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アルバムな旅06 『フィルムカメラでのこしていく』

 佐野さんとの出会いは17年ほど前に遡る。

俳優の佐野史郎と申します。

 ある日突然、そんな一文からはじまるメッセージをいただいたのだが、頭のなかで「はて?」が増殖するばかり。

 俳優の佐野史郎さんって、あの? 同姓同名か?
 ほんとに佐野史郎? あの冬彦さんの? 
 てか、なんで? 

 メールを読みすすめるに、どうやら、あの、佐野史郎さんご本人に間違いはないようだ。肝心のメールの内容を整理すると、

・雑誌『Re:S』vol.2「フィルムカメラでのこしていく」特集を偶然買った。
・取材チームが、出雲大社などを経て、最終的に鳥取県の赤碕という町の写真館に出会う様子を面白く読んだ。
・自身も島根県松江出身であることと、写真が好きということもあって興味深かった。
・実は赤碕には、世界的に有名な写真家、植田正治さんの師匠とも言える塩谷定好という人物の故郷なので、ぜひ塩谷定好さんを追ってほしい。
・佐野家にも古い写真が残っており、100年前のプリントもあるのでぜひ見てほしい。

 といったことが書かれていた。

 あの、佐野史郎さんが『Re:S』を読んでくれて、かつ佐野家の写真を見てくれと言っている? これは会わないわけはない! と思いつつ、まだ同姓同名おじさん疑惑は完全に晴れてはいなかった。それを確かめる気持ち半分、約束した新宿の某居酒屋に向かった。

 取材チームとともに行ったその店にいらっしゃったのは、紛う事なき佐野史郎。まさに、あの史郎だった。テレビの向こう側の人に会う機会も少なかった当時、ドキドキしながら挨拶を交わし、メールのお礼をすると、佐野さんは早速その場でノートPCを開き、100年前の佐野家の集合写真のスキャン画像を見せてくれた。見た瞬間、みんなで声をあげたほど、そのプリントは鮮明で圧倒された。

 ここで、この佐野さんとの出会いがどれほど僕らにとってありがたかったかを伝えるべく、あらためて、雑誌『Re:S』と特集「フィルムカメラでのこしていく」のことについて説明したい。もはや寄り道は僕の癖であり特徴であり個性なので、我慢して読んでほしい。

 『Re:S』をつくりたいと考えた当時、30歳を超えたばかりの僕は、自分がつくるメディアのほか、関西の情報誌や東京の雑誌媒体の仕事を引き受けたりしながら暮らしていた。地方在住編集者やライターがなんとか食べていくには、地元誌のショップ取材をやたらと引き受けるか、行政のパンフレット的仕事をやるくらいしかない時代。そんな頃に、東京から降りてくるお仕事は地方編集者にとってとてもありがたい仕事。なんつっても、地元誌よりもギャラが良い。しかしそれゆえに、関西の才能ある編集ライターの友人たちの多くが、当たり前に東京へと拠点を移していくのもたくさんみてきた。だけど僕はそれをしたくなかった。単に自信がなかっただけかもしれないが、少なくとも、東京に僕の理想があるわけではないという強い思いがあったのは確かだ。

 そもそも僕は、関西文化圏に住んでいることで、東京のメディアに対する独得の感覚を持っていた。これは当時の関西人の特徴のひとつで、わかりやすく言えば、アンチ巨人的なゆがんだ対抗意識を東京に対して持っている人が多かったように思う。ちなみに僕は、子供の頃から、アンチアンチ巨人で、だからといって阪神ファンになるのもいやで、前回書いたとおり、謎に近鉄バファローズの帽子を被りつづけるという、さらに歪みをソテーして自慢げに出してくるような面倒な子供だった。

 まあ、それはいいとして、関西は吉本興業という一大お笑い商社のおかげで、関西ローカルバラエティ番組がかなり充実しており、しかもそこから全国区に出ていった明石家さんま、ダウンタウンといった錚々たる芸人さんたちのおかげで、地方の人たちが感じるような方言に対する恥ずかしさが皆無だった。それどころか、関西弁に誇りを持っていたようにすら思う。その意味はとても大きく、それが、地方から堂々と自分の言葉で発信することの背中を知らず押してくれていたことに気づいたのは、つい最近のことだ。

 東北、青森や秋田でテレビをつけても、北海道の端の網走やら根室やらでテレビを見ていても、やれ代官山だ、麻布だ、赤坂だと、地方に住んでいては到底行くことも叶わない店の情報の連続につらくなる。その不毛さを地方の人たちは「憧れ」に変換して逞しく生きてきたけれど、それがかえって、自分たちの足元にある宝物の存在を軽視し、都会にばかり答えを求めてきた原因になってはいまいか。

 どうして東京だけが堂々と全国にご近所の情報を届けるのだろう。東京だって、釧路や根室や秋田や新潟や沖縄や、とにかく日本中にある地方と同じ、ローカルの一つにすぎない。都会の反対語としてのローカルではなく、一地域としてのローカルが、等しく胸をはって発信する世界をつくりたい。それが僕の願いだった。

 だから雑誌『Re:S』は、東京に拠点を置く事なく、全国の書店に当たり前な顔をして並んでいることが大事だった。31歳のとき、『Re:S』を出したいと、版元になってくれたリトルモアの社長、孫さんに会いに行ったとき、未熟で思慮浅かった僕が言ったのは「東京で売れない雑誌をつくりたい」という我ながら言葉足らずな謎言語だった。しかしその根っこにあったのはアンチ東京な精神などではなく、地方で暮らす人間の、精一杯の叫びだったのだ。リトルモアの孫さんはそのことを一瞬で察してくれて「お前がやりたいんやったらやれ」という、そのたった一言だけで『Re:S』の出版を決めてくれた。東京の人にとっては情報価値が低いであろう、地方の小さなお店や人物しか出てこない雑誌をつくる。そんなことを叶えてくれる出版社が、あの頃ほかにあっただろうか。僕をこの世界に拾い上げてくれた一番の恩人は孫さんだ。

 孫さんのおかげで無事出版することが出来た雑誌『Re:S』。その創刊号の取材で初めて出会ったのが、カメラマンの伊東俊介だった。年齢は僕より二つ上。創刊号の取材を終えた伊東の車のなかで、気づけば4時間以上、二人きりで話しこんだあの時間のことを僕は一生忘れないだろう。編集者とカメラマンという立場の違いはあれど、考えていることは同じだと思った。それも寸分違わず。伊東と出会って、僕ははじめて本当の仲間を見つけたような気持ちになった。あのとき車内で決まったのが、『Re:S』2号目の特集「フィルムカメラでのこしていく」だった。

 伊東俊介は現在、「いとう写真館」という、移動写真館プロジェクトを軸に、雑誌のカメラマンというよりは、移動写真館のおじさんとして、有名になっている。もう20年近く、モノクロのフィルムカメラで日本中の家族写真を残し続けているのだから、すごいもんだなと思う。そんな伊東だから、当時から写真表現というよりは、写真そのものの価値についてとても深く考えていた。

 ちょうどその頃、僕は僕で写真について考える機会があった。当時3歳になる娘がいた僕は、娘の誕生が嬉しく、デジタルカメラでたくさん写真を撮っていたけれど、それを一枚もプリントしていないことに気づいたのだ。それこそ両親は僕が小さい頃のアルバムをつくってくれていたけれど、一方自分は娘のアルバムづくりをしていない。しかしそれは、単なる僕や妻の怠惰ではなく、フィルムカメラからデジタルカメラへと社会が移行していく時期にあって、その変化に対応できていない社会にこそ要因があるんじゃないかと、つまりはその構造を疑った。

 「個」の課題の多くは、「公」、または「構造」の問題であることがほとんどだ。個をきっかけに社会を視るというのもまた、編集者の大事な視点だと思う。

 フィルムカメラには、いまのカメラのようにモニター画面がない。あるのは撮影時に構図を定めるファインダーのみ。それゆえ、フィルム現像及び、プリントをしなければ、実際にどんな像が撮れているのか確認しようがない。いまはほとんど無くなってしまったけれど、当時はまだ「同時プリント○円!」などと安さを謳う看板を掲げた写真屋さんが街じゅうにあり、撮影したフィルムを持って、写真屋さんにプリントを頼む文化が残っていた。そしてそのことが、多くの人たちにとって、アルバムづくりの一番の動機づけとなっていたことは間違いない。

 「同時プリント」とは、フィルム現像と同時に写真をプリントするということ。つまり、プリントしたい写真だけを選んでプリントするのではなく、有無を言わさず、全部同時にプリントしていくということだ。それゆえ、写真を撮るほどに大量に増えていくプリントを整理したい、という気持ちが生まれる。それがフィルムカメラ時代にアルバム文化が醸成されていった大きな理由の一つだ。だから、プリントせずとも像を確認できるデジカメ時代において、アルバムづくりが廃れていくのは当然だったのだ。

 写真の価値は「のこしていくこと」にあるんじゃないか。それが伊東の考えだった。そして僕はアルバムという視点から、同じようなことを考えた。そうやってフィルムカメラを見直したとき、そこには多くの人が見落としてしまっている大きな価値があるのではないかと考えた。

 デジカメ全盛の時代にあって、フィルムカメラの価値を伝える特集をつくろう。伊東と2人意気投合した。それ以降、『Re:S』は取材旅の道中での、伊東との会話から抽出したテーマを次号の特集にしていくというのがスタンダードになっていった。「じゃあ次号は○○の特集にしよう」と言う僕に「ええんちゃう」と、伊東が一言。2人の考えと高揚を邪魔するものなど何もなかった。

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