見出し画像

29.本日の雑念(2)-なくてはならないもの-

先日、ある先生がこんなことをお話されていました。


「皆さんは、それぞれの教会にとって“なくてはならない存在”となっておられるでしょうか? この人がいなくては、いてもらわなくては…そんな風に誰かから思ってもらえるような人に」


存在感を発揮し、教会内での必要不可欠な役目を担うお互いでありましょう、という促しだとその場で耳を傾けている私は受け取っていた。

なにも教会に限ったことではない。家庭でも、職場でもいい。“なくてはならない存在”ならば、どこにいてもきっと重宝されるだろう。

だけど私はそこで、脇道に反れるように雑念の渦の中へと深く潜っていく。


存在感の段階

“なくてはならない”と評されるならそれはオンリーワン、至上の存在だと言える。そこまで行きつく前に、そもそも人であるなら存在感、物であるなら有用性にはいずれも段階があると思っている。

1.あってはならない

2.どちらかというとなくてもいい

3.あってもなくてもどっちでもいい

4.どちらかというとあったらいい

5.なくてはならない


…おおよそこれら五つの段階に分類されるのではないだろうか。

1を人に例えることに関しては後述するとし、物として“あってはならない”ものとはどんなものが想像されるだろうか?

極めて有害で、それが多くの人にとって不利益をもたらし、大きな不幸を生むもの。
…そう具体的に考えると、例えるなら核兵器だとか、そういう大量に人間を殺傷するといった極端なものなのかもしれない。だけどこれはそうそう滅多にあるものではなく、よって多くの場合、人であるにしろ、物であるにしろ、段階2から5のどれかにあてはまりながら存在するのではないだろうか。


“なくてはならない”になる為の条件

“なくてはならない存在・あるいは物”という評価には前提条件がある。

それは、相対的な状況がそこにあるということだ。

“どちらかというとない方がいい”
“あってもなくてもいい”
“どちらかというとあった方がいい”

こういう人や物がたくさんそこにいて比較対象として成立することで、抜きんでた“なくてはならない人や物”が光を放つようになる。人間の視点によって定められた基準がそう評価づけるのであって、つまりこれは絶対的な“なくてはならない”ではなく、あくまでも相対的な“なくてはならない”という価値だと言える。


だとしたらこれって、非常にあやふやな評価軸になりやしないだろうか?

仮に、ある高校野球チームに投打を兼ねた絶対的エースがいたとしら、彼はそのチームにとっての“なくてならない”選手だ。
だけど、そんな彼がもしも突然メジャーリーグの球団に放り込まれでもしたらどうだろう?
途端に全く存在感を失い、別にそのチームにはいなくてもいい存在にまで評価を下げてしまうに違いない。

そう、“なくてはならない”とは、あくまでも相対的な基準なのだ。

更に、“なくてはならない”存在とは、客観的な評価であり、自己評価では成立し得ない領域だ。

「私はこの会社にとって“なくてはならない”社員なのだ」

…なんてことをその人本人が言ってたら、とんだ勘違い野郎だと周囲は感じてしまうのではないか。
本人にその気はなくても周囲が、

「あの人は本当に、うちの会社にとって“なくてはならない”人だ」

と高い評価を与えるから、“なくてはならない”という称号がようやくその意味を持つようになる。

それってつまり、“なくてはならない”という存在なんて、誰かの印象や感想に左右されるものであって、明確なゴールがないのなら、そもそもはじめから目指しようがないんじゃないのかな?

少なくとも、誰かとの関係性において、あるいは場の状況において“なくてはならない”だとか“あった方がいい”だとか、そういう基準が立ち上がってくるわけで、他者から高評価される為の自己研鑽だとか、目標・方向づけしていくのって、どこか歪んだ発想とも捉え得る気がしてしまうわけだ。


個人的な考えだが私は、“どちらかというとあった方がいい”寄りの“あってもなくてもいい”存在でいたいと思っている。

その理由は、それぐらいのポジションが私にとってもまわりにとっても、気を遣わなくていい、双方にとって非常に楽な関係性がつくれるから。


“なくてはならない”という評価を受けた場合、それは今後、下がることはあっても、それ以上に上がることは難しく、そこには見えないプレッシャーに晒され続けるというしんどい状況が生じてくる。

ほかにも、“なくてはならない”存在と、それをそう評価する側は相互に依存しあう関係に発展しやすくもなります。これがなかなかにして危ういわけだ。

仮にその人が急にいなくなったり、トラブルで急に来れなくなったり、そうなった時に代用がきかない事態に陥ってしまう。そうなると困ったものだ。

その点、いた方がいい寄りの“あってもなくてもいい”存在なんて、簡単に代用がきくし、相手にとってもプレッシャーを与えることはない。楽です。めっちゃ楽なんです。お互いに。

「いてもいなくてもいい人だなんて、そんなのつまらないじゃないか」

もしかしたら、そう感じる人もいるかもしれない。
でもね、つまるかつまらないかなんてそれは他者からの評価の問題であって、私個人の価値とは一切関係ないことだ。他人からどう思われようが、相も変わらず私は私を大切にし続けたらいい。「他人に軽く見られないように」とか「なくてならないと思われるように」とか、そんなことを気にしながら生きるのって、おかしくないだろうか?


神様という絶対的視点

ここまでは一貫して“人間から見た視点”“相対的視点”からの“なくてはならない”存在を言及してきた。

では“神から見た視点”“絶対的視点”から見たら、これは一体どうなるだろう?

結論は簡単。

どういう人であっても、全ての人間は、オギャアと生まれた時から、死を迎えるその瞬間まで、一瞬たりとて変わることなく、神様にとっては誰もが“なくてはならない”存在なのだ。

全員。


ひとり残らず。

有能だろうが無能だろうが。

容姿が良かろうが悪かろうが。

性格に問題があろうがなかろうが。

そう、全員。

だって、

“いない方がいい”存在なんて神はそもそもはじめから創造するのだろうか?

“いてもいなくてもいい”存在なんて神はわざわざそう設定して創るのだろうか?

存在する以上、いのちある限り、須らく、なくてはならない私であり、あなたであり、みんなそうなんだ。きっと。

誰かにとっての“なくてはならない”を目指すよりも、比べることをやめて最初から自分は“なくてはならない”存在なんだって、思い出す。気づく。

それが最大の親孝行だと私はそう感じている。

ハイ。

楽しんでいきましょう。
なんて雑な締めくくりで終わりたいと思う。

【2024.7.4】


ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^^)


いいなと思ったら応援しよう!