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愛が還ってきた 帝釈天王像㉘-2

リーディングマスター・まさみちです。心の探究は実益に直結出来て、自分の好きなことで仕事に繋がっている現実は、とても有り難いことだと感じています。少しでも心がケアされて、自己実現が叶うよう願っているものです。(69/88)

帝釈天王(たいしゃくてんおう)の働きは、東寺・立体曼荼羅における帝釈天とは働きが違います。立体曼荼羅の帝釈天は象に乗っている仏像です。

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この象は、人々の「意識の集合の表れであり、共感や命運を共有することで一つの力となるもの」を指すものとイメージしていただけると良いものです。

「帝(みかど)」という漢字を当てているように、大衆の意識を理解する者であることが求められており、呼応する関係性です。支持されない「帝(みかど)」では、人々は動いてくれないことも表現されているものです。

二十八部衆の帝釈天王は、立像であり象が不在です。「共に暮らし、同じものを見て、その土地のものを食し、わかり合えるもの」としたニュアンスがあり、「帝」のニュアンスは、地道な人々との触れ合いをすることが出来るから、大衆の理解者となり得るものとした意識の表れであり、仏性が宿るもののことを伝えるものです。

㉘-2は、第二チャクラについて解説します。

心の問題は「㉘冤罪(識)」しかないと断言する程、真理から捉えればどれもこれも、誤解と錯覚でしかないものです。仕方がないといえばそれまでですし、世間で言う冤罪と、ここで捉える冤罪の意味が違います。

世間の冤罪とは、「行動していない事実を捻じ曲げられ、行動した犯人とねつ造され、それにより捕まり、有罪判決が下り、刑が執行されてしまうこと」です。

7つの大罪における冤罪とは、「伝えたい思いと、受け取る思いのズレがあり、それを客観的に判断する者も、二手に分かれ、双方を弁護し、互いの言い分を認めずに争う状態のこと」としたニュアンスです。

子どもに対して親が、「宿題はやったの?」と尋ね、子どもが「やったよ」と答えたことに対して、「本当にやったの?」と確認すると、「やったって!」と言い返し、「見せて」と証拠を確かめようとする作業が、子どもからしたら「㉘冤罪(識)」でしかない感覚であることを伝えるものです。

最初から親が「宿題やっているか見せて」と言えば済むことであり、訊問するような「⑨不信(想)」から関わることをすれば、子どもの心は疲弊していきます。これが毎日や、毎度毎度「②執拗(暴食・行)」な確認作業をなされると、親子関係の信頼が「⑯終焉(受)」と到ってしまうことがあります。

親や目上の存在が、子や目下の存在に対して「⑨不信(想)」を抱くように到った記憶があり、それは「㉓差別(識)」体験に基づいているものです。「不当(受)に扱われ、「不快(想)」さをぶつけられ、「不満(行)」の捌け口とされ、「不幸(識)」を感じさせられた体験が、強い「㉓差別(識)」感情を抱かせ、親や目上の立場からは「面倒を見ているつもり」でいながら「⑨不信(想)」を抱かせるのは子や目下に原因がある「㉘冤罪(識)」を抱いてしまうのです。

その価値観は「⑦傲慢(行)」そのものであり、子や目下に対して「⑭遺棄(想)」していると変わりない関わりであり、執拗に関わるならばそれはもはや「㉑迫害(受)」と変わらず、子や目下からしたら「愛されてなどいない」と強く感じ受けるものです。

この子や目下の感想である「愛されてなどいない」という認識は、親や目上の立場からしたら「㉘冤罪(識)」だと主張したいものですが、「事実だけを取り上げていく」なら、「信頼していない事実が見つけられる」為、自分たちに「愛している!」と言い放とうが、子や目下の立場からすれば受けた数々の仕打ちをやり返すまで、心を落ち着かせられるものではないものです。

これが家族ならば、まだ誤解は解け、「冤罪」に到らないかも知れませんが、職場や学校では、「もう終わりでいいや(⑯終焉・受)」とした認識に到り、「⑨不信(想)」の限り、職場に損害を与えることや、学校の価値をなくさせるような行為に及ぶことがあります。職場で「②暴挙(暴食・行)」に及ぶようなことや、「②暴発(暴食・行)」行為に発展すると、「大人しかった人がこんなことをするなんて」と、暴挙や暴発して迷惑や被害を出している現実を見て、犯人を特定しようとしても「㉓冤罪(識)」が元々ありますから、「こんなことになるなんて思わなかった」と、事件が起きてから反省の色を見せるにしても、因果関係が納得出来ないものなのです。

過食における「②暴食(識)」の問題も、「不当な扱いにおける⑦傲慢(行)な触れ合い」「㉘冤罪(識)」である為に、通常状態ではないことを周りにわかってもらいたくて「㉓差別(識)」がつくように態度で表しても全てが同時に治らないと、治るものではないのです。

そこには阿吽の呼吸のように「⑨不信〜⑭遺棄(想)」が根強く残っており、「⑯終焉〜㉑迫害(受)」が無意識のまま反射的に行われていて、意味や動機や意図を探しても誤解が解けないため「㉘冤罪(識)」は変わらずにそこに居続けるのです。

一体何があると、このような無限に繰り返す苦痛を自身に与えるメカニズムは、何が働き機能しているのか考えてくしかないのです。

②乾闥婆の抱擁と㉘帝釈天王

「㉓差別(識)」の本質は「特別に大事にしたい」という愛情や思いやりが強く表れてしまい、平等に扱うえなくなっている時に出てくるものです。

兄や姉が、弟や妹の出産や誕生により、自分に向けられていた親の愛情が目減りしていると解釈すると、100%あった自分への愛が、50%などと対等なら半分ですが、20%まで下がり弟や妹に80%の親の愛が時間配分などで決めると、兄や姉は「大事にされなくなった」と感じ、それを「不満が改善されず、我慢ばかりさせられ、納得出来ない扱いのままなら」と言うに云えない不満や不快さを抱えると、「㉓差別(識)」を感じることもあります。

本来は、どれだけ弟や妹が誕生したとしても親の愛は100%のままです。それを兄や姉にも注がれていると感じられるかどうかは、家族の中に「㉓差別〜㉘冤罪(識)」にまつわる記憶の領域に哀しみ体験が残っていないかどうかです。

何があって、そのようになるのか因果関係を追いかけることが出来なくなるのが無限ループの心の傷、業(カルマ・行為)です。

繰り返し止まらない行為があります。「何度言えば解るのか!」「何度失敗すれば気がつくのか!」「誰のために働いていると思っているのか!」などと、「②暴言(暴食・行)〜⑦傲慢(行)」があると、「②不信(想)〜⑭遺棄(想)」と思いつき、「⑨終焉(受)〜㉑迫害(受)」となるような受け止め方や決断を下し、「もういいや」「ここにはいたくない」「いなくなって楽にさせてあげたい」と不信感が増大すると、見捨てられた感(遺棄感)まで高まり、終わった感(終焉)さが仕返しの方法として不在になること(迫害)で終止符を打とうとしてしまうものです。

飛び出した先で「こんな酷い目に遭った(㉓差別(識)〜㉘冤罪(識)」と不当な扱いを受けてきたことを打ち明けると、迎え入れてくれる人たちと出会います。しかし、そこでも同じように問題の根源が癒やされていない為、形を変えて同じようにトラブルが発生し、繰り返し問題が起こり、不信にまみれ、手に負えなくなり終わりを感じてしまい、飛び出してしまうものです。

このサイクルが大きくなれば輪廻の繰り返し業(カルマ・行為)になります。

第二チャクラは、人と人との縁の結びつきや、対人コミュニケーションを支える領域であり、様々な人たちとも縁があるものです。そこには常に誰かを不信に扱い、自分は正しく、相手が悪いという構図を創り出してしまい、終わることのない迫害ゲームを演じては、冤罪を撒き散らしている事実が見えずにあります。

「捨てられた(遺棄)」と嘆くと、そのいきさつや物言いに「傲慢な人だ」と批難されると、情緒不安定になってしまい「過食嘔吐(暴食)」などにストレスが現れることもあります。

自分の理想の関わり方や扱い方と一致しない限り「差別」されたと嘆くと、その狭量な価値観に対して「終わっているな」「不信」のレッテルを貼られてしまい、「捨てるしかない」結末を自分で生み出してしまうのです。

どこを切り抜いても不幸であり、聞けば可哀想で「哀しい人」だと理解されるものの、時間を費やして助けようとしても「不信感」は不信を呼び込み、「迫害じみた過剰な反応」を見せてしまうと「付き合いづらいからさよなら(終焉)」となる扱いを受けて、「捨てられて(遺棄)」しまうのです。そして「私は悪くない」と傲慢な発想に蝕まれ、「過食嘔吐(暴食)」をしてはストレスを少しでも和らげたいと、食に逃げるしかないのです(買い物依存でも、ゲーム依存でも、アルコール依存でも可)。

帝釈天王

帝釈天王は、因果関係の全てを掌握してくれる仏性です。

一つの雑念(冤罪となる苦しめられた気持ち)は、全ての雑念と因果関係で結ばれているので、それを辿ると全体を掌握出来ます。

時には過去世の縁も、交友関係も全て繋げて問答していきます。

何がそもそも「哀しかった」のか?

「苦しい時に側にいてあげられる存在でいたかった」

このような思いやりしか、人の持つカルマを調べていくと、見つかりません。

みんな思いやりでしか動いておらず、動いたものの思い通りの結果に到らないため、自分に対する「⑨不信〜⑭遺棄(想)」や、周りの無責任さを見て「⑯終焉〜㉑迫害(受)」などと感じては、「自分がどうにかしてあげたい」と思うのです。

これは転生を股にかけて見る視点であり、中間世(死後の世界)の場合もあり、生きている場合もあります。あの世から見ていて「誰も救いの手を差し伸べない人がいて可哀想」と思い、「自分だったら側にいて助けたい」と願うことがあるのです。

この願いによって人生の課題が誕生し、クリアする為には「誰もが見放すような人の側で生きられるようになる」こととなる為、基本苦しいしかないものです。

目の前に繰り広げられる「暴力」「暴言」なども、「②暴食(行)」といった証拠も全部「㉘冤罪(識)」でしかないと決めつけてかかると、謎が解けていくものです。全てが自分起点であることで、自分がとてつもなくお人好しで、どんな窮地の中でも、後先考えずに飛び込んで救済しようとしているのです。

その飛び込んだ先が「今の家族」です。

有り得ない辛さがあるかも知れません。不信と終焉しかないかも知れませんし、既に棄てたかも知れませんし、迫害の真っ只中かも知れません。

脳内のお喋りは傲慢そのものであり、執拗に繰り返される雑念は暴妄とも呼べるほど横着であり、横暴であり、妄想癖の強い痛々しい心があるかも知れません。

言う側、言われる側、不信感から反発する側、終わったと既に諦めきっている側など、家族のやり取りを振り返ると、幾らでも問題は見つかるものです。

その一点のエゴをピックアップしても、全てのエゴをピックアップできるものだと信じることです。それが「冤罪」からの抜け道です。

証拠を完全に無視して「悪い人」「いい人」に変えて、網羅した記憶の全体から関わると解るようになります。

「支えてあげたかった」

「解ってあげたかった」

「大丈夫だよと、安心させてあげたかった」

そう家族みんなを抱きしめるイメージを抱いてください。

帝釈天王が、全てを包み込んでいるイメージです。

力を抜き、大きくため息を意図的につくことです。

全てが無駄であり、無能であるとするなら、執着して苦しむ事も、嘆くこともないものです。全て全てが解放されてしまうのです。

評価などいらなくなります。

無くしてしまうことです。

肩書きも、履歴も、父母とした認識も全て消えてなくなったことをイメージするのです。

白紙に戻してあげた後、「生まれ変わった私がしたいことは?」と自身に問いかけてみることです。帝釈天王が見守ってくれているのです。

全てが上手く行く流れを信じました。

という未来など、見知らぬまま宣言し、託せるから進めるものがあるのです。

必ず目が覚める。

絶対に気づきをもたらす。

そのように信じないことには、何も始まらないのです。

全ては、全てを同時に理解していくことだと解れば、それを実行するだけです。

「救済が完了しました」

そう宣言してから、自分の雑念と対話してみてください。

自分の中から「ありがとう」と聞こえてきました。

自然と不信感が消え去り、見捨てられた感もなくなり、『大いなる許し』が訪れ、楽になるしかないものでした。

心を、休ませてあげてください。

「みんな大好きです」


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。




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