すぐに「アンチ」で片付ける人たち
何事にも、いい部分とわるい部分の両方があることを認識しようとしない人がいる。この人は正義の味方。この人は悪人。と、綺麗に仕分けられるものじゃない。って、きっとみんなジャイアンで学んだよね。
もっとも豊かなこの「間-あわい-」を無いものとする人が増えたのは「効率」なんて言葉のせいかなと思う。効率の良さを測るのは数値だ。その間にある無限を傍に置いておいて、ひとまず0か1に振り分けてから考えましょう。という癖がついてしまっているのかもしれない。
それゆえかな? と思うのが、最近特によく目にする「アンチ」という言葉だ。
昔はよく「アンチ巨人(読売ジャイアンツ)」なんておじさんがいて、確かに子供ながら「なんだそれ?」とは思っていた。タイガースへの愛をモーレツに伝えんとする、熱々のたこ焼きみたいな人たちのもとで育った僕は、鼻にかけた特別感に浸して焼いたフレンチトーストのような「アンチ巨人」の甘い匂いが子供心に鼻についた。しかし今ならそれが、体制への抵抗の一つのかたちだったのだとわかる。
だから決して僕は、アンチ「アンチ」なわけじゃない。
僕がここで違和感を伝えたいのは、自分とは異なる耳障りのわるい意見を聞いたときにすぐ「アンチ」で片付ける人のことだ。そういう人はまさに、鼻につく甘い玉子臭をもってアンチを小馬鹿にするけれど、そういう人たちが「アンチ」で括って一蹴する意見は、本当に聞く耳を持つ必要のないものなんだろうか?
例えば、菅さんのこういうところがダメだと指摘するだけで、アンチ自民党がまた騒いでいる。みたいに言う人をよく見かけないだろうか?
僕自身、官房長官時代から菅さんの記者に対するあの高慢な態度がゆるせなかったし、総理なんていち早くやめるべきだと思い続けてきたけれど、そんな菅総理が、仮にマンションの管理人さんとかだったら、それなりに人の良さそうな感じで毎朝植木に水やりながら「いってらっしゃい」って笑顔で挨拶してくれるような気もしている。
つまりは、それぞれの境遇や立場で変わっていく性質ってものがこの世界には当たり前にあって、僕は菅総理の全人格を否定しているわけではないし、ましてや頑張ってるなんていう本人の感覚でしかないものを、モノサシにするつもりもない。そうじゃなくて、現実の政策や、心持ちが露呈する態度に対して異を唱えたいと思っているだけだ。それを、アンチ菅とか、アンチ自民党とか、素材の味わいを活かして作った料理にとんかつソースぶっかけるようなことはしないで欲しいと思う。
けれど、そうやってすぐにアンチに仕分けて掃いて捨てようとしちゃう人がいる一方で、そうしちゃっても仕方ないよなと思うこともある。それが、ハッシュタグの言葉キツい問題だ。
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