ただ受け入れず、ジャッジしようとする人たち。
地域編集を学びあうオンラインコミュニティ『Re:School』。毎週末にウェビナーを開催しているのだけど、先日のウェビナーで盛り上がった話題の一つが、最近、大炎上してしまった伊是名夏子さんのブログのことだった。
このブログ記事に対して、
「ただのクレーマーだ」
「対応してくれたのに感謝の言葉がない」
「他の交通機関を使えばいい。もしくは自家用車で行け」
と言った声が後を絶たず、まあ、燃えに燃えた。
しかし僕はこの炎上に違和感を覚えていた。
伊是名さんのブログの最後に書かれている
「車いすユーザーは確実にこれから増えるし、高齢者やベビーカーユーザーにとっても同じ困りごとがあるので、一人でも多くの人に知ってもらい、誰でも安心して使える公共交通機関になってほしいです。」
という一文が、このブログを書いた理由を示しているのは一目瞭然だ。車いすユーザーにとって、またその家族にとって、この問題がいかに切実なのかは当事者でないとわからない。
未来を変化させるためには声を上げていかなきゃと、覚悟をもって声を上げている人に対して、
「なぜ、その行為の正悪をあなたが判断しようとするのか?」
と、叩いている人たちに対して言いたくなる。
今回の伊是名さんの訴えに対して、それが正しいか間違っているかをジャッジするのではなく、「そうなんですね」「そう感じるんですね」「辛かったですね」と、まずはただ受け入れるということが、どうしてこんなにも難しくなってしまったんだろうか?
勘違いしないでほしいのは、これは決して伊是名さんの意見に共感すべきだと言っているのではない。共感できようが出来まいが、その人の立場になって考えてみることが大切だと僕は思っている。もし、できる限りの想像力をもって伊是名さんのアクションを思えば、僕たちは伊是名さんのことを、あんな風に叩きまくることができるだろうか。
伊是名さんを叩く人の意見のなかに「障害者なんだから特別扱いされて当然という考え方はおかしい」という声が多くあった。しかしよく考えてみてほしい。これは逆じゃないだろうか。それこそ「健常者なんだから特別扱いされて当然」になっているからこそ、伊是名さんは発信したんじゃないか。組織や環境が変化すれば誰もがみなマイノリティになる。少数者に優しくない世の中は、誰にとっても生きづらい世の中だ。
こんな風に炎上社会を生み出しているその根源に、僕はいよいよ、正悪をジャッジしようとする欲望を止められない人たちの存在を感じる。「これは正しい」「これは問題あり」そうやってジャッジしあうことで自らのアイデンティティを確保しなければ安心できない人たちが増えている。
伊是名さんのブログを見て、僕がとれる態度の精一杯は「そうか、大変なんだなあ」だった。そしてもしそんな風に困っている人がいたら一緒に車いすを抱えたいと思ったし、そのことで別に「ありがとう」もいらないし、感謝して欲しいとかじゃなく、そういうことが当たり前になればいいと思った。それは、ユニバーサルな設備の充実や法整備以前のことで、本来もっとも大切なことじゃないかと僕は思う。
今回のウェビナー中に、愛媛県に住むF君がこんなコメントをくれた。
小学生の頃、しんどいことや辛いことがあって学校の先生や大人に言うと最初に言われるのは世の中にはもっと貧しい人や辛い人がいるといった話になって丸め込まれることが多かったように思います。なかなかしんどいと言いづらいのはそういった経験があるからなのかなあと思いました。
まさにそうだなあと思った。
「つらい」
たった一言、そういえたらどんなに楽になるか。しかしいまの社会では多くの場合「つらい」という吐露に、「世の中にはもっとつらい人がいる」「私だってつらい」「俺の若い頃はもっとつらかった」と返され、振り絞ったつらさの吐露をただ受け入れたり、肯定したりしてもらえない。
本当はそこで、ただ受け入れたり、ただ頷いたりするだけでいい。すぐにそれを否定してしまうことなく、ただ受け入れることで、どれだけ救われる人がいることだろう。そうやってただ頷いてもらえない世の中が、つらさの吐露を抑え込み、その溜め込まれたつらさの大きさをも競い合うような社会を生み出している。
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