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私的「2024年ボカロ10選」+α 【1.5万字】

はじめに

私がボカロをある程度幅広く、かつ継続的に聴くようになったのは2022年のことだ。Twitterなどを眺めていると思うのだが、概ね20歳前後という私と同世代でボカロをよく聴いている、あるいはかつて聴いていた人の多くは、2010年代前半もしくは後半、つまりは小中学生の頃からボカロにかなり親しんでいたようで、その点で私は彼らと話が合わないと感じることが少なからずある。

ともあれ、この年代になってからボーカロイド文化に邂逅できたからこそ、それに応じた向き合い方ができているという側面もある。とりわけ、2024年は『ボーカロイド文化の現在地2』という同人誌に「無色透名祭とは何だったのか」というテーマで記事を寄稿させていただき、それを通して普段は得がたい繫がりやコメントをいただくことができた。カゲプロなどに詳しくなくとも、ボカロというコンテンツは私にとって十二分に魅力的で、数万字の文章を衝動的に書けてしまうほどの熱量をもたらしてくれるものなのだ。

まあ自分語りはさておき、早速本題に入ろう。2024年は数百曲のボカロ曲を聴いたが、その中でも特に印象深かった10曲を取り上げ、それらと絡めながら私の好きなボカロPや音楽について語っていきたい。

なお、初めに注意深く述べておくが、本稿における10選は「特に好きな楽曲」ではなく、「特に印象深かった楽曲」についてであって、必ずしも諸手を挙げて礼賛したいという曲ばかりではない。その詳細は実際の楽曲にて語ることとして、まずは、その10選を概ねYouTubeにて投稿された順で以下に示しておこう。

  • 『デュレエ』/椎乃味醂

  • 『ピリオド』/椎乃味醂 with たなか

  • 『From ∄ Glimmer ∄ to ∄ Radiance ∄』/∄∄∄∄∄

  • 『象徴』/dama

  • 『echo』/higma

  • 『かなしばりに遭ったら』/あばらや

  • 『完成』/巡巡

  • 『オブソミート』/サツキ

  • 『僕なんかいなくても』/ピノキオピー

  • 『モニタリング』/DECO*27

記事を書くにあたり、これらの楽曲に1〜10位と順位をつけることも考えたのだが、なかなか甲乙つけがたいものが多く、概ね時系列順での紹介とすることにした。一部前後しているものは、文章のスムーズな展開を考慮したものであることをご容赦いただきたい。
そして、記事の目次を以下に示しておく。気になった楽曲があればこちらから各項目に飛んでいただけると幸いである。


『デュレエ』/椎乃味醂

まずはじめに触れたいのは、私が最も敬愛するボカロPの一人である椎乃味醂さんによる『デュレエ』という楽曲で、本楽曲は初音ミク公式のチャンネルでの投稿のため書き下ろされたものである。
椎乃味醂さんの楽曲の歌詞は、社会に対する自らの思想や考えを時に人文学を直接的に援用しながら述べるというものが多く、そこから彼のボーカロイド文化に対する思いを窺い知ることは一見して難しく思われるかもしれない。
しかし本楽曲においては、初音ミクをはじめとするボーカロイド文化に対する彼の並々ならぬ熱い思いが生き生きと表現されている。YouTubeの概要欄でのコメントを含め、彼の言葉を是非とも一度ご覧になっていただきたいものだ。

初音ミクは実在せず、彼女はどうしようもなく「歌わされている」存在だ。どれだけ取り繕ったとしても、その事実を捻じ曲げることはできない。それゆえに生じる種々の性質ゆえか、ボーカロイドという存在は誕生から現在に至るまで、奇異を含め様々なまなざしに晒されてきた。
しかし、それと同時に、リスナーやクリエイター達にとって、確かに此処に現出してくる熱もあったのだ。そうした息遣いが、彼が創設したスタジオであるStudioGnuによるMVとともに、一つの光へと結実してゆく。
こうした確かな意志がそこここに迸る本楽曲は、ボーカロイド文化を今一度振り返り、未来へ繋げていく言祝ぎにあたってこれ以上なく相応しいという他ないだろう。

煌々と0から1へ重なる、
確かなモノがあった。
ぼくらの生活や思想、様相、
すべてが絶えず変わってきた。
こういうノンフィクションを、
紡いでくことがぼくらの人生だった。
そんな過去や今に、
未来を創り出そうとしていた、
今日だ。

『デュレエ』/椎乃味醂

『ピリオド』/椎乃味醂 with たなか

続いても、椎乃味醂さんが制作に携わった楽曲を取り上げたい。先ほどの『デュレエ』ではボーカロイド文化に対する言明が前面に押し出されていたが、本楽曲はそうした側面は薄く、彼自身の社会に対する思想が歌詞の中心となっている。
また、本楽曲はボカコレ2024冬にて発表されたもので、かつては「ぼくのりりっくのぼうよみ」として活動していたたなかさんとの共作である。
その歌詞では、現代社会における彼らの生き様及び、その格率が詳細に語られていると言えるだろう。

そこに在ったの誰だっけ、
とうに何も覚えてないんだって、
YouじゃなくてItで刻むから、
もうここは別が埋まってんだって、
そうやって、体系に書き足されていく。
テンプレートになっていく。
身体の余白が汚され、
記号になって朽ちていく。

『ピリオド』/椎乃味醂 with たなか

「You」すなわち尊厳ある個人ではなく、「It」すなわち様々な能力あるいは属性といった構成要素の集合体として切り刻まれ、人間さえも交換可能な部品として扱われてしまう現代社会では、社会という巨大なシステムからの評価こそが他に比べて卓越し、私秘的な領域は無視され“いま、ここ”に居る“私”は疎外されていってしまう。そうやって後景化され、陳腐化した象徴として私たちは、「記号になって朽ちていく」。序盤の歌詞は、概ねこうした解釈で読み解けるだろう。

毎晩、昨日明日を遮って、
持続する自己を区切って、
覚まされた身体を一つ一つと、
照合していく今日だ。
少しだけ合わない型が、
読点を打つ感覚が、
ぼくがぼくであることの、
何よりの証明に思えたんだ。

『ピリオド』/椎乃味醂 with たなか

しかし、そんな状況下で一つの気付きに彼らは至る。毎晩の睡眠により、日中は持続的な私たちの生は、不連続的に区切られることとなり、目覚める度に社会化された「型」との照合を強いられることになる。その中で感じられるいくばくかの不一致こそが、紛れもない“私”の実在を実感させていると述べられるのである。

配られているカード
死神は崩しやしない、ポーカーフェイス
欺いて笑うため生きる
望んで生まれたわけじゃない
ルールすらわからない。
ただ、もう全部始まってるから、

『ピリオド』/椎乃味醂 with たなか

必要なのは正しい畏れ
嵐に揉まれ変化する価値観
だけが伴奏者
ピリオド打つための断頭台
墓碑に刻まれる言葉 おれには見えない

『ピリオド』/椎乃味醂 with たなか

また、そうした生は唐突に、意図せず始まってしまったものだ。そして、いつか必ず死として終わりが来るものでもある。合成音声「彼方」によって歌われており、後述するようにたなかさんが作詞を担当したと思われるパートの「死神」や「断頭台」という言葉の解釈に私はしばらく悩んだが、ひとまず素直に「死をもたらすもの」と解釈しておくのが妥当だろう。
つまりは、生を区切る睡眠を「読点」と形容するならば、その対となる句点、すなわち表題である「ピリオド」とは、「断頭台」に打たれる点として、まさに生の「終幕」としての“死”として浮かび上がってくるに違いないであろう。

終幕へと走れ!
ぼくだけの光が見たい、それだけ。
限りない夜の先へ、
月が笑ってんぞ、

終幕を見つめて!
その間に息づく命を、掬って。
此処に居る、理由のため、
朝日でも探しに行こう。

『ピリオド』/椎乃味醂 with たなか

かくして、彼らはある一つの格率へと辿り着く。
句点(period≒終幕≒死)を意識しつつも、読点(=comma≒眠り≒仮初の死)を契機として、不連続に変化する“私”を見つめ、交換不可能な在り方を模索する。このような考えは、ハイデガーの「投企」や「死への存在」と大いに通ずる部分のある思想のように思われるものだ。

また、一番と二番のサビで、歌詞が「此処に在る理由」から「此処に居る理由」へと変化しており、さらに前者では「理由」を「意味」と読ませていることにも触れておきたい。この歌詞は、物質的かつ社会的な要請によって「意味」付けられた、無機質に「在る」だけの交換可能な存在から、実存を重んじる人間として「居る」ことを目指し、主体的に生きる「理由」を選び取っていく状態へと移行していくことを意味すると解釈できるのではないだろうか。

さらに、『ピリオド』以前の楽曲と比較してみると、本楽曲は『OSINT』などにおいて生じていたジレンマを乗り越える萌芽が生じているように思われる。
というのも、椎乃味醂さんは2022ボカコレ秋において発表された『知っちゃった』を最後に、それ以降は歌詞での明示的な人文学の援用は避けているように思われるのだが、自身の言葉で語ろうとしているために、歌詞の文字数の制約上極度に非自明な主張を導くのは困難で、その結果まともだが辺り障りのない主張のように思えてしまうというジレンマが生じていたように思われるのである。

例えば、2023ボカコレ夏にて発表された『OSINT』は、計3バースのボカラップで自らの思想の変遷を振り返るというアイデアとしては非常に面白い楽曲だったが、その結果として導かれる主張自体は至極まともで、反面ニコニコ動画にて「薄っぺらい」というコメントがされているのも見かけたものだ。

それに対して、目覚めという極めて主観的な体験における感覚を根拠に、“私”の社会との向き合い方を模索するという『ピリオド』の歌詞は、それまでとはやや方向性が異なるものだ。
もちろん、相変わらずある種の客観を目指す人文学を背景にはしているが、そこに彼個人の主観的な体験やそこから生じた考えを組み合わせることで、独創性のさらなる高まりが感じられるようになっている。

また、以前ツイキャスあるいはニコ生で椎乃味醂さんが話されていたことであるため具体的なソースは示せないが、『ピリオド』の作詞は初音ミクパートを椎乃味醂さん、彼方パートをたなかさんという形で概ね分担したそうだ。このような共作という試みの中で、椎乃味醂さんとたなかさんの対話が新たな視点を生み出している側面が少なからずあるだろう。
2025年の彼は、果たしてどんな楽曲を発表することになるのだろうか。今から本当に楽しみでならない。

それと同時に、本稿では詳述しないが、私は椎乃味醂さんの思想についていくらか疑問を投げかけたい部分もあり、2025年以降の楽曲や文章などで、こうしたテーマにおける椎乃味醂さんの考えを是非とも窺い知ることができないだろうかと思っている。そして、私自身も思慮を深めたい限りだ。

来る2月に開催されるボカコレ2025冬にて、彼はきっと新曲を公開することになるだろう。それまでに、私は本稿における『ピリオド』の読解をより詳細なものへとアップデートし、かつ、そこから過去の楽曲へと遡って椎乃味醂さんの思想の変遷を描き出そうと試みる記事を公開する予定であり、現在鋭意執筆中である。椎乃味醂さんに関心を持たれている方は、是非とも楽しみにしていだけると幸いである。
そう述べたところで、この記事では椎乃味醂さんについてはひとまず筆を措くこととしたい。

なお、椎乃味醂さんの歌詞の解釈については、以下のきぃさんによる『椎乃味醂を信じた――』というプレイリストや、なもみさんによる『覚書・椎乃味醂における哲学のサブテキスト』などが詳しい。興味がある方は、是非とも一度お読みいただきたいものである。

『From ∄ Glimmer ∄ to ∄ Radiance ∄』/∄∄∄∄∄

この楽曲の凄まじさは、正直なところ私が語るよりも、まず一度視聴していただいた方がよほど手っ取り早く理解できるだろう。サムネイルにもある3Dモデルによる美少女キャラクターが歌唱し、目眩く映像とともに楽曲は展開していく。また、サウンドもDTMならではで実現されるような複雑怪奇を極めるものであり、それらが渾然一体となって常に視覚ならびに聴覚を支配してくる。

また、楽曲の長さは7分以上とボカロ曲の中ではかなり珍しい長さを誇る。ボカロ曲に限らない話だが、大多数の2、3分の音楽は楽曲が終幕を迎えると、ある程度容易に現実へと回帰することができると私は思っている。
しかし、私は初めて本楽曲を視聴したとき、始めの3分間ほどでゆっくりと、しかし確実にと楽曲の世界へと惹き込まれていった。そして、4分30秒を手前にようやく始まるサビのカタルシスに圧倒され、楽曲終了後はしばし呆然としてしまったのである。
私は今もなお、この楽曲の歌詞を詳細には読解できていないが、それでもなお視聴する度に絶え間ない感動が、あるいは崇高な何かに対する畏敬のような感情が押し寄せてくる。

本楽曲は、まさに歌詞とサウンド、MVの総合芸術としての2024年の「ボカロ」を代表するべき作品であると、私は確信している。

『象徴』/dama

重音テトSVの発売が発表され、サンプルとして『S.A.S』が公開されて以来、どこかamazarashiの秋田ひろむさんを感じさせるような、その人間らしい息遣いや奥行きのある声に私は強く惹きつけられていた。また、同時にそれは赤裸々に心情を吐露するような情感豊かなポエトリーリーディングやラップとの親和性が大いにあるのではないかと期待していたのである。
しかし、昨今の流行の傾向ゆえか、発売後に投稿され話題になる重音テトSVの楽曲は『S.A.S』とはかなり趣向が異なるもので、なかなか自分の心根に深く響くような楽曲を見つけることはなかなか叶わなかったのだ。

そんな中現れたのが、damaさんによる『象徴』という楽曲だ。オルタナティブロックとポエトリーリーディングという組み合わせは私の好みにまさに当てはまるものであり、しかもボーカルは私が待ち望んでいた重音テトSVである。調声も非常に上手く、重音テトその人が今まさにラップを紡いでいるかのような繊細なためや抑揚の変化が表現されており、脱帽という他ない。

そして何より、歌詞が本当に沁み入るものだ。

韻も踏まないただの書き殴り
SNSじゃ馬鹿なガキのフリ
何になりたいのか?ってbe free?

うーん……

強いて言うならそうだな、
まぁ、あれだな、
「象徴」ってやつになりたい!

……すんごい恥ずかしいから、
この字幕だけに留めておくよ。

『象徴』/dama

楽曲の表題でもある「象徴」とは、まさに作詞者であるdamaさんがなりたいと願う存在のことなのだろう。
あまりに大きな夢を恥じらいながらも何とか言葉にするというその行為に、私は最大限の敬意と称賛を以て向き合いたいと思う。

『echo』/higma

ちょうど年の瀬、まさにこの記事を書こうと改めて好きな楽曲を整理していた頃のことだった。以前、TwitterのFFの方がこの楽曲をおすすめされており、それを見て「後で見る」再生リストに入れておいたことを思い出したのだ。サムネイルに惹きつけられつつも、ついぞ見るのを忘れてしまっていたのだが、今こそ見ておかねばという衝動に駆られたのである。

いざ再生してみると、そこに広がっていたのはこの上なくダイレクトに熱が伝わってくる音楽と歌詞、映像だった。
ボーカロイドや楽器とともに楽曲『echo』そのものを制作する様子が映し出され、それらが着実に熱を帯びた一つの音楽として結実していく。
また、4分13秒前後からは、個人的には中期のアメリカ民謡研究会を思い起こすような激しいサウンドが、灯りが明滅する部屋の中で衝動を象徴するかのようにしばし鳴り響く。
それが終わると、楽器のサウンドが控え目になる中暗くなった部屋で、ディスプレイの初音ミクがしばし独唱する。

そして次の瞬間、明転した部屋で、higmaさんと思われる方が初音ミクとともにギターをかき鳴らしながら歌い出すのだ。

祈るように繋いだ言葉が
今日もまた胸の隙間で光ってる
あと少しで見つけられるかな?
今でも始まりの音を探していた

『echo』/higma

この場面を含め、higmaさんの顔は終始ディスプレイの後ろに隠れ見ることはできないのだが、特にこの場面ではhigmaさんの体が揺れるのにちょうど合わせてディスプレイの初音ミクも体を揺らしており、あたかも彼が、無数のクリエイターの熱の象徴としての「初音ミク」と一体となったような印象を受ける。
そしてついに、楽曲はこのMVがまさにYouTubeにアップロードされようとする瞬間をもって終幕を迎えるのだ。

私はこのMVを視聴するまでhigmaさんの楽曲を実際に聴いてみたことはなかったのだが、それを大いに惜しいと感じるような楽曲であったと言う他ない。2025年はhigmaさんの楽曲を含め、より広範にボカロ曲を聴いていきたいと思うだけの熱量が確かに感じられる音楽であった。

『かなしばりに遭ったら』/あばらや

私が本楽曲の制作者であるあばらやさんを初めて知ったのは、2024ボカコレ冬にて『死生観にさよなら』という同氏の楽曲を視聴したときだった。
もっとも、初見の時点では『死生観にさよなら』は私の中で決して鮮烈な印象を残してはいなかったと記憶しているのだが、ボカコレ開催期間が終了してからしばらく経ち、「生きていたい」ではなく「生きていたくありたい」と叫ぶ示唆的な歌詞や、エッジの立った調声を含め程よいノイズ感が散りばめられたサウンドを度々思い出すようになり、以後数ヶ月、毎日のように聴き直すほどになっていた。

それからしばらくして、同氏は7月に『デカルコマニー』というボカロ曲を発表し、またもや私はその虜となった。これ以後、私は自分が明確に好きなボカロPとして、同氏を認識するようになった。

そして9月に発表されたのが、今年の10選の1つとして私が取り上げたい『かなしばりに遭ったら』である。

本楽曲のサウンドについて述べると、『死生観にさよなら』でもあったような耳に馴染む適度なノイズ感のある調声は勿論のこと、2番サビの直前に挿入されるDropが低音の強調するイヤホンで聴いていると非常に高揚感を与えてくれる。

また、私が最も注目したいのがその楽曲が言わんとしている内容についてなのだが、おそらく本楽曲の歌詞には多分に隠喩が含まれており、現在に至るまで私はその読解に一定以上の自信をもつことはできていない。
しかし、数少ないながらも述べられることがあるとすれば、表題にある「金縛り」という現象は、夢という彼岸と完全な覚醒状態あるいは現実という此岸の二項対立に対し、そのどちらでもない、アンビバレントな状態として現出するものであるということについてである。
そして、そこでは意識が覚醒していながら、同時に夢から覚めきってもいないため、普段寝起きする見知った部屋の空間を舞台に、身体の身動きが取れず、さらには時として心霊現象のような不可解な幻覚を、主観的には現実感のあるものとして知覚することとなるだろう。

そして、本楽曲のMVにおいては、こうした金縛りにおける体験を、超現実的な映像を以て描き出そうとする試みがなされているように思われる。
例えば、文字を象ったり道路標識を模したりしたオブジェクトが薄暗い部屋の中で運動や生成消滅を目まぐるしく繰り返し、万華鏡を覗いたときのような幾何学模様様は、まさに現実の部屋の空間の中で展開される、夢と覚醒の狭間で現出するアンビバレントな体験を表象していると言えるのではないだろうか。また、万華鏡を覗いたときのような幾何学模様が移り変わっていく様も、視界を釘付けにするような没入という幻覚を思わせるような視聴体験が音楽とともにもたらされ、記憶に染み付いてなかなか離れることがない。

さらに、その歌詞においてもやはり、金縛りというアンビバレントな状態における気づきが描写されていると言えるのではないだろうか。

ただ知ったんだ有限な物が
一瞬の有限な物が 視界の有限さこそが
唯一の解放であると
飛んでいた海燕の群れが 鳴いていた開環の律が
遠方で干渉しあうよ 唯一の解放を妨げて

『かなしばりに遭ったら』/あばらや

金縛りという特異的で両義的な体験は、視界の「有限」さこそが唯一の「解放」であるというパラドキシカルな直観にあばらやさんを至らしめたのだろう。
そして、この「解放」を妨げ拮抗する存在として「飛んでいた海燕の群れ」や「鳴いていた開環の律」を挙げているのだが、この箇所の解釈がどうも私には難しい。「解放」としての「有限」に対置されるのであれば、それはおそらく「無限」ということになり、サビ前の「彷徨う1/0」などはそれを指していると考えられるかもしれない。
しかし、このように歌詞の数箇所に対する連想がもたらされても、それらを整合的に纏め上げるような解釈にまだ私は辿り着けていない。

ただ、この楽曲が何かを盛んに伝えようとしていることもまた、確かな実感として直観されるのである。ボカロPのNeruさんはこの楽曲をTwitterで取り上げ、直後のおそらくこの楽曲に対するツイートで「聴く人に何かを伝えようと共鳴に喘いでいる」と評されていた。

また、SLAVE.V-V-Rさんが以前述べられていたように、他者との意思疎通を最小限に抑えたいクリエイターも確かに存在している。
そういった人びとにとってボカロはほぼ個人で創作を完結させられる非常にありがたい存在であって、そうであるからこそ、作者の内的体験や思想がラディカルに突き詰められたこうした作品が生まれてくる側面があるのだろう。

また、作者自身の志向する表現と、視聴者にとっての理解しやすさの確保のせめぎ合いの中で薄氷を踏むように行われた作者の努力の末、そうした作品が独り善がりであると見做されて無視されてしまうのではなく、少ないながらも誰かしらに理解される可能性に常に開かれているという、ボーカロイド文化という場の特徴をも私は喜ばしく思っている。今後もこうした作品が発表され鑑賞される場としてボーカロイド文化があってほしいものだ。

なお、本楽曲はニコニコ動画においては「感性の反乱β」というタグが登録されている。これはニコニコ大百科によれば「感性が暴力的なかたちで発露している音楽作品に付けられる」ものであるらしく、私が愛好してよく聴いているジャンルの一つではあるのだが、こうして「暴力の発露」がジャンルとして整理されてしまい、ある程度広く知れ渡ってしまうことで、その暴力性、逸脱性が秩序のもとに回収されてしまい、さらには作者自身の心根から発せられたものではない模倣さえ生み出しかねないという側面があるかもしれない。

しかし、本楽曲はその歌詞や、あばらやさん自身が3Dモデルを制作されたというMVを概観してみる限り、同氏自身のかなり鮮明な内的体験が反映されているものとみることができるだろう。それは単なる模倣とは程遠く、まさに衝動として湧き上がってくるような感性の発露として捉えられるものだろう。

ところで、11月に新たに発表された同氏の楽曲『アンダーカバー。』は、序盤の歌詞では積極的に韻を踏み、サビに入った途端に打って変わって「僕を愛して」と連呼するという非常に耳に残る面白い楽曲であった。

2025年における楽曲の発表が最も楽しみなボカロPの一人として、あばらやさんの活動を私は今後も追っていきたいと思う。

『完成』/巡巡

この楽曲は、2022年10月の『完成』発表により本格的に活動を開始されたボカロPである巡巡さんが、まさにその『完成』のリメイクとして発表された楽曲だ。

彼は『完成』に続くシリーズものとして『破壊』や『幽世』などを発表してきたが、その完結として言わばセルフオマージュとしての『完成』を置き、その作品群全体を終わることのない輪廻の構造の中に取り込んだと言えるだろう。これは一体何を意味するのだろうか。また、私が本楽曲において最も注目に値すると感じる歌詞は以下のようなものである。

創り上げてきた結末もアイロニー

『完成』/巡巡

しかし、私がこの歌詞に着目する理由や、巡巡さんがセルフオマージュを行ったことの意味をこの記事で詳らかに説明してしまうことは、何らかの問題を生じさせかねないことでもあると感じている。ただ、どうしても今年の10選として取り上げたかった。

もし興味を持たれた方は、『ボーカロイド文化の現在地2』における拙稿「「無色透名祭」とは何だったのか?——「匿名性」のみに還元しきれない、ボーカロイド文化の特異点について——」を注意深くお読みいただけると、決定的な示唆が得られるかもしれない。

『オブソミート』/サツキ

本楽曲は、4月に『メズマライザー』を発表され、当人も予想しえなかったであろう爆発的なヒットを記録されたサツキさんが、それを受けて体験されたことに対する所感が赤裸々に語られていると思われる楽曲だ。

模造品ばっか食べていりゃ、
そら、同じ味に飽きは来よう。
直に此処いらも、お釈迦になるから、
お好きな加減で、食い散らした後、
お手々を合わせて、ご馳走様でした。

『オブソミート』/サツキ

多くの方がご存知のように、『メズマライザー』にはMVを含め考察を促すような要素が多分に含まれているが、爆発的なヒットを記録したこともあってかやがて考察の営みが暴走を見せ、一部の要素を針小棒大に取り上げるような誇大妄想的な憶測が蔓延るようになってしまった。

そうした状況におけるサツキさんの葛藤や、それを経た決心が本楽曲ではかなり直情的に描かれているように思われるのだが、私が一つ気掛かりなのは、楽曲の歌詞の締めが倫理的に善い鑑賞を促すというよりはむしろ、「直に此処いらも、お釈迦になるから、」などと現状に対するある種の諦観を滲ませたものであるかのように感じられた点である。
もっとも、私のこの考えも思い違いに過ぎない可能性があるが、何はともあれ、サツキさんが2025年に発表されるであろう新たな楽曲にも私は注目していきたいと思う。

『僕なんかいなくても』/ピノキオピー

本楽曲は11月にピノキオピーさんにより発表されたもので、久しぶりのバラードと彼らしい人類愛に溢れた歌詞が特徴の楽曲だ。

うるせえ 弱虫でも生きていくんだよ
透明な僕にも何か出来るだろ
世界は憎らしく 我関せず回る
僕なんかいなくても
止まない争いに シューティングスターを 
優しい人には どうか めいっぱいの幸せを
叶わないと分かっていても
この世界が終わっていても
僕なんかいなくても それでも
やらなくちゃ それでも
やらなくちゃ それでも
僕なんかいなくても それでも

『僕なんかいなくても』/ピノキオピー

「僕なんか」いてもいなくても、世界の運行には関係がない。「それでも」、「やらなくちゃ」ならないと決意する選択は、皮肉屋でありながらどうにも人間という存在を諦め切れないという、アンビバレントなピノキオピーさんの在り方がよく表れていると言えるのではないだろうか。
実際、つい先日開催された『2024年を振り返る放送』の1時間11分頃から、彼はこの楽曲について、まさに「かなり個人的なこと」を表現されたと述べられていた。

また、『僕なんかいなくても』と同じく一人称が表題に用いられている楽曲として、私は『ぼくらはみんな意味不明』という楽曲を思い出す。

生きてる意味も 頑張る意味も 
ないないない 無駄かもしれない
千年後 何も残らないけど
それでも君と笑っていたい
ぼくらはみんな意味不明だから
ぼくらはみんな意味不明だから

『ぼくらはみんな意味不明』/ピノキオピー

この楽曲は、生の意味を否定するような皮肉屋らしい歌詞をしているのだが、彼はそこで終始する訳ではなく、「それでも」と再び行動することを称揚する。

それでもぼくらは トンネルで息を止める
折り紙で鶴を折る 肉球を触る
横断歩道の白い部分だけを踏む
それでもぼくらは 間違ったことをする
正しいと思い込む
頭いいから わかっていた
また わかった気になっていたんだ

『ぼくらはみんな意味不明』/ピノキオピー

生の無意味さを自覚した上で、だからこそ  仮象を生み出すことを称揚するような態度は、ニーチェの積極的ニヒリズムに大いに通ずるところがあると私は感じている。

思えば、2023年のインタビューにおいても、彼はまさに積極的ニヒリズムを援用して『神っぽいな』について語っていた。「ニーチェについて詳しいわけではない」という言葉がどこまで謙遜なのかは分からないが、どちらにせよ、彼は言わば在野の思想家としてある種の真理に近い位置にあると言えるのかもしれない。

ピノキオピー:ニーチェが言うところの“積極的ニヒリズム”、生きるために考えられた前向きなニヒリズムという考え方が好きなんですよね。「神っぽいな」という曲名にも結びつきますし、考え方にも繋がる部分があったので、この言葉を入れたところはあります。ただ、自分もニーチェについて詳しいわけではないんですけど(笑)。

『ピノキオピー「皮肉を言ってマウントを取ってやろう!という気持ちはない」 「神っぽいな」から『META』に通じる楽曲の本質』

時折、否定的な文脈でピノキオピーさんについて「皮肉ばかり言っている」という評価を見かけるものだが、彼の真髄は単なる皮肉を超えたところにこそあるということや、そもそもあらゆる皮肉を即座に悪と唾棄してしまうような態度自体がある種の危うさを孕んでいることが、より多くの人びとに知られてほしいと思う今日この頃である。

『モニタリング』/DECO*27

本稿の最後として取り上げるのは、言わずと知れた有名ボカロPであるDECO*27氏による楽曲『モニタリング』である。
初めに述べておくと、私はこの楽曲ならびにDECO*27氏を諸手を挙げて礼賛したいという訳では全くない。
むしろ、「初音ミク」の表象としての彼の創作の末恐ろしさを、今一度畏敬の念をもって実感しているといったところだ。

ねえあたし知ってるよ きみがひとり“XX”してるの知ってるよ
ビクンビクン震えてさ 声もダダ漏れなんだわ
正直に言っちゃえよ バレてるんだし言っちゃえよ 効いてんの?
普通普通 恥ずかしい?みんな隠しているだけ

『モニタリング』/DECO*27

本楽曲は、性的な仄めかしがそこここに散りばめられた彼にとって十八番とも言える歌詞をしており、実際この楽曲が作曲面で大いに引き継いでいる『乙女解剖』にも、そうした示唆がかなり含まれている。

しかし、その傾向を今回過激に引き立てているのが、サムネイルにもある、サビのパートにおいて初音ミクと思われるキャラクターが玄関のドアスコープから部屋を覗き込んでいる様が描写されているMVだ。

『モニタリング』/DECO*27 のサムネイル

この初音ミクの性的な「まなざし」は、ディスプレイを挟んだ彼岸から此岸へと容易く越境し、鑑賞者として一歩引いて画面を見つめていたはずの私を、瞬く間にその次元へと引き摺り込んでくる。
また、初音ミクの周囲を霊魂のように飛び回っている眼球のような有機体も、やはりその「まなざし」を象徴するものとして、身の毛のよだつような不安を掻き立ててくる。

そしてMVの終盤、そのまなざしにいよいよ圧倒されたのか主人公はドアを開くのだが、ここで姿を現したのは、先程までとは打って変わって、狂気的な愛とは程遠く、学友として主人公を気に掛けており、しかしどこか主人公に怯えているかのような初音ミクの姿だった。
ここに至って、それまで初音ミクが主人公に向けていたはずのまなざしは、実のところ、主人公こそが初音ミクに向けていたものであるということが示唆される。
つまり、この楽曲の主人公とは、まさに「初音ミク」を性的な表象として利用し続けてきたDECO*27氏その人を指しているということではないだろうか。私にはそう思えてならないのである。というのも、後述するが同氏は自らの創作のスタンスについて十二分に自覚的であるように思われるのである。

また、そうだとすれば、先述したサビのパートのMVにも、やはり女性を欲望する男性の影がちらついていると見ることができるのではないだろうか。
というのも、『モニタリング』と同様にドアスコープからまなざしが覗き込んでいる描写のあるボカロ曲のMVとして、2023年11月になきそさんにより発表された『絶交』という楽曲があるのだが、『絶交』との比較の中で、『モニタリング』の特異性が浮かび上がってくるように私には思われるのだ。

『絶交』のMVにおいては、まなざしを向けてくる画面中央のキャラクターとは別に、その周囲に眼球のような歪な物体が見られるのだが、『モニタリング』とは異なりその物体は特に動き回っている訳ではない。

『絶交』 キャプチャ画像

だとすれば、『モニタリング』における「まなざし」の運動は、まさに『絶交』と『モニタリング』という一見かなり類似したMVの、その実似て非なる部分が生ぜしめたものなのではないだろうか。
『絶交』における「まなざし」は、ただただキャラクターから主人公に向けられたものであるように私には思われる。
他方で『モニタリング』においては、ドアスコープの枠により「円形」に象られた、女性的なものの表象としての「初音ミク」を周回する「まなざし」の有機体は、実のところ、女性を求める男性の欲望の発露であった。
そうだとすれば、その運動は、その志向性は、まさに男性から女性への性的な欲望を象徴するものとして、円形の生殖細胞に霊魂のような形状の生殖細胞が結び付かんとする、生命発生現象のメタファーとして読み解ける、というのは流石に私の考え過ぎなのだろうか。

このように、DECO*27氏はその恐るべき才覚をもって、「初音ミク」の表象を日々生み出し続けていると言えるだろう。

ところで、QJJJQさんはこうしたDECO*27氏の姿勢をボカロはどうしようもなく「歌わされている」という問題に向き合ったものであると評されている。

ピノキオピーは「ミクが何を歌っても「歌わされている」に過ぎない」という問題について、「匿名M」の中で「まあ全部、言わされてるんですけど。」と自嘲した。あるいはDECO*27は一貫して初音ミクに女性差別的な像を投影してきた作家だが、ミクを「マネキンが着飾ったに過ぎない存在」に見立てることで、嘘っぱちでありながらそれゆえに何物にもなれる可能性も秘めた存在として両義的に描いた。両者はいずれも、「ボカロに歌わせる」という限界の先を見据えて作品を作っている。

『大漠波新「のだ」から2020年代のボカロを考える』

私はDECO*27氏の創作に特別詳しい訳ではないものの、大筋においてQJJJQさんの主張に同意したい。
つまり、自らの創作のスタンスが「初音ミク」を性的な表象として利用し続けてきたことにDECO*27氏は自覚的であり、『モニタリング』においては自らのそうしたまなざしがMVの主人公と少なからず重ね合わせられているのではないかと私は考えているのである。

ボーカロイド文化という現在商業化されつつもある場の中で、同氏はその文化を代表していると否応なく見做されてしまう立場にあると思われるが、こうした立ち位置において氏の創作が今後果たしてどのような方向に変化していくのか、あるいは変化しないのか、私な固唾をのんで見ていきたいと思っている。

おわりに

自らの予想を超えて、1.4万字という非常に長い記事となってしまった。それだけ印象深い楽曲が多かったということではあるが、ここまで読んでくださった方がいらっしゃるとすれば、最大限の感謝を申し上げたい限りである。

ボーカロイドという存在によって誘発されるクリエイターの創作に対する姿勢や、ボーカロイドそのものへのまなざしはやはり非常に興味深いものだ。
ちいたなさんのツイートにあるように、2025年は「無色透名祭Ⅲ」のような私が非常に注目しているイベントがまた開催されるであろうし、私は益々ボーカロイド文化への注目を深めていくこととなるなるだろう。


なお、本稿で取り上げた10選については、そのプレイリストをKiiteとYouTubeにおいて作成しておいた。もし興味がある方がいらっしゃれば、そちらからもご視聴していただけると幸いである。



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