片足飛びで、そらへ
予定がなくなってしまった。先のことを考えなくてはいけない。ずっと飲んでなかったんだけど、自宅で酒を飲んだら、すぐに寝てしまう。俺、一人で酒を飲むと大抵眠ってしまう。眠った後は大抵後悔する。時間を無駄にしてしまった、って。
でも、毎日酔っぱらっていたいんだ。毎日、ほんわかふわふわしてたい。
文庫本で安いから、とかそういう理由で買った本が家では山積みになっていて、森山大道の『遠野物語』を読む。その名の通り、柳田邦男がまとめた物語、岩手県の遠野に実際行って写真を撮った記録。文庫本なんだけれど、とても良かった。もしかしたら、大きな、立派な写真集よりも、文庫本サイズの方が、何だかぴったりしているような気すらした。
写っているのは田舎の風景。なのだけど、どこか、不思議な風景のような気がしてくる。それは森山大道の瞳を通した景色だからか。遠野、ということを意識しないとしても、モノクロの(そして文庫本サイズの)風景は何もおかしなものがないのに、どこか、奇妙な趣があるのだ。田舎の風景と言うのが、よそものにとってはいつも何だかなじめないような気がするからか。
この本の後半は森山の解説エッセイが載っているのだが、その一部分が胸に来た。
スランプ、うつ状態の森山は、知人の小さな寺にこもってクスリや酒ばかり飲んで、香なんかたいては草や花のうつろいをぼんやり眺めていた、そうだ。
それはそれで悪くないし、草や花のうつろいは美しすぎるくらいだけれど、
でも、
「自分で自分から逃避してみたところで、そこになにごとが起こるわけでもないですし、結局そんなことをしながらも、いつもどこか写真のことにクヨクヨとこだわってばかりいるわけで、それになにより生活もありますからね」
と、自身の甘い怠惰を、そう振り返る。
そう、自分が駄目になってしまって、どうしようもなくても、生活は続いてしまうし、自分を立ち直らせるのは自分しかできない。俺が君が誰かが死んだとして、生きていることが分からなくなったとして、誰も困らない。
まあ、困る、悲しむ、人はいるかもしれないけれど、でも、その人の人生を立て直すのも豊かにするのもその人しかできない。
そんなこと、たいていの人は頭ではわかっていても、でも、寄る辺ない生活が続くと、色々とどうでもよくなったり、希望とか目標とか欲望とかが持てなくなる。せいぜい目の前の欲求を発散するとか、いろんなことを見ないようにするだけ。それだけ。
少し、先の話。どうしようかなとか、どうすればいいのかなとか考える。一生消化できない、本とか映画とか音楽とか、そういうのを消費する人生。うんざりするけれどその位しかやることがない。
それすらも消費する気が起きないなら、もう、色々とおしまいにしたくなって、そこまでいくと、たまに、もう少しやらなきゃなあ、という気になる、こともある。
死にたいとか生きたいとか、あまり考えないんだ俺。
ずっと見たかったけれど、手を付けていなかった、『serial experiments lain』シリアルエクスペリメンツレイン のアニメ版を全部見た。アニメだけを一度見ただけだと、不明な点が多いアニメだと思う。90年代アニメに流行った? 受け手によって様々な解釈を許すような終わり方。アニメ、ラノベ文化に詳しいわけではないのだが、こういう投げっぱなしエンドとかよく分からないエンドって、今だととてもウケが悪いらしい。俺は好きなんだけどね。
レインの世界観 ウィキのコピペ。
『存在は認識=意識の接続によって定義され、人はみな繋がれている。記憶とはただの記録にすぎない。』
という世界観のもとで繰り広げられる、14歳の少女・玲音(lain)をめぐる物語。リアルワールドとコンピュータネットワーク・ワイヤード(Wired = 繋がれたもの)に遍在する「lain」という存在について。
このアニメ、後半の展開は少しおいてきぼりというか、万能の解決策としての上位存在、魔法みたいな感じの存在とか演出は少しどうなのかな、とか思ったりもしたが、それでもとても楽しいアニメだった。後俺、ユング苦手なんだよねー。普遍的無意識とか、そういう便利な単語使うとさ、人、というものが平坦というか図式的になるのが、俺には受け入れられない。
というか、心理学が受け入れられないのかもしれない。考えは魅力的であったりするんだけれど、どうしても、それってお前が世界を理解する方法だろ、便利だけどそこから詩的なものをはぎ取っているんだよ、とかしょっちゅう思ってしまうんだ。
わからないのは分からない方が語らない方が良い。なんて考えている俺は社会に属せてないんだ。だから、生きるために生活の為に名前をつけよう、ってこと、俺じゃなくて誰かがやってくれ。
これは90年代後半に作られたアニメだ。インターネットに、科学技術に、テクノロジーに、あの時代は今よりも「何でもできる」ような気がしていたはずなんだ。
レインのアニメの中では最先端の技術が、今では珍しくないことになっている。スマホを使うとかVRでの体験とかも、ほとんどの人によって、インターネットが必須になっていることも。
ただ、俺は、あの時代の、コンピューターって仮想空間って何かよく分からないけれど、何かが変わるかもしれない、というわくわくする感じが好きなんだ。色んな物が急速に進化していく、あの瞬間。爛熟の香りにも似た、興奮。
そして、いくら技術が発達したとしても、人々の悩みは変わらない。誰かを支配したいとか、誰かとつながりたいとか、自分を忘れたいとか、自我が溶けあいたいとか。
後半の、好きなシーン。不気味な存在になってしまったレインに、親友の女の子、アリスが会いに行くと、レインは言う。
私の存在がワイヤードとリアルワールドの存在を崩すプログラムだったの
アリスだって誰だって、みんなアプリケーションでしかないの
肉体なんていらないの 本当は
でも友人がレインに触れ、
それをちがう という
コンピューターがプログラムが自我を持つ、というのは、好きなテーマだ。大抵、それは分かりやすいハッピーエンドを迎えることはない。だって、コミュニケーションって、とても難しいんだ。成立させるだけ、ならばきっとそこそこの難易度なだけで、だってみんなそれをして、生活をしている。でも、その人と深く交わろうとしたら、体臭を温度を何かを知ろうとしたら、それはとたんに不可能にすら感じてくる。でも、それから逃げたりそれをしたくなったりしてしまう。
プロトコル について説明文
コンピューター同士が通信をする際の手順や規約などの約束事。ネットワークでコンピューターが使う言語のようなもので、双方が理解できる同じプロトコルを使わないと通信は成立しない。そのため、インターネットのプロトコルの多くはRFC(Request for Comments)という形式で技術仕様が公開されており、誰でも閲覧できる。
コンピューター同士だって、約束事が必要なんだ。そして、誰もが誰かの情報交換をしていないと、きっと、生きている感覚が生まれないんだ。
本当にダメな時は、情報を遮断しなければいけなくなる。でも、その間に俺は少しずつ腐って駄目になって、どんどん立ちなおるのが難しくなる。それでも、自分の手で何かにアクセスしなければダメになる。
なんてこと、きっと十代の少年少女でも分かっている。でも、実行できるかどうかは分からない。自死を選んだあの人やこの人は、アクセスするのが嫌になったのだろうか?
穏やかに生きたいと思う。もう、あんなことが起きませんようにと願う。でも、奴隷のように王様のように、俺は俺の身体に君臨して、何かとの交通を開くのだ。今日は死ぬにはもってこいの日ではないと、何度も思うのだ。