取り戻す旅⑧ 『八戸〜盛岡』編
「海行こう」そんな青春漫画のワンシーンみたいなひと言を放ってしまうほど、雲一つない青空だった。盛岡に行く前に、いづみさんの青い車で、種差海岸の蕪島に立ち寄る。2015年11月に社殿が全焼してしまった蕪嶋神社が再建されたのは2019年。まさにこんな青空の下で凧揚げをしたり、いろんな思い出がある種差海岸だが、2017年を最後に訪れていなかった。怖くなるほど、たくさんのウミネコたちが空を舞っていたから、春〜夏頃だったのだろう。
八戸の漁師たちは、漁場を教えてくれる弁財天の使いとしてウミネコを大切にしてきたという。蕪嶋神社の再建工事期間中も、4月~8月のウミネコの繁殖期は工事を止めたというから素敵な話だ。何もかもが人間都合、それもお金の話ばかりで、自然との共生までもがスクラップ&ビルドされまくる都会の日々には、ほとほとうんざりする。そういう都会の人間の傲慢さを、貧弱な僕はこっそり「街の胸板」と表現するけれど、もとの社殿よりも随分大きく立派に蘇った姿に、胸板の厚さを感じてもいたので、その話を聞いて少し中和される。しかもその堂々とした社殿の屋根は、ウミネコが羽ばたく様子を模しているそうだ。そういえば、僕も屋根銅板を一枚奉納させてもらったんだった。この立派な羽根の一部になっていると思えばありがたい気持ちになる。
それにしても今日のような青空に、いづみさんの青い車はよく似合う。これまで幾度となく、いづみさんの青いフォルクスワーゲンに乗せてもらったけれど、何度見ても可愛くて羨ましい。晴天下はもちろんのこと、曇り空でも、雨の日でも、晴れ晴れとあるいづみさんの青い車が、ほんとに好き。いまどきの車に比べたら燃費もいいわけじゃないだろうけれど、この青い車を好きな人にわるい人はいないはずと、妙な偏見が生まれるくらい愛しい。
10年ほど前までは、僕もどこへ行くにも車だった。関西から、青森の下北半島の北端、大間港まで延々と車を走らせ、そこから車ごとフェリーに乗って函館へ。さらに北海道の北端、宗谷岬まで行って、また関西に戻る。いま考えると狂気の沙汰だけど、30代のありあまる好奇心と体力を全力で、そんな旅に注ぎ込んでいた。いまはもうやりたいと思わないし、やれないだろうけど、いまの僕をつくるとても大切な時期だったことは間違いない。忙しさや体力的なことなどを天秤にかけた結果、飛行機や新幹線を利用することが多くなってきたものの、そういう動脈を駆け抜ける旅ばかりではつまらないなと思う。だからこそ、毛細血管のごとし道をのんびり走ってくれる、いづみさんのような友人をありがたく思う。
いづみさんとは、年齢はほとんど変わらないのだけど、いつまでも小動物みたいで愛らしい。そもそもこの青い車を選んだ理由がまた、実にいづみさんらしくて良いのだ。仕事柄、国産車のディーラーに取材する場面も多かったいづみさんは、取材の度に圧が強めな新車営業を受けた。実際、もうちょっとで「トヨタ アクア」を買いかけたというから、危なっかしい。それもこれも、シンプルな人の良さからくる、見事なまでの「葱背負った鴨」感のなせるわざだと思うけれど、それがこの青い車に乗り換えた途端、なくなったそうだ。きっと、独特なカラーの外車を選ぶような人は、燃費の良さとか価格などという、「経済合理性で車を判断する人じゃない」認定を得られるということだろう。営業の常套句なんて99%が損得の話だ。だからこの青い車はある意味で、いづみさんのモビルスーツでもある。
いよいよ盛岡に向かおうかと思いつつ、なんか甘いもの食べたいよねと、意気投合。八戸に長く住んでいた友人から聞いた「植物屋 ARAYA」という名の、観葉植物とカフェのお店に向かう。古民家を改装した店内は居心地よく、とにかく甘味を投入するぞ、と抹茶のロールケーキを注文。これがほどよく濃厚で美味しい。最近、濃さが正義みたいな濃ゆすぎる抹茶スイーツが増えているけれど、何事も程よさが重要だ。
子供の頃ゲームセンターに、筐体に据え付けられた大きなボタンを、握り拳で叩くとカーソルが飛び上がる『JUMP UP』というゲーム機があった。10円を入れる度にランダムな位置に星マークが点灯し、その星印のついた高さにカーソルがうまく止まれば、景品がもらえるというゲームで、ただ力任せに叩けばよいのではなく、絶妙な力加減が重要なそれが、非力な僕は大好きだった。いまもなお僕は何か大きな力を持っているわけではないし、持ちたいとも思わないけれど、時代によって変化する「ちょうどよさ」を捉える力は持っていたいなと思う。そんな気持ちをいづみさんとはわかりあえるから、仲良くできるんだろうな、と、ふと思った。
ついに陽が落ちてきた。さすがにもう盛岡に向かわねば。いづみさんに、「今夜のお店はどこか決めてる?」と聞いてみたら、「まだちゃんとは決めてない」という。でも目星はつけてるから、盛岡までの道中で電話してみるとのこと。ちなみにどんな店か聞いてみたら、ずいぶんな人気店だというから、呑気なもんだなあと思う。でもそうさせているのはきっと僕だ。気まぐれに、あそこ行きたい、ここ行きたい、と言い出す僕のような人間に柔軟につきあってくれるその優しさのシートに座って、呑気に窓外を眺めているのは、いつだって僕のほう。
ふだんお仕事をご一緒するときのいづみさんは、どちらかというと、ちゃんと決めておかなきゃ不安なタイプ。そもそも、ローカルで編集ライターとして長年、丁寧な仕事を続けている人はみんなそう。青森市でご一緒した雪香さんも、いづみさんも、滲み出る誠実さと、先に小動物と表現したごとく、どこか不安げで控えめな姿がそっくりだなと思う。それはきっと、自分の弱さやダメさを知っているからで、自分の強みの主張と発信に躍起になっている人よりも、断然信用できる。僕が尊敬するローカルの編集ライターさんたちはみな、何かの拍子にその弱さから他人に迷惑をかけてしまうことをおそれて、目覚ましを二つも三つもかけて寝るような人たちばかりだ。その繊細さが取材相手への配慮につながるからこそ、幸福な記事を生み続けるのだろう。そんな社会人としての日々を知る僕は、せめて旅のあいだは、不完全で半端で、弱くてダメないづみさんでいてくれるといいなと思う。迷惑をかけないように生きることを社会は求めるけれど、迷惑を互いにかけあえる関係ほど幸福で安心できることはない。それが本当の友人なのだとしたら、いつか「ちゃんとは決めてない」の「ちゃんとは」って言葉がなくなるまで、いづみさんとまた旅をしたいなって思う。
盛岡に到着。無事に目当てのお店も予約できたようで、店名と住所を教えてもらって一人ホテルにチェックインする。ホテルの前で僕を降ろしてくれたいづみさんは、そのまま自宅に車を置いてくるという。うん、いいね、今日もたくさん飲もう。冬の3泊4日にしては小さなスーツケースを引いて、ホテルの部屋に入ったところで、リュックをいづみさんの車に置いたまま降りてきてしまったことに気づく。やっちまった。でもまあ焦っても仕方ない「置いてきた何かを見に行こう♪」などとスピッツの曲を呑気に口ずさみ、「車にリュック忘れてきちゃった」とメッセージ。「持っていきますー」と即答してくれたものの、ノートパソコンも入った重たいリュックを持ってこさせるなんて、ほんと申し訳ない。迷惑のかけあいどころか、これじゃあ迷惑かけっぱなしだと反省。
いづみさんが予約してくれたお店は盛岡市開運橋通りにある「吉浜食堂」。超高級中華食材の「きっぴん鮑」の原産地である、岩手県大船渡市三陸町吉浜(地名はよしはま)出身の、現役漁師さんと奥さんが営むお店だ。きっぴん鮑は、特に中華圏の人たちにとってかなり有名なのだそうだが、僕は50年近く生きてきて初めて知った。「十三」を「じゅうそう」と呼ぶ関西人のように、岩手の人は「吉浜」を「きっぴん」とすなおに読めるんだろうか。幾度の旅を重ねても、しかも盛岡のように10回以上訪れている町であっても、知らないことばかりだ。歳を重ねるほどに、「そんなことも知らないの?」マウントを取る人が増えるけれど、そういう人はもっと日本を旅すればいい。20年間、地方を駆けずり回る僕だけど、この世界は知らないことで溢れている。決して消えない無知の自覚こそが心を躍らせ、僕をまた次の旅にむかわせる。
岩手県の宮古から宮城県石巻まで続くリアス式海岸のなかにある吉浜湾。震災直後の2011年から2013年くらいまで、写真家の浅田政志くんと一緒に、岩手県北部から宮城県南部あたりまで幾度となく車で往来していたから、その道中で走っていたに違いない。当時は泥だらけの写真を洗浄して乾かして持ち主に返却するという、写真救済ボランティアの現場をまわっていたため、その拠点となっていた山田町や、大船渡市、陸前高田市などの記憶はあるのだが、吉浜町を認識したのは今回が初めてだった。
かつては「葦浜」と呼ばれていたが、「あし=悪し」ではなく「よし=吉」と改名したという話もあり、いよいよそこに切実な願いを感じる。東日本大震災の約80年前に起こった「昭和三陸地震津波」の際、重さ約32トンという巨石が海岸から200メートルも離れた陸に打ち上げられた。その巨石をもって津波の威力を後世に伝えようと「前方約二百米突吉浜川河口にアリタル石ナルガ昭和八年三月三日ノ津波に際シ打チ上ゲラレタルモノナリ重量ハ千貫」と刻み遺されたという。しかし、その後の道路工事でその津波石は地中に埋められてしまう。信じられないけれど、それこそが近年の日本人がものすごいスピードで忘れていったものの象徴だ。目に見えないものを信じるチカラを失った日本人は、目に見えないようにすることで、なかったこととする癖がついた。それでも自然は、粘り強く人間を信じ続けてくれたんだろうか。2011年の東日本大震災による津波で、その津波石が再び地上に顔を出し、再発見された。
それはかつての人たちの願いの強さゆえかもしれない。石に文字を刻むことも、地名に思いを乗せることも、どちらも強い祈りの行為に違いない。五所川原と金木町。津軽と南部。効率化のもとに市町村合併していく流れは、ときにこういった願いをも消し去ってしまう。「きっぴん鮑」の呼称は、食通な香港の人たちが、干し鮑の産地の「吉浜」という漢字をみて、広東なまりで「KIPPIN(きっぴん)」と発音したのが発端だというが、そこには吉を呼び込む「吉品」の意もこめられているという。
もうすぐ吉浜食堂に着こうかというタイミングで、開運橋の大きな交差点の向こうから、鞄持ちジャンケンで負けた子供が、ランドセルを前と後ろに抱えて走ってきた。……と思ったら、自分のカバンを背に、僕のリュックを胸に抱えたいづみさんだった。なんだか申し訳ないやら、おかしいやらで、お腹痛い。信号も変わったばかりだし、そんな走らなくていいのに、慌てて向かってくるところなど、何から何までいづみさんらしくて、しばらくリュック受け取るのを忘れそうになる。そういえば年末に仙台セリ鍋をご一緒したときも、地元のくるみもちをみんなに振る舞いたいと、くるみダレの入ったすり鉢を抱えて嬉しそうに席を回っていたのを思い出す。なにかと前に抱えると安心するのかな。なんだかハチミツ好きの黄色いあの子みたいだ。
吉浜食堂は、もう店構えからして素敵だった。僕は料理こそが最高のクリエイティブだと考える。僕がもし人生をやり直すとしたら、一番はなんと言ってももう一度編集者だけれど、二番目の候補は間違いなく料理人だ。料理と編集は似ている。人生で大事なことを一つだけあげろと言われたら、「匙加減」と答える僕は、料理と編集に共通する「利他性がベースの想像力」と「素材を生かす循環力」と、それらを「昇華させる表現力」が、ものづくりに必要な3大要素だと思う。
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