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マグダラのマリアの奇跡

真理に基づいた心理カウンセラー・真空のまさみちです。魂の課題の解決や真実を伝えて現実の歪みを正すサポートなどをしております。記憶を遡り、転生の因果を見通すことで「現実がなぜこのようになっているのか?」を解き明かし、皆様のお役立ちになるような気づきを届けております。

 今回の記事では「イエスの使徒ペトロが築き上げたカルマを終わらす」ことが主なる目的です。
 そして「マグダラのマリア」が、どれほど凄いのかを伝えられたらと思います。

イエスの記憶・その魂の課題と現実

 仕事柄、アカシックレコードに繋げられるようになると、自分がイエス・キリストの生まれ変わり? と感じるようになる。
 実際問題、才能乏しい自分が「生まれ変わり?」など極めて懐疑的で、現在を生きる自分と過去との統合が困難を極めた。
 何しろ、「釈迦の生まれ変わり?」という気づきもあって、「まさか」ばかりの時期を過ごす。これが記憶が複数同時並行的に存在しているメカニズムを紐解く体験へと至る。
 結局、魂のテロメアを分離する人体実験の結果により、魂を複数持つこととなり、記憶の格納庫が9つ存在しており、真に怪しい話がベースにあることを承知しておいて欲しい。

 真空のまさみちがイエスの記憶を持ち、転生の因果関係をあらゆる角度から見つめつつ、妻あなむの救いの力(聖杯の力といってもいい)に導かれながら、回復の道のりを現在進行形で話しているものだ。

イエスの魂の課題

 イエスの魂を持つ当事者が語るので、過去生の自分の実体験が元である。
 アカシックレコードを自在に見る人がいても、自分の意識より高い人を読み解くことは不可能であり、学びが完了していない状態において「客観的な視点で物事を判断することは不可能」という真実に気づいていないと、真理のお話しにも繋がらないことを伝えておく。

 この世界は「主観性が基本であり真実」であるからだ。

 「私もあなたと同じ立場に立ったら、同じ事をするに違いない」と、相手と立場を入れ替えたら、同じ事をしてしまうという想像力が第一に必要不可欠だからだ。

 この想像力があるなら、意識レベル555には到達する。

 「意識レベル」という表現は、デヴィッド・ホーキンズ博士の「パワーか、フォースか」の著書か、「I (わたし)真実と主観性」の著書を参考にして欲しい。
 今世、私が目覚める際に拠り所にしていたバイブル的な著書はこれである。
 これを読んでも目覚める訳ではないが、一つの指標にはなる。

 イエスの魂の課題は、「女性の言葉を信じなければ、何事も始まらない」ことを学び、身につけ、世に広めていく力を有することにある。

 イエスにまつわる聖杯伝説などはどれも人々の妄想であり、真実味を帯びている話がない。
 真実は広まらず嘘は限り無く広がって行く妄想世界に閉ざされた現実を生きる人にとって「嘘」は安らぎだからだ。
 辛い過去と向き合い乗り越えることよりも、どこまでも楽な道や嘘を信じる現実世界へ逃げ込むものである。

哀しみに基づいた現(うつつ)の世界

 この世界の嘘から抜け出せないメカニズムを教えよう。
 ドラマや映画、マンガなどを調べてもらいたいが、どの作品も「誰かの死」から始まっている作品がヒットになっていることがわかる筈だ。

 「母の死」により立ち上がる主人公。
 「親友の死」により世界を変える主人公。
 「身代わりで死んだ友」の為に、苦境に立ち向かう主人公。
 「捨てられた子」として、蔑まれた立場から自分の居場所を生み出す主人公。

 どれも、根底には「寂しさ」などの孤独が隠れている。

 「イエスの死」も同様である。

よくも「救世主を殺したな」で盛り上がるカトリック

 現実はファンタジーである。
 日本語とは実に明快で「現(うつつ)から生み出された実りの世界」であるから、現実とは嘘を信じることで成り立つことを示している。
 解っていてもどうにもならない、現実世界の不毛なやり取りがある。

 「救世主だ」と言っているのは使徒であり、イエス本人ではない。
 イエスの記憶を持つ私自身に「私が救世主です」と言うか? と問えば、「言ったことはない。」と返事が帰ってくる。イエスの記憶を探っても見つからないが、「弟子からは言われたことがある」とは、告げられる。

 つまり「救世主」再来を期待するキリスト教は、誇大妄想の塊であると、イエス本人から告げることが出来る。

 キリスト教は、カトリックもプロテスタントも、誇大妄想に取り憑かれて本質を見失ったまま、敵をひたすら生み出す厄介な宗教であり、ベースとなったユダヤ教もイスラム教も、宗教思想の違いを受容できない閉塞的なもので、どれもが争いの火種になる「教え」ばかりで、真理でもなんでもなく虚構であり、欺瞞の温床とも呼べるものになる。

 どの宗教(仏教もヒンズー教も含む)も、争いの火種になるなら意味が無いとゲンナリするのは、正常な感覚だと告げる。

 だからといって否定すれば問題が解決するかといえば違う。
 真実とは何か? サムシンググレート(大いなる源)となるような根源と繋がること、繋がった上で知恵から智慧に改めて行くことが道であるものの、それを伝えることが至極困難であり、歴史の中で幾度となく試みて失敗に終わっているのが現状である。

 ユダヤ、キリスト、仏教、イスラム、ヒンズーなど、様々な宗教での争いなど、マンガの設定くらいのものだと思って欲しく、楽しむことや生きる指標として利用するのはいいが、これにより平和に移行するならともかく、争いとなるなら「何も信じたくない」状態になる人たちもたくさん出てくるものだ。
 それが現代の日本人ともいえる。

使徒ペトロの罪

 当時のイエスのように目覚めてしまうと、人が自身に向けて放った言葉を否定することを極力避けた。

 否定する言葉を使うのは、その後に目覚めさせられるだけの智慧がある時だけだ。

智慧とは、真理に問いかけ閃き降ろされるもので、問題があると同時に解答が既に存在していることを知っている状態のことを指す。

知恵とは、経験に基づいたもので、失敗体験と成功体験の両方があり、失敗している人を成功へと促せると信じ込んでいる状態で、手に負える範囲と、手に負えない範囲は、「その時」にならなければ解らないものである為、安易に「役に立つ」と信じ込んではならないものの一つであるが、貴重なものでもある。

智慧と知恵の違い

 人が投げかけた言葉を否定で返す時は、適切に相手の誤解を解き明かせる時にしか、有効に働かない。

 人は否定の言葉を解釈するのが困難であることは、脳科学的にも立証されている。
 「ダメ」「違う」「やめて」など、否定する言葉で心を育て上げてしまうと、客観的な心を分離意識で育て上げ、主観的で繋がり合う心の生育が出来なくなる問題を抱えているからだ。

 イエスは、使徒たちの度々使われるネガティヴに基づく言葉を正しきれなかったと告白する。
 当時のイエスは、釈迦ほどの智慧は巡らなかったのだ。(イエスは魂2、釈迦は魂3と、どちらも私の過去生ではあるが別の魂である。)

 ペトロの罪は、「イエスに全ての問題解決の道を歩かせようとした」ことだ。

 私はやりたくないけど、あなたはやりたいに違いない!
 私はあなたに従った振りをして、様々な知恵を授かりたい。

 このような文脈でペトロはイエスを「救世主だ」と呼んだのだ。

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 この記事を読む際に、映画「マグダラのマリア」を観ることもオススメします。(私はアマゾンプライムで観ました。)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07L1BTJ81/ref=atv_dp_share_cu_r


「私は知らない」と三度答えた。

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