セルフコントロールが出来なくて
リーディングマスター・まさみちです。お遍路が終わり、茨城の我が家へ飛行機で飛んで帰りました。富士山はいつ見ても癒やされます。この青空も海も、澄んだ世界は気持ちいいものですよね。
今日は少し話し口調で私自身のことを書いてみます。
みんなさ、自分をコントロールするとかってよくやっているよね。本や先生などもみんな言うの。「感情的になるな」とか、「自分の胸に手を当てて考えて見ろ」だとか。
わかんないの。
やれる時はいいさ。わかる時も。
やれない時は? わからない時は?
既にやらかしてしまった後は?
謝っても許して貰えない時ってどうしたらいいの?
そう思わない?
取り返しのつかない時って、どうにもならないじゃない?
私は離婚を告げられた時、事の重大さにやっと気づいて改めようと努力したけれど時既に遅し!!
相手は覚悟の末に言った言葉だったようで、取り下げる気などない状態でしたから、どうにもなりませんでした。
鈍感男であり、超絶エゴエゴで生きていましたから、見限られるのも当然!!
酷いレベルだったと振り返れば思います。
それで途方に暮れますが、腐っていても仕方がないので、原因の追及をする訳ですよ。
でも、自分の性格上「制御する」ことがとても苦手でしたから、「気をつける」とか「慎重になる」など『無理だわ』ってなり、自分でも自分の事がわからなくなっていたんだなって。
そもそも「制御する」って、「ムツ」とすることとか、「カッ」となるところとか、「イラッ」と思うことなど「制御出来ない」って気づいたんです。
「イラッとしても、落ち着つこう」として、落ち着けることはあるよ。
でも、「イラッ」そのものを「しないように」して、止めることって出来る? 出来ないよね? この感覚的に反射で湧き上がるものはどうすることも出来ないって思ったんですよ。
この馬鹿みたいな反射反応が大事だってわかったんです。
それは根源的な気づきを起こすことにも通じて、「思いつきようがないレベルまで整える」ことをするしかないんだなってわかったんです。
考えるに考えましたよ。
いっぱい考えました。
辿り着いたのが「目的や動機がなくても必要なことはする」自分の心に気づいたのです!
やりたいとか、やりたくないとかの選択がないことに気づいて、「やるでしょう」「するでしょう」「行うものでしょう」と、自身の目的がないまま、応対出来る自分の心に気づけた時、世界が変わった。
この時の気づきが今に続いているのだけれど、今でも「制御なんてしない道」を模索している。
あれやこれや熟考に熟考し、リーディングの仕方を身につけてもやっていることは考える事です。ただ閃くことや意識の在り方、向け方には違いがあるが、思案する方法論が加わった程度。
それが地道にやり続けたら、このレベルまで辿り着き、「空」や「無」などもわかるようになり、「真理」ってこういうことを指すのだと掴めた。
そんな色んな事が紐解けわかるようになると、この感覚を共有できる他人が存在していないことにも解ってくる。自分が過去世で偉人であることもね。
そんな過去世の人物がどうであれ、今世を生きる上では意味も価値もなく、自殺者救済の課題やら、冤罪で苦しむ人の救済などあると、それだけで重圧があり、人が放つ悪想念のど真ん中で目覚めて行かなければならない過酷な使命を背負っているのだと、関係なく雑念に蝕まれるの。
全部紐解いてわかるようになってから、わかってくるのですよ。
単純に離婚の痛手からの回復と、娘たちに恥じない立派な父親の姿を見せられることを夢見て頑張っているに過ぎません。
と、括れます。
この道に入る時に色々と諦めて来たと教えます。
「生きる」ことを諦めましたし、「うまく行く」ことを諦めましたし、「もっと酷い目に遭って良い」と受け入れましたし、「全否定されることや、大嫌いと扱われることなど、諸悪の根源だと冤罪で吊し上げられること」なども肯定して無抵抗で過ごすことをしてきましたから、相当頭が逝ってしまっていたと思います。
そもそも「生きよう」とか「生きたい」など「生きる」ことは目的にも目標にもならないことじゃないですか? もう「生きている」のですから、そんなものは意図するものではないのですよ。
だから「死んでいる」で構わないとしましたし、「死んでいる」とするなら「死の恐怖」なんてのも笑いぐさに出来てしまうので、「死んでいる」というのも結構便利な概念だと思ったものです。
科学的に生物の誕生を定義できないほど、どの瞬間に「誕生」とするかは本当に曖昧なんですよね。
「うまく行く」なんて希望とかも変な期待やら執着に直結するなら、「いらない」と思ったものです。そもそも「人生の青写真を生まれる前に描いてきている」とスピリチュアルで知ったものの、「時間は存在せず今しかない」なんていう知識と照らし合わせるなら、「生まれる前」に描いた青写真ではなく、「今、生まれる前に描いた人生の青写真を創造したんじゃねぇ?」ということにも気づいて、全てが今創り出しているったら、「全部うまく行くこと決定済み」としているに違いないとしているから「この世に誕生したはず」と思ったのです。
様々なカルマがあり、やったことが返ってくる因果律が存在するなら、とっとと抗わずに自分の放ったものだから我が身で受け止めるしかないって思い、酷い目に遭うなら、そういう何かをしでかしたのでしょう? って考えたのです。辛い目に遭う中で気づきを起こして突き進むしか道はないってね。
だから否定した生き方が続けられなくなり、本来の道に自然と戻るようなサイクルがあるのだと感じられ、それに乗っかればみんな安心の中で生きられるようになるっと勝手に思ったのですよ。
全部「YES!!」って肯定的に解説出来ることをして見たいと思ったのですよ。
それなら、自己制御能力が低い自分にも、問題にならない生き方が出来たのではないかと思うのですよね。
このオールイエス作戦は、本当に面倒くさいことをチマチマとやり続けて、何でもわかるようになれたので、今のところこのイエス作戦はうまく行っている状態だ。
そんな感じで、問題の根源的な過ちに気づき、治せるものはとっと治し、治せないものはその時が来れば治せるだろうと思って進んできたんです。
生きることに全身全霊となると、関わる人もみんな大切な人に変わってしまうし、関わらない知らない人さえも、支えてくれる大切な誰かだとわかり、世界中のみんなが愛の人だと思うしか道がなくなってしまったんですよ。
ひたすらいい人の道を邁進して行きました(気持ち的には)。
超絶いい人でいることを選ぶと、全部が楽になっていくんですよ。
天にお任せして、自我で判断して決めることは皆無になると目に入る出来事をひたすら受け入れていく毎日でしたね。
どこに連れて行かれるかわからぬまま、一つ一つ処理していく感じ?
好奇心はたくさん持ち合わせていたので、過去世やらカルマとは何を言っているのが知りたくてしょうがなかったから、全部探り当てていきました。
天の方々は何も教えてくれないので、自分で言い当てて行くしかないのですよ!!
幸いにも「あ〜(NO)」と「うん(YES)」は身体が教えてくれたので、どんな難問もこの「阿吽(あ〜うん)」で導いてくれました。
だから、キネシオロジーテストを知った時は、「世界中の全てのことがわかる」と思いましたし、キネシオロジストというキネシを取り扱う方々はみんな悟っているに違いないくらいに思い込んでいました。
こんな便利なものがあるのに、仏教界は「阿吽」と「キネシオロジーテスト」が同じものだと認知しないのか? とさえ思ったものです。多分、色んなしがらみやらなんやらあって、黙っているのか経典にないから認めないとかになっているのかも知れませんけれどね。
カルマにおいても、そもそもの始まりを見ないとどうしようもないよね? って因果の始まりを捉えることに専念したお陰で、阿頼耶識(あらやしき)という過去世を捉える意識の使い方から、転生を股にかけて人生を構築する阿摩羅識(あまらしき)まで意識を広げることが出来るようになったのは楽しかった!
私は結構な孤独を抱えていたものでしたから、過去世を自分で見ると「孤児」や「棄て子」という体験に行き当たるのですよ。それでいて人生は常に願いが叶っている状態であるって叡智(えいち)から学んでいるので、「棄て子」さえ自分で望んで叶っているという発想を持つしか無く、その発想で「棄て子」の体験を意図的にしなければならない理屈は何か? って探ると、「全てを学ぶため」とわかり、親に棄ててもらうよう頼むことで、親の愛なしにも他人の中にも親と同等、それ以上の愛が流れていることに気づく為だと読み解けると、孤独感が癒やされ楽になったりするのです。
本当、リーディングして気づくと先ほどまであった苦しみが消えるので、葛藤してきた日々や苦悩してきた時間が無意味だったと思わずにはいられないほど変化が訪れるので、「これはやり切るしかない」と思う訳です。
振り返ると、リーディングの日々は「号泣し続ける日々」と言ってもいいほどに良く泣いていました。セルフコントロールが出来ないのは、感情の抑圧が大きいからであり、溜め込んだ哀しみがなくなれば感情的にならずに済むから、積極的に泣くようにしていました。
感情の爆発という号泣体験は、世の中の男性には難しいなって感じるほどのものでしたし、そうした抱え込んだ哀しみがいくつも束になって残っていることを思うと、今の姿で手一杯なのだから、そっとしておこうと思ったりもしています。
お遍路が終わり、最終日に父と心を重ね合わせられる体験まで辿り着けて思うのは、「世の中の男性たちは崩れる」のではないかと感じました。
抱えている感情の分量は女性の比ではなく、意地を張り通している人も多いため、その抱え込んだ感情が色んな障害を引き起こす感覚が来ています。
私たちに出来る事は、男の人たちに労ってあげることくらいです。
男性諸君の気が緩み、心を開くことが出来ればいいですが、「今更変えられない」と意地を張る人は永遠に変化が生み出されない世界に閉ざされる可能性があるのでオススメしません。
ただ心を開くと涙もろくなります。
私はよーく泣いてますから。
リーディングは、他人の過去世や生い立ちを読み解くので、読んだ瞬間泣きたくなりますし、それをクライアントさまに解説しようとするとギャン泣きしてしまうことが多々あるものです。
それは心と心が繋がった素敵な体験でもあるので、色んな人の人生を感じてみることは大事だと思います。
長々と、そしてとりとめもなく思いつくままに書きましたが、心構えが無条件であることに気づいて欲しいのです。生まれて来た流れがある以上、「生まれたかった」に決まっていますし、どれだけ辛く苦しくとも「望まれている」という求めに応じてここにいるのですから、それに答えていく始まりの環境が「今」なのです。
「今」がどれだけ劣悪なものであったとしても、ここから全てが変われば、こんな劣悪な状態でも、宝物に変えられる力は誰もが持っているものです。
等身大の自分を愛し、共に歩き、先にやって見せて、それでもわからないなら、わかるまでどこまででも解体して伝えようとする意思があると感じて欲しいと願うものです。
今日までやってこられたのも、みなさんのお陰でしかありませんし、どこまでも拙さが残ったり、粗相が見えたりするとゲンナリすることもあるものです。その異常な状態を何と見るか、捉えるかで世界は大きく変革していきます。
共振現象で織りなす世界観は、わかる人はわかりますが、わからない人は踏み込めないほど難しさがあります。
全てが仕組まれていて、でも自由が与えられていて、どこで活躍の場を見せるかは自分にかかっているとして振る舞えた時、未知なるものに出会えると思います。
人体実験により魂が複数に分かれ、地球で数多くの転生を繰り返しています。神話にも登場した体験もあれば、名だたる聖者はだいたい踏んでいたりしています。同一人物だったりしますが、現実に出会えばこんなものです。
心を開いて生きると様々な悪想念に乱されて、いっぱいミスをしでかしてしまいます。それでミスしていい理由にはならないものですが、人の失敗を願ったりするのはやめた方が自分の為であり、自分の身内の為でもあります。
私がこんなにも頑張っているのは、自分の問題によって、我が子が身を挺して庇いに入り、自分の身代わりになって葬られる体験に繋がって欲しくないからです。
子は親が大好きです。
潜在的無意識ではそうなのです。
親の過ちを正す為なら何でもします。
自滅したり、自殺みたいなことさえもして、間違いに気づかせようと身を捧げます。
この因果関係がわかると、待ったなしにリーディングや目覚める為に必要なことしかしなくなります。
それほど、私たちが抱えているカルマの分量をとてつもないものです。
それでもやれますし、やります!!
力を貸してください。
共に今を作り出して行きましょう!!
世界を平和に変えるんだ!!
愛ある世界に変えました!! と宣言し、さぁ、一緒に歓喜の世界へ!!
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