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娘と母の呪縛? 愛とケアの物語

昨年末。下記のような女性メンバーで話をする機会があった。

N :既婚・子あり専業主婦・中間子・関西住み・ENFP
M:就職を控えた大学生・末っ子・関西住み・MBTI不明
S:(私)既婚・子なし・共働き・長子・関東住み・INTP

なかなかバリエーションのあるメンバー

話の中でびっくりしたのが、MとNも「母への確執」を抱えていたことだ。
「母なるものへの執着・慕情」が半端ない。
端的にいうと「マザコン」なのだろうか。

ふたりとも、毒親だったとかネグレクトだったというわけではない。一般的に見て愛情のある両親に、経済的にも過不足なく育てられている。ただ、Nは中間子であり十分に関心を持ってもらえなかったと感じていること※、Mは小6のときに母親が「昨日までは面倒を見ていたけれどこれからはもう見ません。みんなもう大きいのだから」と母親業に線を引いたことにより、母親へのいわば未練のようなものを抱えている。まるで恋愛関係のように。

母を尊敬しているが執着がまったくない私としては、二人の話に度肝を抜かれ、「その情念はどこからくるんだろう?」と興味を惹かれた。

Nは言う。
「未だに母親に囚われているんだよね。出産で実家に帰っているときもそうだったんだけど、こっちが体調で苦しんでいるときにどうしても母が無神経に思えてしまう。どうして母は私のことをわかってくれないんだろう、察してくれないんだろう、母親なんだから言わなくてもわかってくれるはずなのに…わかってくれないってことは愛されてないんだ、ってものすごく落ち込んでしまうんだよね」

Mも言う。
「わかる、母親にもっとこうしてほしかった、ちゃんと母親らしく面倒をみてほしかったって思いが今でもある。こちらから言わなくても母親だったらここまでやってほしい、なぜうちの母はそうしてくれないのか、という怒りがある」

私からすると、彼女たちはやけに母親に対して求めるものが厳しいように感じる。そして、それが手に入らないことによってとても傷ついている。

N「自分でも甘えてるなってわかるんだけど笑 それでもやっぱり子供の頃に満たされなかった気持ちが、今の根本的な自分への自信のなさにつながっているから…自分の子どもはそんな気持ちにさせたくない。いつもちゃんと注力してあげたい」

M「わかる、私もそう。ちゃんとお母さんらしいことをしてあげたい。大家族とか憧れがある」

「うーん、そのお母さんらしいことってどういうこと? どこまでのことを求めているのかな」と私。

M「子どもを優先して予定を組んで、ちゃんと好きなご飯を作って、みんなで食卓を囲んで、子どもの話をまともに聞く、ことかなあ」

N「辛いときに何も言わなくても察して動いてくれること。子どもの好みを把握してお弁当を作ってくれること。昔、母親の作ってくれたお弁当があまりにも雑だったとき、妙に悲しかったんだよね…」

彼女たちの話からすると、母親に求めるものというのは、
・自分に関心を持ってくれて尚且つそれを行動に移してくれること
・言わなくてもわかってくれる、察してくれること
・特に食事の経験が重要
なようだ。

私は、「母親になることでそこまで求められるのであれば、母親になんてなりたくない…」と正直恐れおののいてしまった。

「それじゃ母親という名の奴隷じゃん!」と思う。
感情もコントロールされることを考えると、奴隷以下かもしれない。

彼女たちが求めているのは、かなり質が高いケアリングであり、外すことのできない母親のペルソナであり、感情労働と気づかれてはいけない究極の感情労働である。つまりは、愛
彼女たちは母親からの究極の、真実の愛を求めている。
それも、言葉での愛ではなく行動での愛である。愛があるならばすべきことのリストがあり、自分の情緒と食欲と生活環境を十分にケアしてくれることを求めているのである。

なんて貪欲、と思う。けれども、私のほうがおかしいのかもしれない。本来人間はそれが自然なのかもしれない。自分を養育してくれる愛を求めて、求めて、自分が育ったあとは、子どもに与えてやりたいと思うことは、普通なのかも?

どこからが行き過ぎなのか、など決められるものではない。
彼女たちにあるのは愛情の欠乏感であり、それを感じていることはけしてわがままでも嘘でもないからだ。むしろ、生き物の本質・現実がそこにある気がする。

そして、世の中の女性が、母親と呪縛的な関係に陥りやすい理由を垣間見たとも思う。
娘が母にこんなに厳しく愛を求めるとすれば、母親も娘に「私の希望を察しなさいよ、完璧な娘なら」「母親を愛して感謝しているなら、もっと行動で表しなさいよ」と求めることがあるだろう。
愛のもとで、ケアする側・される側の攻防があるのだ。そして母娘同士だと、感情が密着しているがゆえに激しくなる。
その攻防が互いの感情を合わせ鏡にして果てしなく続いてしまうと、地獄に転じることがあるのは想像に難くない。

では、私自身はなぜ、母への希求がないのだろう。
母なるものへの葛藤がない。あまりにもそこは空っぽである。
これは、私のほうがおかしい可能性もある。

理由を考えてみると、

第1に、長子であるため母からの愛情をまんべんなく受けたから、という説がある。確かに長子というのは愛情のリソースが大きい。最初にたっぷり母の愛を独占できたので、満たされている可能性があるのは否定できない。

第2に、干渉されたくない性格だから、という要素もある。もし母が専業主婦でなにかと面倒をみてきたら、心底嫌になっていたかもしれない。自分で考えて自分で行動して自分で結果を受け止めたい。親の視線があると集中できない。親からの愛を感じているからこそ、私がスポーツや勉強で成功したり失敗したりすると彼らの心が揺れるのを感じ、それも干渉と捉えてしまうからである。放っておいてもらうのが私の一番望むことで、両親ともに忙しかったことはそれを叶えてくれたのである。

第3に、あまりにハイコンテキストな文化は苦手である、というのがある。
何も言わなくても察する、まではいい。でも、言葉がなくてもやってくれる、までは求めてはいけない気がしている。
「あなたのためを思ってこれをしたのに」「やってくれなんて言ってない!」という喧嘩が容易に思い浮かぶ。
私はむしろ、要望は言葉にしたい。言葉にしなくてもわかっていることは多いにせよ、言葉にしたところから効力を持ってほしい。つまり意志を尊重してほしいのである。

第4に、子どもにかまけず働いている母が好きだったから、というのがある。第2の干渉されたくない願望は、「母が専業主婦ではなかった」から叶えられた。その気持が転じて、「子どもに干渉せずお受験ママのようにならなかった母、今でいうパワーカップル並にしっかり働いている母」を尊敬するという心理が生まれた。それに、自分のやるべきことをしっかりやっている人が好きである。芯がある人が好きで、それを母親に感じていたのだ。

第5に、長子であったため面倒を見る側の視点があったから、というのも挙げられる。中間子であるNや末っ子であるMと異なり、長子は自分がケアされる側ではなくきょうだいをケアする側でもある、という意識がある。
一度ケアする側にたつと、「何もいわなくてもやってあげる」「自分よりも優先する」「とにかく滅私奉公して愛情を注ぐ」ということの大変さ、それを求められることの理不尽さがよくわかる。そこまで質を求められるのは私には無理だ、と私は早々に諦めた。完璧な姉…つまりには第二の母親になんてなれない。その感覚があるので、母にもケアを求めなくなる。
「お姉ちゃんなんだから」と言われたって、できることとできないことがあるわい。と思うと同時に、だったら母にも限界があるよね、と思う。他にやりたいことがあるだろうし、子どもに自分のすべてを吸い取られるわけにはいかないのだ。


……というような要素を考え合わせると、私は性格やきょうだい構成の妙によって、「母親も人間」と結構早い段階で受け止めていたということになる。
とはいえ、母が身勝手だったり、母親らしくなかったり、家族をかえりみない人間だった、ということはまったくない。むしろ母は聖母のように見えた。周囲の人に尊敬されるような仕事をしつつ、母親らしい寛容な雰囲気、人好きのする雰囲気をたたえていたからだ。だからこそ、安心して「母にこれ以上母親としてのクオリティを求めるのは酷である」と思えたのだ。母はできることをすべてしているように見えたから。
(しかし、もし母が母親というイメージを逸脱するような性格だったり行動を起こしていたら、「母も人間」と簡単に言えたかは定かではない。もし身勝手できつい性格の母だったら、逆に長子の私は母を罰するような意識、母としての枠に閉じ込めるような考えに転じたかもしれない。これは、私が長子で愛情を受けたから愛情に飢えてないのだ、という説と同じくらい、運のかみ合わせによる話だ)

こう書いていくと、まるで私はマザリングを完全に卒業しているというか、母なるものという概念をやけに外部から眺めている感じがする。
しかし、本当に私はそれを求めていないのだろうか?

ここで、自分の男性への好みを考える。
私の結婚相手に求める唯一の条件は「まめまめしさ、甲斐甲斐しさ」であった。私自身はまったくまめでも甲斐甲斐しくもないので、相手にそれを求めたのである。男性にしては性格的にまめで、愛した女性に甲斐甲斐しく尽くしてくれる人。
これは、ある意味、母親の投影ではないだろうか。
夫は毎朝、「今日の晩ごはんどうする? もし肉だったら解凍しないといけないから」と訊いてくる。私が素足で歩き回っていると、「寒いから靴下はきなさい」と言ってくる。まるでおかんのような存在でもあるのだ。
私は、マザリングケアを年老いた母から吸い取ろうとするのではなくて、夫から吸っている側面があるのかもしれない。

私は彼に程よいケアを求める。彼は器用でケアが上手だけれども、もちろん男性だし母親ではないので、私も過剰にそれを求めることはない。
それと同時に、私も彼をケアする。言葉で愛情を伝えるし、曲がりなりにも女性なので、そりゃ多少の家事もするし、「外から帰ったら手洗いをしてね」と母親のようなことを言う。
私たち夫婦は、ケアの分量がちょうどよいのかもしれない。

そう思うと、母親とは、美しくも残酷な概念である。
絶対的な愛情を持ってケアするものという概念が女性に限定され、その人間のすべてを奪っていく側面がある。
その残酷性は私には耐え難く、INTPには我慢出来ない理不尽なもののように感じるので、私はいつからか、「ケアは双方向でするもの」という確固とした意識をインストールしたようだ。
そしてその意識は、無意識に完璧に作動しているといえる。
(テイカーを排除しギバー精神のあるマッチャーを引き寄せているという意味で)

最後に、後出しになるがNと私は、実の姉妹である。
Nの母と私の母は同一人物である。
Nが言っていた、「母のお弁当が雑すぎた」というのは、私も経験したことだ。その他にも、「母の仕事が忙しすぎて子どもの面倒が見られなかった」という状態は、私も妹同様に何度も味わってきている。
けれども、私にとってそれはクリティカルな問題ではなかった。単に忙しすぎるが故であり、愛情の多寡とは関係ないものだと感じていた。しかし、その裏で妹はまったく異なる受け止め方をしていた。
母は同じひとりの人間なのに、受け止める側の性格や状況によってこんなにも受け止め方が異なる。また、同じ家庭の子どもなのに、干渉を嫌う私と干渉してほしかった妹という性格の違いがある。

妹は専業主婦になり、念願通り、子どもにつきっきりで暮らしている。寂しい思いをしないように。
私は働きながら、マザリング能力のある夫と暮らしている。

親子、きょうだい、そんな人間同士の関係性が人生を形作っていくのだと実感した年末だった。

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余談になるが、食についての問題で言えば、日本人の愛情表現で重要なのは「食事」であると言われる。欧米のように言葉やハグで愛情表現をするタイプではない日本人が親の愛を感じるのは、丁寧に作られた食事である、らしい。
欧米の母親がI love youと言ってキスをして簡単なサンドイッチとりんごをもたせるような場合に、日本人は「宿題はしたんでしょうね」と怒りながらも手の込んだ愛情弁当をもたせる。
妹がお弁当が手が込んでなくて悲しくなった理由がわかるような気がする。

そして、食事が大事なのは、恋愛関係でも夫婦関係でも同じであると思う。
「相手に美味しい思いをさせてあげたい」がすべての源である。
婚活で店を選ぶ際にも、夫婦で食事する際にも、子どもに食事を作る際にも、そういった愛情表現力が働くのだ。
愛情とは、「相手に良いものを食べさせたい」=「相手を生きながらえさせたい」という、相手の生命に関わっていく意志にほかならないと思う。

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※Nの中間子問題について

Nは以前から、「幼い頃に母親にもっと甘えたかった、もっと母に自分を見てもらいたかった、それが今でも傷になっている」と言っていた。毒親ではないし、ネグレクトされたわけでもない。怒鳴るわけでもないし、完璧主義を押し付けもしない。一般的に見たら優しい、母親らしい母親だったと思うけれど、だからこそもっと愛されたかった、注目されたかった、独占したかった、というのが彼女の基礎にある悲しみだ。

中間子症候群(ミドルチャイルドシンドローム)という言葉があるように、上と下のきょうだいに挟まれた中間子は家族とのつながりが薄い傾向にあると言われる。
きょうだいの長としての役目を持っている上の子と、自由奔放さで親の注目を独占しがちな下の子。立ち位置がはっきりしている上と下の間で、中間子は大人しく協力的なバランサーになることが多い。親から見れば「手のかからない(≒存在感が薄い)子」となる。また、その上と下の中間のエリアでアイデンティティ確立に悩む子も多い。子どもは親からの期待の視線によって自分像を外側からも固めていき、アイデンティティを獲得していくが、その親の視点というのが少ないからからもしれない。
中間子は、自分自身に対するヒントというか、外部からのキャラ付けが少ないのだ。

上の子のように「年長者としての振る舞い」を押し付けられることもしんどい場合があるが、何も押し付けられる視点がない凪のような状態も恐ろしいのかもしれない。自分の役柄もセリフもわからないまま舞台の幕が開き、聴衆の前に放り出されるような恐怖。
まさに、以前から彼女が語ることはこのような中間子の悩みであり、中間子であることで希薄になった母親との絆をずっと求めている、と感じられた。

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