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【婚活】結婚できないのはあなただけのせいではないー愛情関係資本と愛情表現

前回の記事で、婚活の前提について書いた。

さらっとおさらいすると、

①初婚タイミングは結婚の優先度で決まる。結婚優先度が高い層は30代までに結婚する。彼らはマジョリティである。

②とはいえ、晩婚になる人がいるのも社会文化的には自然である。結婚よりも優先される社会的な縛りを持つ層があるためだ。(学歴を重視しキャリア形成の修行期間を持つ層。彼らは遅きに失して結婚が難しくなる傾向がある)

③結婚ができるかどうかには、上記のような結婚への優先度の違いに加えて、愛情表現ができるかどうかの問題がある。

という3点だった。
このうち、前回は具体的に書けなかった③愛情表現について書くことが今回の記事の目的だ。

パートナー関係の愛情表現というのは、相手への配慮と2人の関係への前向きな姿勢を表現することだ。
相手を精神的にも物理的にもケアしつつ、2人の関係を維持していくための建設的な調整・話し合いを行うこととも言える。

相手に性的な気持ちを押し付けることは愛情表現ではないし、お金だけ渡すことも愛情表現ではない。「口説くってやつでしょ?  結婚前にしたからもうOK」というものでもない。とにかく一方的なものではなく双方向的なもの。

演技の経験がなければうまいパフォーマンスができないのと同じように、愛情をパフォーマンスに載せるのには素質と経験と技術が必要だ。

お見合い文化などで人の手を借りていたころはそれほど必要ではなかったかもしれないが、個人同士の恋愛結婚が主になっている現在では、そのような表現力がなければ婚活というステージをクリアすることが出来ない。
キャリアだけではなく、愛情表現にも修行が必要なのだ。

しちめんどくさいと思われるかもしれないが、結婚生活のような濃厚な人間関係を維持しなければいけないことを考えれば、最初の段階で適切な愛情表現ができなければお話にならない。そもそも結婚ってしちめんどくさくて高度なコミュニケーションであるから。

これは現代社会の産物…と思いがちだが、よく考えると動物だってずっとそうだ。発情期の動物、特に一夫一婦制の動物を観察しているとパートナー獲得のためにかなり高度な神経戦を必死で繰り広げている。表現力がなければパートナーに見つけてもらえない、選ばれない、つがえない、ということは原始的なことなのである。「表現力がないのに結婚できていた時代がある」ということがむしろ異質なのかもしれない。

とはいえ、人間は社会において適切な愛情表現をしなければならず、それはさすがに動物よりも高度で複雑なものである。

相手を慮るための察知力。洞察力
相手をケアする具体的な技術。(話術、企画力、家事力、性的な柔軟性)
公正さの感覚とセンス
パートナー関係と仕事を両立させる社会的能力
建設的に対話して問題を解決しようとする前向きな態度会話能力
朗らかさを保つのに必要なスタミナ

そういった複雑で高度な愛情表現は具体的な技術がいるものも多く、一朝一夕では身につくものではない。また、重要なのは、それがその人の持つ「愛情関係資本」にも依存することである。

愛情関係資本は、特定の他者に対して愛情を抱いて適切な愛情関係を築くことができる可能性、能力、資本である。
私はこの概念を社会関係資本に倣って定義している。個人における社会関係資本は社会で人と関わりながら存在するために必要な資本であり、元々の人との繋がり自体であり、それがあることによって「社会で生きやすい」資本である。この資本は人によって多寡があるが、社会階層や生育環境などの経済的な面の影響を大いに受ける。

それと同様に、愛情関係資本はパートナーを見つけて適切な愛情関係を持ちやすくする資質であり、経済状況や生育環境などにより人によって差がある。愛情関係資本が多い人は、より愛情表現がうまくなる傾向があり、結婚しやすい人と言えるだろう。
(そう、結婚しやすいかどうかは資質、資本によるのだ)

愛情関係資本が豊富である状態というのは、

異性と関わる機会が多い(異性のきょうだいがいる、男女共通のコミュニティに所属している、異性で仲の良い友だちがいる)
 →異性の生態に対して感覚的経験的な理解がある
  相手を喜ばせる事悲しませる事を察知できる
  自説を押し付けず人と交渉できる
  偏った性癖や後暗い趣味を押し付けない

幅広い年齢層と関わる環境にいて幼児や高齢者の面倒をみた経験がある
 →自分とは異なる感覚に対して寛容で、ケアの仕方を知っている

家族との関係が良好である(身近な人間とのコミュニケーションが親密で、公平で、健全である)、親同士が憎み合っていない
 →他者とパートナーシップを築くイメージが持ちやすい

・親自身が愛情関係資本が豊かであり、愛情を表現されて育った
 →愛情とは過程や結果に関わらない無条件のもので、測ることのできないものであるという感覚、洞察がある

というものである。
逆に、普段異性との関わりが少なく、コミュニティに対して閉じられた環境で、母親などに面倒をみられることはあっても人の面倒を見たことがなく、複雑で多様な他者に触れる経験が少なく、愛情というはっきりしないものよりも学歴や年収など「努力で獲得するもの」「基準の明確なもの」の価値を優先する環境に身をおいていた、という状態であると愛情関係資本が少ないと言える。※1

愛情関係資本が少ないと、特定の相手と特別な関係を結ぶということにリアリティが持ちにくい。経験がないために、どのような関係が適切なのか、どのように扱ったらよいのか、そもそも最初の会話ではなにを話すべきなのか、どのように振る舞うべきなのか、どのような態度が好ましいのか、相手の欲するものは何なのか、自分は相手とどういう関係を築きたくてそれが現実的なものなのかどうか、夫婦とはどういった形であればうまくゆくのか、がわからない。そもそも相手に向き合う姿勢、ケアする技術がまったく欠けていたりする。

それでは、愛情関係資本がもともと少ない場合は、愛情表現ができず、結婚に至れないのだろうか
愛情関係資本がない人間は、それを諦めるしかないのだろうか?

けしてそうではない。と言いたい。

愛情関係資本は、単に資質である。親から受け継いだもの、選べなかった生育環境、たまたまそこに生まれて今まで吸ってきた空気、そして今も吸い続けている空気の違いによるものだ。

だから、あなたが結婚できていないとしたら、それはあなただけのせいではない、というのがまず言いたい。愛情関係資本の差があるからである。そういうふうにあなたを誘導する土壌があったのだ。

そして、その上で、資質がすべてを決定するわけではない、とも伝えたい。
資本があってもそれを使えなければ意味がなく、それを使うには修行が必要である。もちろん資本があったほうが修行自体もしやすいが、逆に資本に恵まれているがゆえに傲慢になり、油断して手を抜くことも多い。(特に愛情を受けてきた側は、愛情を与える段になって資本を持ち崩すことがある)

あなたが愛情関係資本が少なく、今まで愛情表現の仕方を知らなかったとしても、これから学んでいくことはできる
愛情というのは本来無条件なものだが、だからといってただなにをしなくても得られるし与えられるというものではない。表現力という技術と行動力を必要とする。こういったことを矛盾と捉えず、両立させていくことが必要なのだ。

そして、結婚するにせよしないにせよ、流れるように自然に愛情表現ができたほうが人生が豊かになることは確かである。愛情表現というのは相手に影響するだけではなく、そう振る舞うことによってなによりも自分自身が愛情の喜びを感じることができるからだ。

今回は愛情関係資本のほうに重きをおいてしまったので、次回、愛情表現についてさらに詳しく書けたらと思っている。

愛情表現とは、
第一に、目立つこと
(とにかく目に止まらないことには…かといってやりすぎは注意)
第二に、好ましく感じさせること
(清潔なのは当然、振る舞いと言葉で魅了するには)
第三に、フェアであること
(尊重し、理解し、配慮し、本当の意味で公平に)
第四に、ケアができること
(生き物同士のグルーミングから家事、LINEのやりとりまで)
第五に、持続しつつ柔軟に対処していくこと
(すべてに拘泥せず、常に気を抜かない)
であると思っているので、それぞれ具体的に書いていきたい。

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※1 注釈
愛情関係資本の定義を描写することで、「田舎の方が結婚が早く、都市では遅い理由」の一端も見えてくる。
田舎というのは好む好まざるに関わらずコミュニティから逃れられない。否応なくオープンであり、情報が筒抜けである。幼い頃からの知り合いが多く匿名性がない。明確な基準がなく情がすべてである。周囲と親しんでないと生きていかれないのである。ある意味で愛情関係資本が豊富になりやすい環境である。
それに対して都市は個人主義で多様だが、コミュニティ形成が薄く関わりが少ない。クローズに生きようと思えばいくらでもクローズでいられる。また学歴や年収や地位などの価値も明確であり、数字に表せる成果というものが物を言う場面が多い。家族内での愛情関係資本は各家庭でもちろん異なるが、愛情関係に社会自体が依存している率が低いので、総じて情を重視する社会と言うよりは、家庭による格差が大きくなりがちである。

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