上岡龍太郎さんに教わったこと。
旅先の土地にたどり着いたその日、敬愛する方の突然の訃報に言葉を無くした。お亡くなりになっていたのはなんともう半月も前だったという。本人の希望から葬儀は親族のみで営まれ、お別れの会も行わないとのこと。最後の最後まで、らしいなあと惚れ惚れする。だけどどうして公表された日が今日だったのだろう。と、そこに僕は勝手な縁を感じずにはいられなかった。上岡龍太郎さん、享年81。
僕は本当に上岡さんから多くを学ばせてもらった。といってもただの一ファンに過ぎないけれど、それでもこの方に近づきたいという思いが僕の人生の追い風になっていたことは間違いない。高校生の頃、上岡さんと鶴瓶さんのフリートーク番組を読売テレビのスタジオまで何度も観にいった。そこで僕は社会の有り様とか、いうなれば社会の姿がそうある理由について思考する癖をつけていただいたように思う。
そんな上岡さんの思想や世界観を、鶴瓶さんはアホな振りしてとてもクレバーに引き出してくれていた。おかげで世間を知らない高校生の僕は多くを理解できたし、なによりその「型」は、編集者としての僕の「型」になっている。だから僕の編集の「型」は鶴瓶さんが、「思想」は上岡さんがつくってくれた。そして僕の美意識はきっと、上岡さんのコピーだ。
当時のお二人のやりとりで、こんなエピソードを覚えている。
鶴瓶さんが何かちょっとしたメモをするのにボールペンが必要になった。しかしボールペンがなかったので、マネージャーにボールペンを買いに走ってもらったら、千円もするボールペンを買ってきた。「ちょっとメモしたいだけやのに、なんで千円もする高いボールペンを買うてくるんや」とぼやく鶴瓶さんに上岡さんは「そのボールペンの何が高いねん」と一言。「いやいやボールペンなんて百円もあれば買えますやん。なんでわざわざそんな高いやつを」と反論する鶴瓶さんに上岡さんはさらにこう言った。
「じゃあ鶴瓶ちゃん、君に千円渡したら、ボールペン作れるか?」
二人のやりとりを体育座りで眺めていた僕は「確かに、つくられへん……」と、その斜め後ろからの鋭角なモノの見方に興奮した。あれは間違いなく、僕が「モノの値段」というものに初めて向き合った瞬間だ。以来僕はずっとこの感覚を胸に抱えたまま、息をし続けている。
それが正しいとかわるいとか、そういうことではなく、本人にとっての美意識こそが大事であるということを上岡さんは教えてくれた。人生において迷ったり、なにかしらの選択を迫られるとき、僕はいつだって、上岡さんならどうするだろうと考え、生きてきた。すでに2000年の春に58歳で引退をされており、表舞台には立たないと決められた上岡さんだったからこそ、記憶のなかと、YouTubeに残る過去の言葉が僕のなかでより輝きを増していた。それでも、この世界のどこかで上岡龍太郎という人が生きてくれていることが、僕の心の平穏を担保してくれていたことに気づいてしまって、辛かった。あたらしいチームでの、あたらしい旅がはじまった日の訃報にショックを隠せなかった僕は、夕食後に集まって話す、本来ならとても大切な時間に、頭が痛いと一人布団にくるまってしまった。でも仕方がなかった。
今回の旅は僕にとって、とても大きなチャレンジだった。これまで旅する編集者として、日本中多くの町を旅してきた僕だけれど、それでも行ったことのない土地はまだまだたくさんある。それこそ海外に行くくらいなら、その分、日本の地方に行きたいと思い行動してきたのも、上岡さんの影響だ。あれこれと手をだすというよりは、自分の強みをみつけ、他人がつまらないと思うようなことであっても、一つのことを深く深く掘り下げていく上岡さんが大好きだった。そして何より、それを表現する力に毎度毎度、惚れ惚れした。僕もそうやって物事の細部について豊かに語れるようなエンターテイナーになりたいと、どれだけ願ってきたかわらかない。
知性とは情報ではなく、それを表現する力だと、若かった僕に教えてくれたのは上岡さんだった。
権威を地べたに引きずり下ろせる「笑い」の世界で、だれよりもその力を信じ、だれよりもその力をテレビから届けんとした芸人さんだった。テレビだけでなくメディアというものの使命を真剣にテレビから問い続けていた。だからこそコンプライアンスという言葉の下で変化していくテレビと、上岡さんの細く鋭い話芸がフィットするはずもなく、上岡さんはテレビから身を引いた。引退や引き際の美学において、上岡さんに敵う人は、原節子さんと、山口百恵さんくらいじゃないか。欲と嫉妬と虚栄心にまみれた日本人男性で言えば、僕は上岡さんほど綺麗に引退をされた人をほかに知らない。
旅の話に戻す。
そう、今回の旅は僕にとってとても大きな旅だった。その初日、ようやく目的地に辿り着いたときに流れてきた上岡さんの訃報はもはや偶然とは思えなかった。それは今回の旅取材が、普段なら引き受けることのないタイプのお仕事だったからだ。にもかかわらず、僕が今回の仕事を受けると決断したのは、上岡さんならどうするか考えたからだ。
2年半ほど前、僕はnoteで、以下のような上岡さんのエピソードを紹介している。
「意思が弱かったらあかんのか!」
学生だった僕は、カッコいいやら、おもしろいやらで、とにかく興奮した。一本筋の通った男というのは、その言葉に対する世間のイメージとは裏腹に、まさに上述の上岡さんのような人のことを言うんじゃないかと僕は思う。人はつねに悩み、揺れ、惑い続ける。だからこそ、どんなときでも自ら逃げ道を開拓できる逞しさを持った人の前には、必ず一本の逃げ筋が通っている。
訃報を知らせる記事のなかで、上岡龍太郎さんの息子さんである小林聖太郎さんの言葉が紹介されていた。
「運と縁に恵まれて勝ち逃げてきた幸せな人生だったと思います」
さすがだ。その通りかもしれない。
前述の禁煙の話もそうだが、上岡さんの美学というのは、変化していくことの肯定にある。
「ゴルフみたいなもんの何が楽しいねん。大の大人が棒振り回して穴に玉入れて」
そんなふうに言っていた上岡さんが芸能生活40年で引退すると発表されたとき「アメリカでプロゴルファーになる」と言っていて、僕はもう好きが爆発して頭がおかしくなりそうなくらい最高だと思った。
こんなふうに生きたいと強く強く思った。
一方で僕は、49年間、一度も海外に出ることなく、日本の地方を回り、それを僕なりにアウトプットし続けてきた。日本という国の多様性は1人の人間が生涯を通してもなお、把握できないほどに豊かで魅力的だ。なのに、海外に行くなんて、そんな暇があるなら新たな日本のローカルを知りたいし、それを届けていく。僕はそう決めた。そしてそれを守り続けてきた僕は、いま、バリ島にいる。
そしていま海外旅行最高だな! って思ってる。
うん?
「意思が弱かったらあかんのか?」
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