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はじめてのおつかいがい_06

 エコバイクコーヒーのテラス席から、そのまま山肌に沿って下る道がある。そこを5分ほど降りていくと、僕たちが泊まる宿泊棟があった。前回書いたように、バユさんが設計したその小屋は、なんだかとてもおしゃれで、勉強熱心なバユさんのアンテナ感度が伝わる。別棟のシャワールームなんてまさにこの感じだから、ほんと洒落てるよね。

 とはいえまあ自然のどまんなかに立っているので、ほぼキャンプに近いというか、虫さんたちが元気有り余って大変だったけども。

ロケーション的にはここだから。

 写真のように昼間はいいんだけど、ここを我々は街灯もない夜に歩いて降りていったわけだ。犬はウーウー唸ってるし、豚も鶏もいるし、なんだかほんとおっかなかった。いったいどんなところに案内されるんだろうと不安だったけれど、iPhoneのライトを頼りに、ようやく着いた宿泊棟を見てホッとした。我ながら安定の軟弱さ。

 寝室棟の横には、みんなでくつろげるオープンスペースもあって、誰ともなく、親睦をかねてもう少し飲み直しましょうということになったんだけれど、前回書いたように、僕はやっぱり上岡さんの訃報がショックで、頭が痛いと一人失礼させてもらった。布団のまわりに大量の蟻がいて、余計に気が滅入ったけど、どっちがお邪魔してるのかって言えば、確実にこっちだから仕方ない。微かに聴こえるバユさんたちの笑い声のなか、蟻の行列を参列者に見立て、僕もその末端に並ぶ妄想をしながら、力技で寝た。

 正直、夜は景色もなにもわからなかったから、いったいここがどういうロケーションなのかいまいち掴めていなかった。だけど早朝にカーテンを開け、その美しさに絶句した。

 慌てて竹内くんを起こして外に出た。

 なんと、カフェは5時半から開いていると聞いていたので、シャワーを浴びて準備をととのえ、集合時間までは少しあるけれど、朝焼けのなかカフェまで上がることに。途中、みるみるうちに空の色が変化していく。

 圧倒的だった。
 蟻も蝿も人間も、この世界で生かされている。

完全に日が昇ったあとの景色。テラスに立つ僕のゼルダみ。

 朝6時過ぎだったろうか、エコバイクコーヒーは確かにもうオープンしていた。バリのみなさんは夜明け前にお祈りを欠かさないというから、きっとみんな朝が早いんだな。僕は40歳を超えたくらいから徐々に早起きになって、原稿執筆や編集などのクリエイティブな仕事は、基本的に午前中にしかやらないので、そこもまた僕にはとてもフィットする。

 急に雲が現れて目の前に雲海が広がる。モーニングコーヒーをいただき、旅先には欠かせない相棒のpomeraで粛々と原稿を書いていたら、あっという間に集合時間の8時になった。今朝は、パサールと呼ばれる市場に連れて行ってくれるとのことで、僕はとても楽しみにしていた。きっと僕らを気遣って朝8時集合にしてくれたのだろうけれど、パサールは5時くらいから7時くらいがもっとも賑わっているという。朝食をしっかりいただいて向かったこともあり、僕たちが市場についたのはすでに9時半をすぎていた。

 朝市を歩きながら僕は、カルチャーショックというよりも、むしろどこか強い既視感を覚えていた。そしてそれがたかだか十数年前の北東北のローカル朝市だと思い出した。昨日、スターバックスで感じた安心感とはまた違った、人間の営みの変わらなさに対する安堵のようなものが僕を包んで、パサールのいたるところに僕は光をみていた。

 そもそも僕がバリ島にやってきたのは、お仕事のオファーをいただいたからではあるのだけれど、何よりそこに、僕の気持ちの変化がフィットしたことが大きい。レポートの1回目に書いたけれど、日本で生まれ育ち、これまで日本を出たことがなかった僕は、国内においては明らかにマジョリティである日本人男性として、ある意味で何の不自由もなく生きてきた。そんな僕にとって、海外に行くことは、たとえいっときであっても、マイノリティな状態に身を置く大切な経験になるはずだ。実際にバリ島に来てみて、言葉が通じないことのストレスや不安を感じながら、一方で僕は、どこにいようと変わらぬ人間の面白さや、多様な文化を超えた共通点に楽しさを感じ始めてもいた。もちろんそれはテクノロジーの進化のおかげだろう。

 それこそ日本に戻る日の前日、僕はバリ島に到着して最初の衝撃だった、超カオスなバイク渋滞に身を預けてみたいと、Grabというウーバー的なアプリを入れ、バイクタクシーに乗ってみた。日本のタクシーGOアプリのように、スマホ上で乗車地と目的地を指定したら、すぐに近くまでやってきてくれて、無事に目的地に着いたら、あとは決済まで自動で済むので、言葉が通じない僕でも簡単に使える。きっと、これまでなら乗り越えられなかっただろう障壁を、テクノロジーの進化がかるく飛び越えてくれた良い例だ。

ドライバーさんのメット超可愛いんですけど
なんかすごいのいる。
まさにカオス!

 きっとこういったテクノロジーの進化とその伝播は、益々加速していくに違いない。つまりは、どんどん文化の均質化が進むだろう。歴史は、時間は、悲しいかな一方向にリニアなものだから、こればかりは仕方がない。でもだからこそ僕は、発展途上なバリ島の人たちの生活に、今回海外へと足を運ぶことを決意したことの意味が、立ち上がっていくのを感じた。

 僕のなかにぼんやりとあった違和感の輪郭が徐々にハッキリとしてくる。それはマジックペンで引いたような強い一本の太い線ではなく、及び腰で不安気に引かれた、か細く短い線の集合体。何本も何本も継ぎ足して立ち現れていく実践という名の実線。あるいは細く弱い糸を何本も撚ることでようやく強度を持ちはじめた糸のようなもの。

 思えば僕が地方の良さを伝えたいと表明したのは2007年に出した雑誌『Re:S』の特集「地方がいい」だった。2000年初頭にローカルを、行き当たりばったりに旅取材していくなかで、日本の多様な文化に出会った僕は、若さもあって、それはもうずいぶんと影響を受けた。それはやがて『ニッポンの嵐』という本に結実する。

 国民的アイドル、嵐のメンバーとともに日本中を旅し、圧倒的な影響力をもって、日本の良さを伝えんとしたその試みは、見事なまでにその風向きを変化させた。さらにそこに東日本大震災が起こったことで、地方への目線はさらに具体化していった。紅白歌合戦も、24時間テレビも、彼らが司会をつとめる国民的な番組は、とにかく東北へ、そして地方へと視線が向けられていく。

 その頃の空気を一文字で表すなら「絆」だろう。僕はこの言葉が本当に苦手だった。絆とは本来、何かとてもフィジカルな体験を通して得られるもののはずだ。しかし、メディアを通して放たれていく「絆」はそうではないものが多かった。どこか安全地帯から見下ろすような、無責任で現実味のない「絆」は、当時の僕にとってとても冷酷な言葉に思えた。「絆」という文字のむこうで、政治的駆け引きや、経済的な取引がさかんに行われていて、それらの多くは津波の泥ひとつ洗いながしていない人たちで、もっと言えば、そんな人たちが被災地にきたとて、泥掃除などのボランティアを、何かの体験やワークショップみたいなものにしてしまうから、まるでお土産のように被災地の写真を撮って帰る姿に、僕は怒りを抑えようと必死だった。あの頃、癖になってしまった帯状疱疹と肋間神経痛の原因は、間違いなく、そのうっすらとした善意をまとった身勝手だ。以来僕にとって「絆」という言葉は、いまもなおざわざわと心の「傷」の瘡蓋に触れてくる。

 それでも、そんな漢字一文字を旗印に世の中が動いていくのを感じて苦しかった。具体と抽象のはざまに揺れ続けるのが僕の仕事だと腹を括ってはいるけれど、それでも小さな傷は後を絶たない。

 僕が編集者として、抗いつづけているのは、その空々しさだ。しかしその空々しさこそが、世の中を動かしいくことを誰よりも知っているのもまた編集者だと思う。

 僕の中にいま再び湧き上がるそのもやもやとした気持ちは、なんとなくそれに似ている。

 地方って素晴らしい=日本って素晴らしい。

 20年近く前には理解してもらいづらかった「地方の良さ」が、いまは当たり前に理解されるようになって、地方創生などという言葉とお金が動き回り、挙げ句の果てに、僕自身も地域編集などという言葉を掲げるようにまでなったいま、僕はいつしかそういったナショナリズムに加担してしまってはいまいか。

 汎用性が求められる文明と違い、文化はそれぞれの独自性や特異性にこそ意味がある。そういった多様な地域の文化を、日本文化などと言って一括りに出来るもんじゃないということを、僕はこれまで何度も実感してきた。それを大掴みして、一括りに表現するのは、編集のマジックの一つではあるけれど、それはあくまでも、見立てや重ねといった豊かな遊びから、本質を捉えていくための玄関であって、それが答えや正解といったものではもなければ、ましてや、特定の政治思想に道具のように使われるものであってはならない。

 バリ島の朝市で僕は、たかだか十数年前の東北を見た。さらには寺院で、食堂で、街中で、路地裏で、道路で、僕たちが置いてきてしまったものをたくさん目にした。そして、叶うことならこの混沌に戻りたいと思った。そんなふうに思うのは歳を重ねる弱みだと自覚してなお、そんなふうに言葉にせざるを得ないほど、僕は日本に魅力を感じなくなっている。

 資本主義の怪獣墓場のようなこの国で、日本万歳。地方最高。と、高らかに声を上げるのは、僕にはもう出来ない。そんな気にはなれない。

 これが僕の違和感の輪郭だ。

 この後も僕はバリ島で数々の体験をさせてもらって、いろんな気づきを得たけれど、バリ島の記録はこんなところで終えたいと思う。なんだかいろいろ書いたけれど、それでも僕はこれからも日本中を旅し続けるし、たまにまた海外にも行くにちがいない。そこで得られる気づきをこれからもシェアしていけたらなと思う。

 さあ、ここからは、ガチで僕の旅のアルバム。いつか誰かの旅の参考になればいいな。

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