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続きと始まりとルーティンと。

 元日から大変なことが起こって心揺れる日々。

 そんななかで読んでいた柴崎友香さんの『続きと始まり』がとんでもない名著で、柴崎友香という作家の仕事の確かさと使命に惚れ惚れした。阪神淡路、東日本、二つの震災と、新型コロナパンデミック。三つの大きな出来事を繋ぐ主人公3人の日常が、僕自身の生活や胸の内とも繋がって、小説はこんなことが可能なのか、という幸福な驚きに満たされた。

 北陸が大変ないま、この本に触れる人が増えるといいなと切に願う。

 年末に観た映画『PERFECT DAYS』と共に、日常の光と影にある幸福を淡々と噛みしめ、また、それを記録していくことの意味を考える作品に続けて出会えたことは自分にとってとても大きな意味があった。

 映画『PERFECT DAYS』は、東京都のあるトイレ清掃職員の男性の日々を綴った物語。日々の生活の美しさの断片を象徴的に切り取るヴェンダース監督の手練にうっとりとしながらも、役所広司さん演じる主人公の視点から描かれる幸福の欠片にいちいち頷く思いだった。僕は最近ずっと、産廃処理業者さんのおしごとをしたりして、「ごみ」に携わる職業の人たちの情熱に触れる機会が多いゆえ、そのことが僕を余計歓喜させたのだと思う。

 何より、この映画が描くルーティンの幸福・・・・・・・・は、僕にとって最高に心地よく、ともすれば淡々とした繰り返しに観客が飽きてしまいそうなところを、緩急ある編集で見事に魅せてくれて、同じく昨年公開の良作『リバー流れないでよ』の2分ループとはまた違った円熟味に大きな感動を覚えた。

 僕は歳を重ねるにつれて、特別な出来事よりも、ルーティンの幸福を感じるようになってきている。

 毎朝、家の裏の山道を数分歩いて、7時半にオープンするパン屋カフェに行き、昼に食べるパンとコーヒーを頼む。旅に出ていないときは本当に毎日通うゆえ、黙っていても受け取ってくれるマイタンブラーに淹れてもらったホットコーヒーを飲みながら、原稿を書いたり、メールを返したりしているうちに時間は12時を過ぎ、ようやく朝に買ったパンをかじる。予定もなくそのまま居られるときは、そこでさらに本を読んだりして、長居の申し訳なさを取り繕うように、時折コーヒーやパンを追加しつつ、日によっては1日ずっといることも。そして18時半には家に戻り、19時には妻がつくってくれた夜ご飯を食べはじめ、溜まったドラマを一本見終えると同時に食事を終える。食後の片付けは僕のしごと。夜にzoomの打ち合わせなどがない限りは、皿や調理後の鍋などを洗って拭いて棚に戻すまでやってしまう。さらに布団を敷いて早々に眠る準備をしておいてから、お風呂に入ったり、ドラマの続きをみたりする。僕の毎日は淡々とこの繰り返しだ。

 だから役所広司さん演じる主人公、平山の生活を僕はとてもリアルに感じていた。

 けれど、本作についてのいろんな感想を見ていると、どうやらここに大きな感じ方の違いがあることがわかった。ある人たちにとっては、主人公の淡々とした日々の繰り返しが、虚構にしか見えないというのだ。また、ヴェンダース監督の映像美のせいか、美しすぎるとか、虚飾といった、強い言葉をつづる人もいる。当たり前とはいえ、人によって感じ方はこんなにも違うものかと驚く。

 映画は、基本的にファンタジーなものだ。たとえそれがドキュメンタリー作品であっても、それがリアルであることなどないのは、誰かにカメラを向けたり、レコーダーを向けたりする経験を持つメディアの人間なら誰でも納得してくれると思う。どこか、読まれることを意識した非公開の日記のようなものとでも言おうか。

 だから僕はファンタジーとしてこの映画に触れて、そこに描かれる世界に浸り、多幸感あふれる時間を過ごした。そして、僕がもし独り身ならこういう生活になるだろうなと、とてもリアルに想像したりもした。そんな僕はいま、映画中に主人公が読んでいた文庫本、幸田文の『木』を読んでいる。つまりは憧れか。しかし、映画を観てこんなにもピュアに影響を受けたのは、中学一年の頃『オーバーザトップ』鑑賞後、映画館を出た途端、被っていたキャップのつばを後ろに回した、あの日以来かもしれない。

 柴崎さんの『続きと始まり』と、映画『PERFECT DAYS』この二つの作品に共通するモチーフがフィルムカメラだったことも、琴線に触れる大きなポイントだった。デジタルデータではなく、フイルムや写真プリントの物質感、もっと言えば、カラーではなくモノクロが教えてくれる、写真は色ではなく光と影なのだという事実。銀塩写真でしか知り得ないものの深淵に静かな悦びを感じた僕たちの物語だと感じて嬉しかったのかもしれない。

 『PERFECT DAYS』において重要なモチーフとなっているカセットテープも、昨年の夏からカセット沼にハマっている僕には、たまらなくフィットした。カセットテープの良さのポイントの一つは、間違いなくルーティンにある。ケースを開いて、カセットを取り出し、ステレオに入れる。この一連の所作の先に広がる世界が愛しいのだ。

 ルーティンの幸福を噛み締めるようになったのは、僕の人生のB面にずっと旅人としての自分があるからだろう。特別な出来事の連続のような旅と、淡々と同じことを繰り返す日常。そのわかりやすい両面で僕は生きてきた。それでも30代〜40代前半まではスペシャルな旅の日々に心の軸足を置いていたように思う。けれどそれが40半ばを超えて、徐々に逆転しはじめた。それどころか、何かを取り戻そうとするかのように、決まった生活。決まったルート。決まった服装。決まったお店。に魅力を感じ、できる限り決まった型を意識するようになっている。

 若いうちは型を壊したいという欲望が強い。少なくとも僕はそうだった。けれど様々にキャリアを積んでいくなかで、型そのものの凄さや、その影響力みたいなものを強く感じるようになってきた。つまりは型をつくることに意識が移行していく。突発的な真新しいコンテンツをつくることよりも、構造や仕組みや型をクリエイティブしていくことに大きな魅力を感じる。そもそもからしてそういう性質だったとは思うけれど、いまの心持ちをもってすれば若い頃のそれは、まさに虚構だったかもしれない。

 僕にとって、日々のSNSに投稿するようなスマホ写真は、撮れた画像の出来不出来に重きをおくけれど、一眼レフを構えて写真を撮るよろこびは、一枚の写真を撮るために、ファインダーを覗いてじっくり画角を決めてシャッターを押すという所作こそが大事なのだと、いまの僕ははっきり言える。『続きと始まり』の主人公の一人はカメラマンの女性なのだが、彼女の仕事のB面ともいえる、写真館での記念写真撮影は、まさに型の写真の象徴だ。その一方で彼女は、雑誌取材などの撮影仕事に励む。この両面が必要なんだよなとシンパシーを覚えた。

 コンテンツそのものよりも、コンテンツが生まれる型を愛すのは、極端な偏愛なのだろうか、それとも歳を重ねるとそうなっていくものなのか、僕にはわからないけれど、とにかくいま僕はルーティンに幸福をみている。

 日常の愛しさを型で切り取るフィルムカメラは、ヴィム・ヴェンダースと柴崎友香という二人の作家の根っこにあるものの象徴のように思えてならない。作家にとって作品というものが、いかにその人の結晶であるか、作品というものの尊さを感じる2作に連続して出会えた僕は、いつか柴崎さんの作品をヴェンダースが撮ってくれないだろうかなんてことを妄想している。

僕にとっては今後の人生に間違いなく影響を与える2作。ぜひ多くの人に読んで、観て、ほしい。


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