「ボーッとする邪魔してんじゃねーよ!」
これ以上ないほどの星空の下でテントサウナをするという体験をした。
肉眼で天の川らしきものが見えるくらいの星空は、かつて車一台男3人で北海道の知床まで行ったときに、あまりの美しさに思わず地面に寝転んで見た満天の星空以来かもしれない。
こういう圧倒的な自然を前にしたときに芽生える、なにもかもが些事に思えるほどの無力感は、なんて心地よいんだろう。
やりたいことができない。どうしても敵わない。わかってもらえない。途方にくれて悩む。そんなときに感じる無力感とはスケールが違う、圧倒的な自然に対する敗北感に身を委ねるのが僕はとても好きだ。
熱々のテントサウナを出て、そのまま冬空の下、インフィニティチェアに身を沈ませながら、これこそが最高のととのいじゃないかと幸福が満ちた。
僕たちの生活に足りないのはこういう隙間なんじゃないかと思う。
例えば僕は、草間彌生さんの作品があまり好きではないんだけれど、それはあの埋めていく感じが自分にまったくフィットしないからだ。隙間を埋めていくということに僕はなんだかとても強いエゴのようなものを感じてしまって、だからとにかく僕は隙間がすき。
Yahoo!知恵袋にこんな質問があった
いつから空き地は、アニメのなかだけの世界になってしまったんだろう。広い空き地はすぐにコインパーキングとなり、あらゆる隙間に生産性が問われるようになってしまった世の中で、もはやカツオのホームランボールがガシャンと音を立てて割るのは、民家の窓ガラスではなく、数十秒ごとに広告が入れ替わるデジタルサイネージかもしれない。
最近の僕における、学びと気づきの宝庫、Re:School(りすくーる)。僕が主宰している編集を学び合うオンラインコミュニティなのだが、そこで先日開催されたメンバー企画のzoomウェビナーでこんな話があった。
「こどもが朝ぼ〜〜〜っとしてるときに、ついつい“何ぼーっとしてるの?はやく準備しなさい”って怒っちゃって反省した」
たしかに。ぼ〜っとするというなんとも贅沢で幸福な時間を僕たちはついつい余計なお世話で搾取してしまいがちだ。僕自身もおおいに反省するような思いになった。
またしても知床の話になるけれど、以前、友人何人かと知床の宿に向かう途中、オホーツクの海に浮かぶ流氷をぼーっと眺めていたら、一緒にいた発酵デザイナーの小倉ヒラクという友人が、こういう時間こそが贅沢だよね。と言って、おおいに共感した。そう、これほどに豊かな時間があるだろうか。人間の作為なく、ただ在るものを前にして、ぼくらはとてもポジティブに無力さを味わえる。なんでもかんでもコントロールできるような気になりがちな僕らが、無力さを味わうのは、とても幸福な瞬間だ。その経験がある人は、人間関係に対する無力さに直面したときに、それを乗り越える力を持つのだと思う。
きっと、強くなるということは、強くなれないことを知ることだ。
「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と怒る女の子のキャラクターが人気だけれど、
「ボーッとする邪魔してんじゃねーよ!」と怒るキャラクターでも作ってやろうかと思う。
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