『こちらあみ子』観ました
ネタバレを含む箇所については事前に但し書きをいたしますので、ご安心してお読みください。
『こちらあみ子』について
『こちらあみ子』は今村夏子原作の小説を、森井勇佑監督によって映画化された作品。
あみ子役は、大沢一奈さん。この子の演技がまたすごいんだ。この子なしでは成立しなかった。
母親は、尾野真千子。父親は、井浦新太。
万全の布陣である。
あらすじはこんな感じ。
視覚と聴覚への工夫
あみ子は、いわゆる「グレーゾーン」にあたる子供で、小学校に「ちょっと変わった子」と言われていたな、というのは誰にも記憶があると思う。そういう子供だ。
書道教室を営む母親も、あみ子は授業の邪魔になると教室に入るのを禁じている。
あみ子の奔放さを少しうっとうしく思われていたりすることもあり、それでもあみ子は自分の感性や世界観で過ごしていた。
そんなあみ子の感性や思考、五感に寄り添う形でこの映画は作られている。
その工夫は「映像」と「音」で巧みに表現されている。
伝える「映像」
この映画何と言ってもすごいのが、ショット一つ一つが非常に決まっている。フィックスの映像の中にも動きを感じたり、動きある映像の中に静を感じたり、非常に豊かなものになっている。
所々で挟まるインサートも、虫嫌いには辛そうだが、あみ子の自然との連なりを全身に感じることができる。
なんと言っても、映像の説得力がすごい。母親のほくろ、ノリくんへの気持ち、身の回りの環境に対する眼差し、そういうものが丁寧にフレーミングされている。
映像は、映像の先で起こっていることと鑑賞者の間に立つ媒介物だと言えるが、この映画の映像は媒介物自体にエネルギーを感じた。
一人称的な映画音声
そしてこの映画、音もまたすごい。
映画における「音」は、その空間で本当に鳴っていた音をそのまんま記録するものでは無い。意図的に排除する音、加える音、そういった作り手の意図によって音は組みあげられる。
この映画の音は、あみ子の意識に忠実な印象を強く受ける。あみ子から発せられる音、あみ子が耳を傾けている音は映画の中で強く強調されているのに対し、あみ子の意識に昇らない音は排除されている。
そのため映画の要所要所で、無音が効果的に使われ、一人称的な視点に鑑賞者をどんどんと引きずり込んでいくのだ。
※ 以下ネタバレあり。
理解と受容について
あみ子は自分の興味に真っ直ぐな子供である。いや、真っ直ぐすぎる。
それがグレーゾーンにあたる子供の特性かもしれない。
好きな男の子以外の人に全く興味がなく、自分に優しく話しかけてくれる男の子のことは覚えてすらいない。
兄にあまり母親のほくろを見るなと言われてもやはり気になって仕方がない。
それゆえの「かわいさ」であったり、その子なりの「優しさ」はあって、映画の前半では大人たちもあみ子のそういう部分に眼差しを向けているような印象を受けた。
そんなあみ子の受容は長くは続かなかった。流産してしまった母親に「弟の墓」と書かれたお札を庭先に起き、それを母親に見せてしまったのをキッカケに母親の精神が崩壊してしまうのだ。この日を境に、あみ子は「排除」の対象になってしまう。
好きだった男の子はあみ子のせいで不当に怒られ、あみ子を避け、手を上げるようになる。
兄は妹を部屋から排除し居場所を奪ってしまう。
父はネグレクトや暴力こそしないが、あみ子に愛情を感じなくなっていく。会話もそっけなく、寝室には入れなくしてしまう。(この父親(井浦新)の無言の暴力は痛切だった。)
そうして、あみ子は周囲からの歩み寄り(理解と受容)を失い、あみ子だけの世界に閉じ込められることになる。
「お化けなんてないさ」をひとり歌い、空想の友達と街を練り歩く姿は、寂しさも感じるのだが、あみ子がとにかく感情を出さないので、どこか楽しそうにも見えるのだ。
こうした離れ小島の中で生きているあみ子は、あみ子の中の感情に気付かれることなく、最終的に父親からも見放されてしまい、祖母の家に預けられることになった。
学校を転校することになるあみ子は放課後の教室で、これまでずっとあみ子に話しかけてくれていた坊主の子と2人で話をする。
ふたりの会話はどこか噛み合っていなくて、それでも愛らしさがあって、1番好きなシーンである。
あみ子はその坊主に語りかける。(記憶の中の会話なので一部違います)
このシーン、あみ子の自覚の芽生えと寂しさの吐露が出たシーンだと思う。
そして、それまで臭いだの字が汚いだの悪口を叩いていた坊主が、ここであみ子の嫌なところを言わなかった。
気付いたことと、言わなかったこと。
こういう小さな会話の中に、彼らなりの成長が垣間見えて、もとの小説の良さもさることながら、監督の演出や彼らの演技の奥深さにもグッとくる場面だった。
自分を理解すること、人を受け入れること、そういう簡単なようで難しいことは、大人よりも案外子供の方ができるのかもしれない。
鑑賞者は神の視点で見るべきか
上で見るように、この映画はあみ子の内面に沿っていく形で作られている。
そのため、鑑賞者はあみ子の内側に入っていくような感覚になる。
ただ、映画というのは当然カメラマンが撮っているわけで、いわば神の視点も持ち合わせている。
つまり、一人称と三人称を行ったり来たりしながら、映画を読み解き、感じ取っていく。
この作品、いかんせん一人称であるあみ子のエネルギーや感性が強いので、僕は映画を見ていてあみ子のエネルギーに引っ張られすぎて途中で疲れてしまった。
三人称的な視点に戻れずにグイッと引き込まれ離してくれなかった。
映画館で見ていなかったら、途中で止めて休憩してたかもしれない。(だからこそ、映画館で見てよかったのだが。)
三人称的にこの映画を捉えてしまうと、「あぁあの子は変わった子だから…」「あみ子にも非があるよ」そういう大人の目線になってしまうのが、怖かった。
あみ子の内側に閉じこもる性質を、それに病名をつけて片付けるのが怖かった。
だからこそ、あみ子の内側を体で感じながら、免疫がない自分にはしんどくても最後まで見つめようと想った。
最後に
この映画を見終わったあと、暫く動けず、下北沢K2シネマのロビーで少し座って、消化をしていた。
そのときに、普段なら目につかないもの、カーテンの影がどうも気になったりして、自分の中に少しだけ、あみ子の残像がいた気がした。
そういう映画体験はなかなかできないし、それほどにエネルギーの強い映画だった。
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