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#わたしの勉強法

はじめに

私は決して勉強が出来る子でも無かったですし、
受験勉強を成功させて、進学した訳でもありません。
合格=成功、とは結びつかない勉強方法しか出来てなかったと思います。
でも、失敗だったかと言うと、そうとも言い切れなくて。
それは、勉強が完了していないからだと思います。
なので、経験談として記させて頂きます。
文章力が無くて、分かりにくかったら、申し訳ないです。

受動と能動のバランス

今でも興味がある「英語」や、
仕事で必要な知識、資格取得の為の勉強をしていて、
なぜ、習得にここまで差が出るのだろうと思っているところです。

興味がある方の「英語」は、進まない。
必要に駆られて励んだ「仕事上の知識」は、進む。
はて?これは、興味や意欲だけでは片づけられない何かがあるな。
必要性?強制?はてはて。。。逆じゃない??

確かに仕事上の方は、必要性も、ちょっとした強制もありました。
それだけで、習得がここまで進むかな?反発の方が大きくなりそうだけど。
そんな風に思っていた時、学校から帰宅した息子との会話で気付きました。
息子の話は、授業の愚痴でしたが、その息子に私が話したのは、

「対面で話をしてくれて、自分では読み取りきれなかった教科書の内容を説明してくれる環境は今だけだから、合わない先生からも貰える知識は貰って来た方がいいよ。」でした。

そうなんです、「英語」との対話は書籍です。
「仕事上の知識」であるオンライン研修の対話は、トレーナーとです。
専門知識を持ってる人からの説明は、受動的学び。
書籍を読み解き、興味を深めていくのは、能動的学び。
そこに違いがあると気付きました。

能動的学び、能動的な働き、それはとても意欲的で、
沢山を吸収し、それを発信してどんどん学びが深くなると思いますが、
それだけでは、どうしても偏りが出てきます。

例えを出すと、私の「独学」についてです。
小さい頃から、絵を描くのが好きで、
好きな描き手の絵を真似て、沢山模写して、
少しづつオリジナルを出せるようになりました。
それは、特技と言える所まで達成出来たと思ってました。
誇らしく、自分の作品をファイルし、SNSでも発信していますが、
やっぱりある程度のタイミングで気付いてしまうんです。

『得意な構図しか描けていない。
技術は上がっていってるかもしれないけれど、
 不得意を克服は出来ていない。
出来ていないというより、気付いていなかった。』

急に、今までの取り組みを悔やみました。

絵を描くのが好きなのに、私は美術の授業は大嫌いでした。
それは、「課題」をこなすのが嫌だったからです。
与えられた「課題」では無く、
好きなタイミングで、好きな構図で、好きなモノを描きたい!
能動的な学びしかしなかった、私の反省点です。
自分から、先生からの発信される受動的な学びを排除していたのです。

では、「受動>能動」かと言うと、それも違うような気がします。
大切なのは、受動と能動のバランスです。
「独学ではダメ」と言う話でもありません。
現に、独学で外国語習得を成功させた方も多いですし、
芸術面でも魅力的な作品を生み出せている方もいらっしゃいます。
きっとその方々は、「独学」の中で、
何かしらの受動的学びを得ていたのだと思います。
それは、誰かから教わる以外にも方法があったのでしょう。
それを見いだせなかった事、目の前に与えてくれる環境が広がっていたのに、それを排除した私との大きな差です。

学生時代、授業は当たり前に与えられていました。
選択科目など、選べる範囲もありますが、
相性の善し悪しがありながらも、
自分とは違う視点と知識を持った先生がそこにはいました。

必要なのは、違う視点。
さらに言うと、一度ある種のゴールを経た人物からの学び。
そんな受動的学びを、どれだけ素直に受け入れ、
どれだけそれを、能動的学びに繋げられたか。
そこに、差が出ていたように思います。

大人になってからよく思うのは、
知らなくて困ったり、恥をかいたりした時、
学生時代はなんて恵まれていたのだろう、と言う事です。
その学びを得る為に、試験を突破したのに、
与えられる環境の中では、不満ばかり募らせていたな、と後悔しています。

ここで今更、学生時代の勉強スタイル

とにかく、書く!でした。
板書、宿題、予習、復習、とにかく書く動作を繰り返しました。

時には書きながら声に出して。
時には好きな飲み物を飲みながら。
時には流行の曲を聴きながら。

人間に備わっている、五感を複数使いする事で、
思い出すポイントを増やしておきました。

恋とかもそうじゃないですか?
この音楽を聴くと、この飲み物を飲むと、
この時間になると、この手触り、この道を歩くと。。。
無意識に引き戻される日々は、五感がフル稼働ですよね。

当時は、そこまでは考えていませんでしたが、
人間を10年もやっていれば、本能的に何が効果的か分かってきます。

親に導かれた日々は受動的で、
でも、それを努力し、実行したのは能動的に進んだ自分です。
あっ、勉強の話でしたね、恋だの親だの。。。

いやいや、これ、いい線いってませんか?
でも、論理的に説明出来ない自分が情けないのですが。

時にはニュートラルに

学校や塾、研修。
憂鬱な時間と感じる日も、充実した時間と感じる日もあると思います。
それは、グラデーションにはなりにくいものです。
突発的に、憂鬱さんがやって来て、パチンとスイッチを切り替えて、
奇跡的に、達成感くんが心をかっさらっていきます。
その境がとても大事な気がするのに、
気付いたら着地してたりするんですよね。

だから、勉強の合間に、心をニュートラルに入れて、
前にも後ろにも進める、その場にとどまる事も選べる、
そんな時間を持てたらいいのかもしれないです。

大丈夫です。
ニュートラルでもエンジンはかかったまま。
いつでも動き出せます。
常に、何かを得ようとしています。
口調が苦手で内容が全く頭に入ってこない先生の授業も、
すとんと入り込んでくるかもしれません。
友達からの、誘惑的なクラクションにも、
柔軟に対応して、戻るべき学びに戻れるかもしれませんね。

最後に

私の場合としてお話すると、
「心構え」と「素直さ」、「不得意を認める」。
それらが欠けていたように思います。
それのどれかだけでも、持てていたら、
今、悔やむ事も無かったかもしれません。

大人になってからの勉強は、楽しいです。
それは、自分で選べる自由から来るものだけではなくて、
少し位、制約がある方が意欲的に楽しめるんです。
その制約が、仕事なのか、時間なのか、経済力なのか。

学生時代の中にいる人にとっては、
それは授業課題も入ってくるでしょう。

自由すぎるのは、意外と、窮屈です。
限られた自由の中でこそ発揮できる学ぶ姿勢と言うものがあると、
私は思うので、是非、嘆かず、
自分なりの受動と能動のバランスを見つけて欲しいな、と思います。

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