選挙は禊じゃない。
大好きなお笑い番組を見てたら、ある若手芸人さんの
「これであかんかったらもう番組辞めるつもりで、
実際辞めはしませんけど、辞めるくらいのつもりで…」
というボケ混じりの挨拶に
千原ジュニアさんが「政治家か!」
と突っ込んだ。
的を射たツッコミに、スタジオがドッと沸き、さすがだなあと思いつつも、
ここで笑いが起こるほどに「政治家の不誠実」が共通認識となっていることへの不安を感じた。
笑いに昇華していくことは、高度な技術を基盤とした皮肉の表現であると同時に、そこにはある種の「諦め」が含まれているのではないかと思ったのだ。
そしてその「諦め」は、決して「赦し」ではないということを、どう伝えればいいのだろう? と、悩んだ。
さまざまな不祥事をのらりくらりと交わし、選挙という禊を持って浄化を済ませたとするような流れが出来上がってしまっているのではないか? つまりは選挙というものが、手前勝手な恩赦的行事になってしまっているのではないかと。
個人間のいざこざじゃあるまいし、そんな簡単に赦しの済み印を押してしまってよいものか。
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昨日、たまたまつけたテレビで、女性の月経についての理解を深めようという番組をやっていて、思わず釘付けになった。
うちの家族は妻と娘が1人。しかも妻は3人姉妹の長女で、姉妹全員が近くに住んでいたりするので、どちらかというと女性が多い環境にある。
また、仕事柄か、周りには女性が多く、どんなプロジェクトにおいても、自然と女性の割合が多いチーム編成になりがち。
そんななかで、当たり前に今日は生理でしんどいんだなと感じたり、時には言葉にしてみたりもするけれど、番組をみていると、それでも僕はまだまだ月経についての理解や配慮が足りないと思ったし、世の中の、月経を恥ずかしいものとして扱う空気は、ほんとどうにかせねばと思った。
その番組の中で衝撃的だったのが、かつて全国各地にあったという「月経小屋」という存在。小屋に入っている間は、家事をしなくていいという楽さがあったとも言われるものの、基本的には、生理中の女性を不浄なモノとして隔離するための小屋で、そう言った考え方が少なからずいまに繋がっていることを感じざるを得ない。
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さらにその番組で興味深かったのは、月経について書かれた一番古い文献の話。それは古事記だという。ヤマトタケルが婚約者のミヤズノヒメの裾についた経血をみて、サラリとそれを詩に歌っている。つまり、かつてはそうやって大っぴらに歌にするほど、月経は当たり前に言葉にされるものだった。では、一体いつからそれが穢れたものとされてきたのか? その答えは平安時代だった。この頃から宮廷行事や多くの神事において女人禁制が進んだのだそう。つまり、かの時代の権力者が政治に女性を介入させない方が都合が良いとしたということだ。
このことが現代もなお色濃く残っていることは間違いない。月経について考えていくだけで、現在の男性性優位な社会のおかしさが見えてくる。とても良い番組だった。
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そうやって権力者たちは常に、反論しずらい「神」という存在を盾に、「穢れ」と「禊ぎ」という概念を、不都合なものを遠ざけたり、自身の不都合をリセットしたりする便利なものとして利用してきたのかもしれない。
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