①独学で仲間達と宇多田ヒカルのバックダンサーなった物語(全6話)


このシリーズは、宇多田ヒカルの初ライブバックダンサー@武道館に辿り着くまでストーリー。

ダンスに出会い、初の大きな仕事をして、最後にダンサーライフ初の挫折を体験する。

14〜24歳の過去10年間をギュッと「全6話」に渡りお届けします。

ダンスを始めたきっかけ。
ダンス仲間との出会い。
ダンス活動の内容。
ダンスが仕事になるまで。

最初は自分もダンスは趣味だった。

「好きなことを仕事にする」

というライフスタイルの重要性が、このストーリーで伝われば嬉しい。
時代は変われど、きっと引っかかるものがあるはず。

DADAってなんだよ!

まずは、自分がダンスを始めたきっかけから語っていく。

それは、ダンス創世記。
ディスコからクラブに移り変わる時代。
のちにダンス黄金世代が育った時代。
そこからストーリーは始まった。

実家のリビングにあった一つのビデオテープ。
(ビデオテープて…)

そこにはマジックでこんなタイトルが書いてあった。
【DADA】
とだけ。

「…ダダ?ダダってなんだよ!」

僕には3つ上の姉がいる。
きっと当時ジュリアナに通っていた姉のだろうと思い、その時はスルーしていた。

ジュリアナ東京(ジュリアナとうきょう)とは…

ウォーターフロントと呼ばれた東京都港区芝浦にジュリアナ東京ブームを築いた伝説的なディスコである。
正式名称は「JULIANA’S TOKYO British discotheque in 芝浦」。


そしてある日のことだった。
新聞のテレビ欄に「DADA」と書いてあるではないか!

「ビンゴ!」

ダダの正体が今日判明する…。
これは気になってしょうがない。

しかしその番組は深い深夜帯だった。
普段は寝ている時間だが、この日だけは起きる!
目をしょぼしょぼさせつつ、その時間は来た。

番組スタート!

「いったい何が始まるんです?」

期待感でワクワクしていた。

そこには「熱気とパワーに包まれた人とステージ」があった。
カッコイイ人間達が踊りまくっていた。

フロアには同じ歳ぐらいの子もいる。
クールな音楽も流れている。


何より、普段のテレビ番組のスタジオではない何か悪そうな空気感が漂っていた。

「これは…何だ!?」

確か30分番組だったであろう。
とにかく全てが刺激的で、あっという間だった。
確かCMスポンサーはタバコのSALEM。
そこまで覚えている。

「何だ!?
この世にはこんなカッコイイ世界があるのか・・・。」

衝撃を受けた僕は、ここから毎週欠かさず観て録画するサイクルになった。

この番組企画の1つで、「一般参加のダンスバトル」があった。
会場に来て踊りまくっている参加者を順次ピックアップし、勝ち抜きをするというもの。
これに出たくてたまらなかったが、当時行動できなかったことを悔やんでいる。


番組ラストのラインダンスは1番の楽しみだった。
レギュラーメンバーが列を作り一人一人踊っていく。
そこには当時のダンス・ファッション・音楽の流行りが全て詰まっていた。

メンバーにはEXILEのHIROさんもおり、当時の出演者は日本のダンスとヒップホップを定着させた創世記メンバーである。


今観るとダンスの技術では今の子供にも及ばないがオーラと熱が違う。
これはダンススキルを越えたエネルギーだ。

クール!COOL!
SO COOL!

そうそう、あのタイトル「DADA」のビデオ!
「過去の映像(DADA)が観れるじゃないか!」
と思いビデオをデッキに挿し込んでみた。

だが、
そこにはDADAは無く、
上書きされた月9ドラマだけだった・・・。

オーマイDADA。。。

ダンスに目覚めた14歳のリアールであった。


CLUB DADAとは…

1989年6月テレビ朝日系列より放送開始のダンス番組「DADA L.M.D」が番組名を改名。
この番組から有名ダンスボーカルユニット「ZOO」を輩出。
「DADA L.M.D」のMCにホンジャマカの「MEGUMI(恵 俊彰)」や渡部篤朗の元妻の「RIKACO」が担当。
「CLUB DADA」のMCにZOOメンバー「NAOYA」「RIKACO」が担当。
当時ダンス界に大きな影響を与えた番組の1つ。
1992年3月最終回を迎える。


辰吉とMCハマーから始まる出会い。

DADAの熱が冷めやらぬ頃。
当時、自分は中学2年の14歳。
プロボクサーの辰吉丈一郎や鬼塚がボクシング界を盛り上げていた時代。
スラムダンクが連載を開始した時代。

今では絶滅危惧種とされている【ヤンキー】が人気を博していてた時代でもある。
もちろん、目立ちたがりの自分も例外ではなかった。


いわゆるボンタンにパーマをあて、ヤンキーの中でもオシャレなサイドバックというパーマをかけていた。
あくまで本人はオシャレのつもりだった。

なのでガチヤンキーではなくビジュアル系ヤンキーと言うのだろうか。
元々お笑い好きなので、いわゆるオタク層にも交流が広く学年の人気者だった。
(手前味噌)


部活は入学早々「楽そう」だと入った卓球部で、意外と楽ではない事から

「卓球のくせに!」

3ヶ月ほどで即辞め。
そこで同じ体育館でやっていたバスケ部が気になり入部。
特にバスケが好きだった訳ではないが卒業までやりきった。
バスケ部では何だかんだ副キャプテンを務めていた。

バスケは部活の一環であり、実は人生を賭けてやってやろう!
と思うスポーツがあった。

それは…
ボクシング。

当時全盛期だった辰吉丈一郎に憧れ、いつも試合をビデオに撮ってはボクシングの研究と真似をしていた。

それと平行してダンス番組の「DADA」は、ひっそり誰にも言わず欠かさずビデオに撮って観ていた。

あの日までは…。


そんなある日、
TV番組にMCハマーがゲスト出演して「パーティーマシーン」という横に跳ねるステップをレクチャーしていた。


自分はその番組をたまたま録画しており、何度も観てステップを練習したのだった。
理由は、翌日に学校で自慢するため。

そして翌日、バスケ部の友達にステップを見せつけ“鼻息フガフガ”していたのだが、
「リアール、それできる奴いるよ」
と友達。

「なぬ!?
まさかもう一人いたとは・・・」

そのもう一人とは野球部のTだった。
早速Tのいる教室へ向かった。
ちなみにTとは、同じ学校ながら初コンタクトである。


「どれどれ、ステップ拝見・・・」


そわそわしつつステップを刻み始めるT。
慣れてきたのか調子に乗り出しノリノリに。


「う、上手い・・・。
なんだよ、うめぇなおい」


Tは自分が面倒でつけなかった手もしっかり付けて踊っていた。
しかもリズム感が良い・・・
動きもしなやかだ・・・

うーむ、俺がするはずだったドヤ顔が・・・

Tの顔は照れながらも、明らかにドヤっていた。
確信した。

「こいつはムッツリ系だな」

事実ムッツリの変態野郎と言うのはのちに判明する。
ダンスで性格が見えた瞬間だった。


このタイミングで、あのDADAの話題を出してみた。
するとどうだ。
Tも知っている、他の友達も知っているではないか!

「知ってるんかーい!」

意外と観てる事に驚いた。


しかし、よくあの深夜番組を見つけたなと感心した。
自分は姉がいなければ知ることは無かっただろう。
これをきっかけにみんな(5人)でダンス練習を始める事になる。

しかし、同じタイミングで同じステップを習得している人間がいたとは…。

MCハマーのステップでつながったダンス仲間。
そして、このTとは同級生メンバーで最も長くダンス活動を共にする1人になるのであった。

ダンスを仕事にする難しさ

自分達は中学を卒業し、全員違う高校になった。
そして、のちに変態のTは高校卒業後にダンスの専門学校にいくのだが、ダンスの為にオールドスクールの本場「九州」まで修行しに行くほどだった。

ちなみに、このTは周りからも認められるほどダンスが上手かった。
ジャンルの幅も広く独特なスタイルを築いていた。

しかし、Tはダンスを仕事にする事は出来なかった。
なぜならビジネス意識が低かったからだ。
スキルだけ追及した結果ダンスが仕事にならず、結局Tは「介護職」をする事になる。

このことから改めてダンサーは個人事業(フリーランス)としてのビジネス脳が必要と実感した一面であった。

そして現在Tとは連絡取ってはいないが、ひっそりと踊っている。
・・・らしい。


続く。


▪️運営ブログ : ダンサーズクエスチョン 


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