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集真藍か紫陽花か(その2)

先に引用の

むらさきに染まる雲あり
「紫陽花」は
こんな空から生まれた漢字       俵万智

この歌は、「あぢさゐ」という日本原産の花に、しかも
古代社会から海岸(伊豆半島、房総半島に多く)や野山につつましやかに咲く花に、
なぜ日本の国土自然から考えられた最高位の色であった
紫をつけたのか
という現代歌人ならではの疑問となっている

疑問1;よく言われる平安10世紀の言語学者(辞書編纂者)の
源順が、
白楽天の漢詩から紫陽花の字を間違って当てたという説。
→日本原産の、香りもないひっそりと咲く
ガクアジサイに対し、白楽天が紫色の太陽の陽に輝く、香り高い花
とうたった花は明らかに誤用というしかない。
晩年の能登地方に左遷された源順は、若き日に先進文化であった中国、漢詩からしゃれたつもりで使用した白楽天の漢詩「紫陽花」から転用したこと
(それが当時の知識人のやり方、輸入文化のもろ転用、
今もあるのじゃないか?)に、

そこに誤りはなかったかを反省する時間、気づきはなかったのであろうか?
悲しいことよ

疑問2;古代社会から日本民族は色の使い方にうるさい民族、それは
国土自然から生まれた独特の色彩文化。
そういう社会では、貴族の最高位に使ってきた「紫」と
格下のものに対する色であった「藍」(縹はなだ色)はどう考えても
取り違えるはずはない。
色のランクでは天皇に使用する絶対禁色は別格にして、
紫と藍の間には歴然とした格差があり、間に緋色を位置図けてきた
社会の在り方を見てもうなずける。
集真藍と表示された大和国の花は、紫であってはいけない所以である。

疑問3;よく言われる万葉集にあるわずか2首のあじさいの歌。
大伴家持の恋歌と橘諸兄の祝い唄。
紫陽花を含め花を扱う方の多くが言われる、
「古代奈良時代にはまだ西洋紫陽花は入ってこず
橘諸兄が歌う紫陽花の歌にある八重咲【手毬咲】はあり得ない話ですという。
日本の古来種であるガクアジサイ、ヤマアジサイをよく見れば
たしかに八重咲と表現するのには無理がある。
ここは橘諸兄の歴史における位の高さを考えることだろう。
聖武天皇を支える最高位の為政者。
藤原四兄弟がインバウンドによる天然痘で亡き後
大和朝廷を動かしてきた大政治家、左大臣である彼が
丹治比の国人に招待され、主人の長寿を寿ぐ歌をうたったもの。
当時野草の一種であったあぢさゐをそのまま出すわけには
いかんでしょうね、
めいっぱい八重咲の豪華絢爛的表現を使わざるをえなかったはず。

あぢさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを いませ我が背子
見つつ思はむ    橘諸兄
ここには遣唐使で暮らした古代中国で牡丹の花をめでたような
大いにめでたい気持ちで歌ったのではないかな。
参考として
万葉集のあじさい歌は2首、
代表的な花歌は以下
萩141、梅118,松79,橘68
日本人が大好きな桜は当時50首とまだ2流扱い。
あじさいは野草扱い たとえば 菫4首 カタクリ1首と同じ扱い。
平安の源氏物語や枕草子でもほとんどないか見当たらない。
鎌倉武家社会以降は色の変節は嫌われる。
前回触れたように
芭蕉俳句は浅黄色(武士の死装束の色)の野草というくらい
にあぢさゐの位は低い。
やはりここは、牧野富太郎博士がいくらお怒りになろうと
ドイツ人植物学者(オランダ人になりすまし、果ては大和の国で現地妻お滝さんをものにした)シーボルト達プラントハンターの活躍を待つしかない。
日本のあじさい400種といっても世界には3000種の品種改良後の
あじさい紫陽花があるのだから、ハイドレインジャの力にはかなわない。

牧野博士はあぢさゐと紫陽花は違うものだと主張される。
さて、わが大和は今「紫陽花祭り」とやらで
日本全国の紫陽花公園が、お寺さんが紫陽花で潤っている、
観光客にはインバウンドの外国人、シーボルトたちの子孫も交じっているだろう。
花業者さんによれば、紫陽花(手毬咲のハイドレインジャの種類)の
いいところは扱いが容易な点だそうだ、
経済的な理由だそうだ。

花好きを自任する我らシニアが文句を言うところではなさそうだ。
ひたすら
ああ あぢさゐ、
紫陽花、
集真藍と呼んで大いに楽しんで鑑賞しましょうよ。
 


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