好きな音楽を語りたい!/私を構成する42枚①
こんにちは、Laさくです。
この前、#私を構成する42枚というTwitterにありがちなことをやってみました。その結果が下記の通りであります。
どうでしょうか。しっかり眺めてなにか感想を持ってください。この作業を飛ばしてしまうと楽しみが半減します。
そしてこれからの文章はそれぞれのアルバムについてたくさん語っていこうというだけのものです。語りたい、から、語る。という至極自己完結的な文章です。今回は一番上の一列についてです。
ちなみにこの文章は毎朝の通学時間で書いています。そのため、その日のコンディション、忙しさ、朝ごはんに食べたものなどで文章の質がまるっきり変わってきます。生ものの文章を楽しんでください。
1.テヒリーム/スティーブ・ライヒ
ラインベルト・デ・レーウ指揮 シェーンベルク・アンサンブル、パーカッション・グループ・ザ・ハーグ演奏 バーバラ・ボーデン(ソプラノ)、タニー・ヴィレムスティン(ソプラノ)、イヴォンヌ・ベンスホップ(メゾソプラノ)、アナンダ・ゴウド(メゾソプラノ)
最近物を持たない人のことを「ミニマリスト」と言うようになりましたが、私にとっての「ミニマリスト」はミニマル作曲家のことであり、そしてそれはこのスティーブ・ライヒのことに他なりません。
私が現代音楽で一番好きな作曲家であるスティーブ・ライヒの一番好きな曲。それがこのアルバムに収録されている「テヒリーム」です。
ジャンルとしてはライヒが得意とするミニマル・ミュージックの範疇に属するのだと思いますが、カノンやフーガなどより古典的な西洋音楽に先祖返りしたような形をとっておりライヒ作品の中でも異質な存在感を放っています。すごい。
浮かんでは消え、そして反復されていく神聖で耽美なフレーズの数々。そして妖艶で目眩のしそうな和声の連続。さらには力強く荘厳に奏でられるリズム。すべてが渾然一体となってこの曲の宗教的な雰囲気を作り出しています。やっぱりすごい。
それより何よりもこのアルバムがとんでもないのはその「演奏」の上手さではないですかね。楽譜通りに演奏するだけでも血の滲むような鍛錬が必要だと思いますが(女声と太鼓の絡み方を聴いていると分かりやすい)、それ以上に五線譜から飛び出してほとばしる情熱、いわばパッションを感じて聴いているだけで胸がいっぱいになってきます。例えばセクション4のコーダに向かうまでの絶妙なダイナミクスの変化!そしてその頂点で叫ばれる「Hal-le-yu-yáh!(ハレルヤ!)」の美しさ!ここら辺は完全に奏者のセンスに一任されるのですが、このアルバムではそれがバチッと決まっています。ぜひ一度お聴きになってみてください。その後に収録されている「3つの楽章」も上がりきったテンションを徐ろに下げるにはピッタリの御茶漬け的な佳曲でいいですよ。
2.BGM/イエローマジックオーケストラ
小学校6年生くらいからテクノにハマって、そこからずっと聴き続けているアルバム。YMOだったら「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」とか「浮気なぼくら」とかちょっと捻って「増殖」、「テクノドン」(これは”ノット”YMOだけど)とか好きなアルバムはいっぱいあるんだけど、やっぱりその中でもこのアルバムは頭二つ分くらい抜けていると思う。特にアルバム先頭の「バレエ」っていう曲が大好き。初めて聴いた時から今までずっと私の中で再生され続けている。短調の曲が並ぶ中で印象的に配置された「キュー」も好き。当時の技術の贅を尽くした音世界で聴けば聴くほど新たな発見がある、そんなアルバム。あと細野さんの名曲の「マス」も収録されてる。このイントロ聴くたびに身震いする。あと、あとね、、、この調子で全曲3周は語ってしまいそうなので、今日はこの辺にしておきます。
3.エビクラシー/私立恵比寿中学
3枚目にしてえびちゅうのアルバムが登場です。 私が選んだのは4th album「エビクラシー」。オリジナルアルバムの8枚はそれぞれにそれぞれの良さがあってめちゃめちゃ迷ったんだけど、自分にとっていつもそばにあったアルバムって何だろうと考えたときに真っ先に思い浮かんだのがこのアルバムでした。ちなみに「エビ中の絶盤ベスト〜終わらない青春〜」や「エビ中のユニットアルバム さいたまスーパーアリーナ2015盤」を選ぼうという案もありましたが、衆議院で否決されたとのことです。
「キレのないダンスと不安定な歌唱力」なサブカルアイドル、そして豪華な作曲陣を誇るパフォーマンス力の高いアイドルへという変遷を辿り、行き着くところまで行った感のあるシンメトリー3部作(「中人」、「金八」、「穴空」)を超え、エビ中が到達したマスターピース。それこそがこの「エビクラシー」なのですよ。
各曲のレベルが押し並べてべらぼうに高いのはもちろんですが、それ以上にこのアルバムは「遠ざかる過去を愛して、今を生きていく」という想いがこれでもかというほど詰まっているように思います、少なくともそう思って聴いていますよ、私は。
どうしてもこのアルバムは悲しい出来事と一体不可分になっているようで再生ボタンを押すのがほんの少し怖く感じていましたが、そう思いながらも何回も何回も聴いているうちにだんだんとこのアルバムの本当のスケールの大きさが分かってきました。
どんなに悲しくても辛くても嬉しくてもそこに立ち止まることさえ許さない、私たちが生きる日常の揺らぎの無さ。そしてその中で一日を積み重ねていかなきゃいけない、生活の果てし無さ。そんな人間の背負った業のようなものを優しく掬って、進化したエビ中という俎上に載せて、最上級のアイドルポップというラッピングでまとめてみせたこのアルバムがどうして良くないことがありましょうか。いや良い!(反語)
熱が入ってついつい語りすぎてしまいました。ちなみにこのアルバム発売時には、発売記念イベントとしてエビクラシーゲームなるものが催されていました。スタッフが出したお題に対してメンバーとファンの答えが一致するかというものです。もし「あなたにとっての宝物は?」というお題が出たら、私は間違いなく「エビクラシー!」と答えます。一致するかは分からない。「蒙古タンメン」と言われるかもしれない。
4.スポーツ/東京事変
紛うことなく私を構成しているアルバム。10枚目の「無罪モラトリアム」と並んで人生で一番聴いたアルバムです。体の15%くらいはこのアルバムから出来ているんじゃないかな、左足くらいはこのアルバムな気がする。
ちなみにこのアルバム、人生で初めて自分で買ったアルバムなんですよ。なんかいいエピソードですよね。普段はサブスクで音楽聴いてるんですけど、このアルバムだけはCDケースから取り出して聴くときがあります。
アルバム自体はすごく濃密で、「スポーツ」という名の通りフルマラソンかトライアスロンをやっているようです。それでも聴いていて胃もたれしない、聴き終わった後には程よい運動をこなした後のようなさっぱりした爽快感が残ります。このあたりは東京事変というバンドの懐の広さこそが成し得てる絶妙なところだと思いますが、いかがでしょうか。
収録されている曲も名曲揃い、無機的なコーラスの上に形而上的でメロディックな一番が歌われたかと思ったら突然バンドサウンドが殴り込んでくる「生きる」に、疾走するかなしさをそのまま曲にした「シーズンサヨナラ」。中期東京事変の代表曲でシングルカットもされた、ニヒルでクールな大名曲「能動的三分間」、そしてシームレスに流れる「絶体絶命」など色々。この「絶体絶命」という曲が東京事変の中で一番好きです、伊沢一葉らしい洒脱なコードの上で踊るタンバリンとベース。この曲をライブで観て私はベースを始めました。歌詞カードでみると、歌詞が真四角になるように配置されててその美意識まで含めて好きな曲です。
5.交響曲第4,5,6番/チャイコフスキー
指揮エフゲニー・ムラヴィンスキー 演奏レニグラード・フィルハーモニー管弦楽団
ここに来てクラシックである。ここまで5枚挙げたけれど、あまりにもバラエティ豊かすぎて不安になってくる。それでもこの坩堝が私なのだという感触を噛み締めて文章を書きます。
私は小さな市民オーケストラに入っているのだけれど、入った年にメインで演奏した曲がこのアルバムにも収録されてるチャイコフスキーの交響曲第6番だった。今思うとファーストインパクトがヘビーすぎる。
緊張しながら市民センターの大会議室の扉を開けたら2楽章を練習してて、私もそのまま練習に参加させられたことを今でも思い出せる。オーケストラで演奏するなんて経験初めてだったのに、チャイ6、悲愴、5拍子。何が何だか分からなくて、その日は結局半泣きで市民センターを後にした。
そうしてよく分からないまま数ヶ月が経った日のこと、急に「このままじゃいけない!」と勢いづいてまじめに曲の勉強を始めた。時間のあるときはスコアとにらめっこして、指でリズムをとりながら曲を聴いてという日々が始まった。(まじめな人!!)
そんなときに出会ったのがこのアルバム、ムラヴィンスキーのチャイコフスキー後期交響曲全集。
衝撃だった。軽じゃないトラックにぶつかられたのかと思った。ムラヴィンスキーは「スパルタ指揮者が怖すぎる!」みたいな動画で取り上げられてるのを観たことがあったのだけど、この演奏を聴いたらそのスパルタっぷりも十二分に納得できた。それどころかスパルタじゃないとおかしいと思う。
というのもこの演奏、オケの揃いっぷりが尋常じゃない。揃いっぷり(ぷりってかわいい)といっても、音の出だしが揃っているとかそれだけじゃない。数十人といるであろう団員の、音のベクトル、それが完全に一つの方向を指している。例えるならもはや鍛え抜かれた軍隊である。
その揃いっぷり(やっぱりぷりってかわいい)にたいそう感動した私は、このアルバムを四六時中聴き続けた。オーケストラとはなんたるか、いい演奏とはなんたるかを全て教えてくれた。ただ教わることと実際に活かすことは完全に別のことなので、その市民オケでの私の演奏には全然納得がいっていない。
そしてその少し後、市民オケの指揮者の方のつてで今度はチャイコフスキーの交響曲第5番を演奏することになった。合縁奇縁である。再びムラヴィンスキー師匠に教えを乞うた。
5番の演奏も凄まじかった。またも大型トラックに撥ねられたかと思った。この時の演奏は個人的に少し納得のいくものだった。嬉しかった。それでもまだまだ!と思って今でも練習をしている。
個人的な話ばかりになってしまったから、少しだけ曲について語りたい。
交響曲第4番。チャイコフスキーが37歳ごろ、不惑に差し掛かろうかというころの作品である。この曲は何といってもチャイコフスキーの「新しいことやったりますわ!」感がすごい。4番以前の初期交響曲はロシア民謡をほぼそのまま使った民族色の強いもので、ときに荒涼とした草原だったり、ときに茫洋とした冷たい夜の匂いであったりするんだけど、どうしても土臭さが抜けきらない感じがあった。それに対してこの4番はそういう野暮ったさを克服している。表象されている風景はロシアなんだけど、一気に洗練されて大変身。特に聴いてほしいのは一楽章、ベートーヴェンの交響曲第5番とも比較されるほど劇的で、切れば血の出るような響きを感じる。絶望の淵を渡り歩いて、運命と対峙するキワキワの感じ。その勝敗はみなさんの耳でお確かめください。
交響曲第5番。シンフォニーをライフワークの一つにしていたチャイコフスキーにしては珍しく、4番の発表から10年近くも経った後の作品である。(途中マンフレッド交響曲というのがあるけど、番号付き交響曲に並ぶほどの名作ではないかな…)だけどこれまでにない期間を完成までに費やしたのもめっちゃ頷けるほど完璧に構成された曲。なんといってもこの曲はその衒いのない明快さに尽きると思う。間延びしているとか深みがないとかそういう意味では全くなく、「暗」から「明」へ、「絶望」から「希望」へ、という正のベクトルが全曲通してフラクタルのように組み込まれている。全楽章語りたいんだけど、特に聴いてほしいのは2楽章。冒頭のホルンソロがあまりにもいい旋律なのでそこばかり注目されがちだけど、その後に出てくるオーボエの副次主題や、ピッチカートの上で優しげに歌いあうヴァイオリンと木管楽器(このアルバムだと7分過ぎくらい)など聴いているだけで魂が熱くなってくる箇所がたくさんある。それ以外の楽章も大好き。
交響曲第6番『悲愴』。チャイコフスキーが死の間際に書き上げた人生最後の作品。実際この曲の初演の7日後、チャイコフスキーは亡くなっている。そしてこの曲はチャイコフスキーの、そしてクラシック音楽界に燦然と輝き続ける大傑作である。これまで話した2つの交響曲、そしてその他あまたのチャイコフスキーの作品と比較しても、この曲のレベルの高さは特異点と言っていい。交響曲第5番で確かに存在した外面性やエンタメ感は、この交響曲第6番において排除されている。この曲にあるのは、一人の男の一生とその男が人生を懸けて作り上げた芸術の全てなのです。抽象的なことばかり言ってしまったね。この曲は大名曲であると同時にすごくパーソナルな曲なんです。打ちひしがれる悲しみや恐怖がたくさん詰まっていて気楽に聴けるような曲ではないけど、誰も表現できず辿り着くことの出来なかった世界が一面に広がっている、そんな曲です。この曲は楽章ごとには語れないな、ぜひ全楽章通してお聴きになってください。
ちなみに私が無人島に1枚CDを持っていくなら、チェリビダッケ指揮のこの悲愴を持っていきます。ムラヴィンスキー盤ではないんです。そのチェリビダッケのアルバムも42枚の中に選んでいるのでその話は追い追いということで…
終わりに
こんな文章を読んでいただきありがとうございました。スキは押していただかなくて結構なので、もしこの文章が少しでもいいなと思ったら下の動画をご覧ください。