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殺生してはいけない本当の理由

 近くのパン屋カフェまで向かう裏山の散歩道。緑の木々が美しく、今朝も気持ちよく深呼吸しながら歩いていたら、今日はやけに蟻たちが活発に動いていて、彼らを踏んでしまわないよう、時折、妙なステップになりながら歩を進める。

 ここで突然、ざんこくな話をするけれど、小学生のころ、あまり運動が得意じゃなかった僕は、仮病を使ってプールをお休みしては、みんながプールのなかでワイワイ騒ぐのを横目に、ひとりプールサイドの日陰で体育座りして、足元を這い回る蟻を、水たまりに入れて溺れさせてみたり、触覚を抜いて路頭に迷う姿を眺めたりしていた。

 今思えば、信じられないようなざんこくなことを平気でしていたなと思うけれど、子供というのは(なんて、括ると「うちの子はそんなことしません!」って怒られそうだけど)そういうものなんだと思う。蟻一匹殺生してしまうことに対して、たいそうな罪悪感がなかったゆえに、そんな子どもらに対して「殺生してはいけない」と大人は諭したのだろう。

 自身が大人になっていくほどに、当たり前に「命」の尊さを知り、散歩の途中、蟻一匹踏みそうになれば、捻挫してでもつま先の方向を急転回させることだっていとわなくなる。それゆえ、「殺生してはいけない」なんて言葉は、あまりに当たり前で、もはや意識すらしなくなっていたけれど、なぜか今朝「殺生」という言葉に意識がむかった。

 そこではたと気づいた。

「殺生してはいけない」という言葉の真意というと大袈裟だけれど、「殺生してはいけない」という言葉に隠された、僕なりの意味が急に明確になったのだ。

 そんな今朝の閃きを今日はシェアしたい。

 そもそも「殺生してはいけない」というのは、仏教における「不殺生戒」という、仏教の戒律の中では最大の罪とされるもので、「生」き物を故意に「殺」してはならない、という教えだけれど、実はそうじゃないんじゃないか? と思う。いや、それでは誤解を生むので、もう少し丁寧に伝えると、確かにそれはそうなんだけど、それ以上に大切な意味が置き去りにされていないだろうか? と思ったのだ。

 置き去りにされているものの正体は、「殺生」という言葉の「生」の方。

 僕はそもそも、この「生き物を殺してはならない」という言葉に対してちょっとした違和感がある。殺すということはそもそも生き物を殺すことを言うわけで、いちいち「生き物を」と付けるのは、ある意味で「頭痛が痛い」と同じ二重構文なんじゃないかとすら思う。松本人志的に言えば「カモシカのような脚」ではなく「カモシカの脚のような脚」が正しいという……この例えはちがうな……とにかく僕は「殺してはいけない」つまり「不殺戒」で十分意味が通じる言葉に、あえて「生」の字があることの意味について考えてしまった。
そしてわかった(気がした)。

「不殺生戒」とは「生き物を殺すな」ではなく
「殺す生かす」という考え自体を戒めているのではないかと。

 つまり、殺生しないというのは「命」を奪うことだけでなく、その逆である「生かす」ということをも戒めているのだと僕は理解した。

 編集の仕事をしていて、もっとこれを生かせばいいのになどと思うことがあるけれど、そのとき、そう考えることにつきまとう、ある種の上から目線というか、全能感みたいなものに、自分で嫌悪することがある。つまり何事も「コントロールできる」と考えること自体に、僕は常に自戒がある。

 編集者の仕事は、あたらしいものを生み出すことに意味があるのではなく、すでにそこに在るものに対して、リスペクトを表明することに意味があると僕は思う。それが在るということの意味や背景に想いを馳せながら、それがこの先も続けばいいなと願うことは、大抵の僕の編集の起点だ。そこから実際にアクションを起こし、何かしらのアウトプットを作っていくにあたり「人は変わるけれど、変えることはできない」という、当たり前のことに自覚的であるかどうかで、そのステップやアプローチは大きく変化する。

「こうすれば、ウケる」「こうするだけでよくなる」的なことを軽々しく言う人を僕が信用できないのは、その言葉を信じる信じないではなく、その人の心の奥にある、「生かすも殺すも」的なコントロール可能感をまったく信用しないからだ。

 コントロールできると感じる全能感は、何事もKPI的に数値化することでわかったようになるという、思考の放棄から来ているように思う。それなのに、ひとは、緻密に数字を追う人をこそよく思考している人だと思いがちゆえ、これはとても根深く難しい問題だ。

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