言葉です―「不幸はひとつしかない、それは聖人ではないということだ」。この言葉には恐怖を覚えます。しかしそれは間違っています。十四世紀フランドルの三人の小学生の話をお話ししましょう。きっとお聞きになったことがあるでしょうが。三人は「感嘆すべきルイズブルック」の所へ行ってこう言ったのです―「ぼくたち、聖人になりたいんだけど、何からどう取りかかったらいいか分からないんです」。あまり弁舌さわやかとは言えなかったルイズブルックは、おそらく頭を掻きながら考えて、こう答えます―「君達は、聖人でありたいと願うだけ、それだけで聖人あのですよ」。現にあるがままの私達よりもっと聡明で美しい人間になることは、ある程度まで私達自身にかかっていますが、それと同じように、現にある私達よりさらに聖なるもの、言いかえれば、よりよきものになるのも私達自身にかかっているのです。
―「そしてあなたはそういう形の聖性に到達しましたか?」
そうできたらと願っています。というのも、自己を改善することが人生の主要な目的だと信じるからです。しかし私の注意力は弱まり、意志が揺らぎ、無気力あるいは誰もが免れない愚かさが優位を占めます。私はつねにあるべき私だとは言えないのです。最善を尽くします。しかししばしば、自分の最善以上にさらによくできることがあるのです。
あなたは私に、人間のイメージに関する私の芸術的意図についてお訊ねになっておられる。ご質問にうまく答えることはどうも私には出来そうもありません。
彫刻、絵画、デッサンは私にとってはこれまで常に、外界についての、また特に顔と人間存在全体についての、あるいはもっと単純には私の仲間の人間、特に色々な理由から私の身近にいる人々についてのヴィジョンを私自身に説明する手段でした。
私にとって現実は決して芸術作品を作る為の口実ではなかった。そうではなく芸術は、私が見るものを私自身がよりよく理解するのに必要な手段なのです。従って私の芸術概念についての私の立場は全く伝統的な立場です。
しかし例えば一つの顔を私に見える通りに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが私には到底不可能だということを私は知っています。にもかかわらず、これこそ私が試みている唯一のことなのです。私が作り得るであろう一切は、私が見ているもののおぼろげなイメージに過ぎないでしょう。そしていつでも私の成功よりも私の失敗の方が一層大きいでしょう。あるいはひょっとしたら、成功は私の失敗に等しいでしょう。私は何かを作るために仕事をしているのか、それとも私が作りたいと思ったものを何故私が作りえないかを知るために仕事をしているのか、どちらだか私には分かりません。
これらすべては私には理由のわからない偏執<オブセッション>あるいは何らかの欠陥に対する代償行為に他ならないのかもしれない。とにかく今私に分かるのは、あなたのご質問は、それに正確にお答えするには私にとってあまりにも広すぎるということです。この簡単なご質問を出されることで、貴方は、実際、全てを問題にされたのです。どう答えられましょうか。
彼の眼から、たるんだ眼瞼の下へ瞳が溶けて流れた眼窩から、蜂の群が飛び立つ。市街戦の銃弾に斃れた若者を食らうのは、若い勇士を食い平らげるのは、容易なわざではない。ひとはだれしも太陽にひかれる。私の唇は血まみれだ、そして指も。歯で私は肉を食いちぎった。普通なら、死体は血を流さない、君のは違う
生活費、及び返済に充てます。生活を立て直そうと思っています。