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兵庫県知事選がもたらしたもの。

 奈良〜東京〜愛知〜岐阜と、ここ一週間、旅を続けるあいだ、ずっと頭の片隅にあった兵庫県知事選。僕の住まいは兵庫県の西宮なので、もちろん他人事ではないし、当然、期日前投票も済ませて旅に出た。

 一連の旅の最終日だった昨日、岐阜県各務原市にある「カクカクブックス」という素敵な書店さんでのトークイベントを終えて、深夜に西宮まで戻った僕は、スマホに躍る「斎藤氏再選」の文字を見ながら、さまざまを考えた。

 斎藤元彦前知事のパワハラ疑惑に対する対応の問題から、県議会での全会一致の不信任決議、からの出直し選。明らかに斎藤氏不利な状況が、これもまた真偽はわからぬものの、SNSでの逆サイドからの新たな疑惑の浮上によって空気が逆転。選挙終盤に近づくにつれ、斎藤前知事は、旧体制に一人立ち向かう英雄となっていった。旧態依然とした自民党政治への嫌気も影響したのか、その物語のチカラは強く、県民の多くが、逆境から這い上がる英雄という物語を支持し、そのエンディングを迎えた。

 僕は選挙結果云々よりも、正直、知事選が終わったことに、なによりホッとした。それは、今回の知事選が、かつてないほどに県民を分断していると感じていたからだ。

 投票率が前回(2021年)に比べて、14.55%上がったという点は、よいことであると思うけれど、その投票のエネルギーこそが、「分断の力」であるような気さえして、僕は投票率の高さをまっすぐ肯定できないでいる。

 パワハラがあったのかなかったのか。
 旧体制が斎藤知事を陥れたのか違ったのか。

 こういった単純な二極論を突きつけられ、お前はどっちが正義だと思うんだ、と考える暇もなく迫られるような圧を感じる知事選に、できることなら逃げ出したい気持ちになった。この一週間、トークイベントなどで地元を離れていたことは、心の平静を保つためにはとてもよかったように思う。

 今回の選挙は、テレビや週刊誌報道、はたまたネットニュースやYouTubeなどに翻弄された県民が、政策そのものよりも、真実を知りたいという欲望のままにメディアを追いかけ、その結果、AIの嗜好判断のまま、おすすめの動画やSNSを辿ることとなり、知らず偏向していく先に、大きな分断が生まれていくという、現代を象徴するような選挙だったように思う。

 僕は常々、全てはポジティブにグレーなものであると主張し続けているが、正義と悪は誰にでも混沌と存在しているのだから、この部分は斎藤さんいいよね。この部分は稲村さんいいよね。はたまた他の候補者がいいよね。といったグラデーションのある意見がもっとあっていいはずだと考える。しかしそんな報道や番組はほとんど存在せず、あったとしても、いわゆる斎藤支持層にウケるものか、稲村支持層にウケるものか、白黒二極化されたものが好まれるなかで、どっちつかずだと捉えられ、ひたすら埋もれていく。僕はその対話のなさが、とても辛かった。

 その結果、斎藤さんを推す人々は、稲村さんを推す人々をミソクソに言い、いなむらさんを推す人々は斎藤さんを推す人たちをミソクソに叩く、軽率で配慮にかけた汚い言葉が飛び交うSNSに僕はほとほと疲れ果てた。そんな議論合戦になるほどに、選挙戦はシンプルなパワーゲームとなっていく。より強い声、より説得力のある物言い、より心地よい物語、に惹かれていく人々は、曖昧に揺れるのではなく、ある種の心地よき納得に一票を投じた。そんな選挙戦だったように思う。

 けれど僕は、メディアに携わる者として、これだけは言っておきたい。

 今回の知事選を、新聞テレビなどのレガシーメディアと、SNSやYouTubeなど新しいメディアとの戦いだと位置付ける人々が増幅し、斎藤知事の再選を受けたいま、新しいメディアの勝利だという声がたくさんあがっているが、そういった単純な二極論で考えることこそが、まさに分断の象徴であり、その無闇で一方的な正義感がその間にある豊かなグラデーションを見失い、対話を消し去ることを知って欲しい。

 当たり前だけれど、新聞テレビのような既存メディアにも、XやYouTubeなどの近年のメディアにも、どちらにも嘘と本当がある。つまり、どのメディアであれ、そこには発信する人間がいて、その人間を見るチカラが大切だ。どのメディアを鵜呑みにするかということではなく、どのメディアの意見に対しても、自分の意思や気持ちを掛け算すること、もっと言えば、実際に会うこと。語ること。話すことが必要だ。

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