ローカル編集者の切実な問題
うーん。
これは本当に難しい問題だ。
このことについて考え、悩み、それを吐露して失敗するということを
これまでの人生で僕は何度繰り返してきたことだろう。
しかしこの問題は、多くのローカル編集者、もしくはライターさん、カメラマンさんなど、さまざまな地方をまわり、旅をしながらコンテンツを生み出していく人たちにとって、共通の悩みなんじゃないだろうか。
地方取材の打ち上げの場などで、このことについて言及すると、もうほぼほぼ100%の確率で、その土地の人に、悲しい〜顔をされる。それで済めばよいのだけれど、ちょっと怒り出しちゃう人も多くいらっしゃって、僕は正直にこの悩みを吐露することに、うっすら恐怖感をもってしまっている。
しかしそれでもなお、ポロリと口をすべらせてしまうのは、この問題が真に切実だからだ。
ただ、この問題の重大さを理解してくれるのは、上述のようなお仕事をしている人たちだけかもしれないから、今回の記事の内容に多くの賛同が得られるなどとはこれっぽっちも思っていない。それどころか、またきっと怒られる。それでもなぜ書こうとするのか?
いや、だめだ。こうやってつらつらと外堀を工事し続けていても、本丸を築き上げることはできない。今日は書くと覚悟を決めたのだ。
よし言うぞ。言う。
伝えたい相手は、地方で取材をさせてもらう飲食店さん。
そして、地方取材などで食事を出して、もてなしてくださるみなさんだ。
これは我々のような旅する編集ライターカメラマンからの切実な願い。
どうか怒らず聞いてほしい。みなさんが出してくださる料理。。。
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量多すぎーーーーーーーー!!!!!!!!!!!
ほんっっっっっっっっとにこれはもう我々の健康に大きく影響する深刻な問題なので、批判覚悟で言いたいのだけど、地方の取材先で撮影などを無事終えて、プライベートな空気のもとお食事をいただくという際、どうしても外食が続いてしまって胃腸がつらくなりがちな僕らが「すみません、ご飯の量、半分でお願いします」と伝えても、本当に、マジで、半分量のご飯が来た試しがない!!!
少なくしてくれたかなと思ってなお、都会のカフェめしの普通盛は余裕である。これが半分ならば通常はどんな盛りなんだ?! と言いたくなるくらい普通盛。
しかしこれでも僕は、長年の地方取材経験から学んだテクニックを使っている。以前はこういう場面で「ご飯少なめでお願いします」と言っていた。けれど、少なめ概念はこんなにも多様なのかと驚くほどに、これ本当に少なめですか? 祭りが開催される。
「食べられなかったら残せばいいから」という優しさなのだろう。
「いっぱい食べて帰ってね」という優しさなのだろう。
とてもとてもよくわかるし、愛も感じる。だけど僕は心から、
「取材中だと胃腸酷使してない? 多かったら少なめにするから言ってね」という優しさがほしい。ほしい……ほしい…
ほんとに残してもいいんだよ。そんな気持ちでたくさん出してくれるのはわかる。だけど出されるとやっぱり残せない。残すことにとても気が引ける。それは世代の問題なんだろうか? 残したら申し訳ないと思って無理をする。結果、しんどくなる。そこにさらにサービスという名の別メニューがやってくる。もはや地獄だ。。。
だからこそ、こちらの切実な「ご飯少なめでお願いします」は、マジで半分に、もしくはそれ以下の量にしてくれていいので、覚えておいてほしい。
随分勝手なことを言うやつだなあと思われるだろう。だけどそれでもいい。無駄な食品ロスを減らし、われわれローカル編集ライター・カメラマンの健康が保たれるならばそれでいい。
地元の人たちを前に「あれほんとやめてほしい」などと伝えてしまった時の悲しい顔が、僕には強く焼き付けられている。ほんと申し訳ない。だけどまじ切実に、ソフトクリームは二巻きで十分だし、ごはんのおかわりはできればしたくない。40超えてヤングな量は食べられない。
おもてなしの精神。
いっぱい食べてもらいたいという優しさ。
良かれという気持ちを、否定されるほど悲しいことはない。
だけど、それでもなお、僕は主張したい。
ウクライナに折り鶴を送ろうとした女性たちも、「なんでこの気持ちをわかってくれないの?」と思っただろう。確かにそこに込められているのは、まっすぐな良心の塊に違いない。けれどもだ。それが迷惑になることの想像力がなければ、それは自己満足だ。
「ご飯少なめで」とか、「料理を半分にしてほしい」とか、「そんなに食べられないから少しで大丈夫」と言うのは、決して遠慮ではなくて、本当に切実にそうだからこそ、失礼を承知で、勇気をもって伝えている。
これは僕1人が胃袋ちいさくなってきたおじさんだからではなく、若くて食べ盛りな時からずっと、そうだったし、同じ悩みを持つ編集ライター、カメラマンたちが確かにたくさんいる。
大盛が嬉しいというのは、いまの時代にそぐわないのは理解してもらえると思う。それゆえ、せっかく美味しい料理を食べた後の感想が、ものの見事に「お腹いっぱい!」になり、それで済めばまだいいが「もうしばらくいらない!」とまでなってしまった人たちを、散々見てきた。これは提供する側もされる側もどちらにとってもマイナスしかない。
もちろん大盛りが嬉しい人だっている。ときには僕だって大盛にしようか迷うときもある。だけど僕が伝えたいのは、それをデフォルトにしないでほしいということ。一口目の「美味しい!」 という感動が、目の前の大量の料理を平らげなきゃいけないというミッションに変化して、いつのまにか最初の美味しいが過去の出来事になっていく悲しさ。
だからマジでサービス精神とか優しさで大盛にする文化やめてほしい。
田舎のみなさん、もてなしが過ぎる。
あ〜 いま言い過ぎたな。そうだよね。
すみません。すみません。ほんとごめんなさい。
でもね。実際この問題、都会ではまず起こらない。その理由はよいもわるいも、都会は地域コミュニティの結束が弱く、隣近所を気にしないで暮らしているからだ。だからこそ、それぞれのやり方や個性を尊重することがデフォルトになっている。そこに妙な「見栄」は必要ない。あそこの家は、これだけの量しか出てこなかった。あそこの家は、品数が少なかった。そんな風に思われたくないという気持ちから、少ないよりは多く出すという文化が田舎では根付きに根付きまくっている。田舎は、「足りない」が、=「悪」になってしまっている。
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