異種同名譚_01_ガウスの幻影
あらすじ
京都大学数理解析研究所で宇宙際タイヒミュラー理論(IUT)に取り組む主人公は、異なる数学的オブジェクトを同一視するRCS派との激しい論争に直面する。IUTの核心を理解しようとする中で、異次元宇宙「Ξ」からの高次元生命体と接触し、彼らの宇宙を救うためにIUTの力を解き明かす使命を負う。異次元からの侵略者との壮絶な戦いを経て、主人公はIUTの真の力を駆使し、宇宙の崩壊を阻止する。そして、新たな数学の地平を切り開くための冒険が始まる。数学的SFミステリー。
京都大学数理解析研究所、通称RIMS。その重厚なレンガ造りの建物の一室で、私は深い溜息をついた。目の前のホワイトボードには、数式と図形が所狭しと書き込まれている。7年半もの歳月をかけて書き上げた私の論文、宇宙際タイヒミュラー理論(IUT)を巡る議論は、一向に進展する気配がなかった。
「RCSの主張は、要するにこうなんですよ」
私は、ホワイトボードマーカーを手に、数式を指し示した。
「IUTに登場する様々な数学的オブジェクトのコピーは冗長であり、同一視できる、と。しかし、実際に同一視を実行すると、矛盾が生じる。だから、IUTは間違っている、と」
ホワイトボードに向かい合って座る二人の数学者は、険しい表情で私の説明に耳を傾けていた。彼らは、いわゆる「冗長コピー学派」(RCS)の信奉者だ。RCSの中心的な主張は、IUTにおける複数のコピーを同一視することで理論が崩壊するというものだ。
「確かに、RCSの同一視を実行した理論は矛盾だらけです。しかし、その矛盾はRCSの同一視という行為自体が生み出したものであり、IUT本来の論理構造とは無関係なのです」
私は、ホワイトボードに描かれた「∧」記号を指し示す。
「IUTの論理構造の根幹は、この論理積、つまり『AND』関係にあるのです。Θリンクは、異なる二つの環構造を、この『AND』関係によって結びつける。RCSの同一視は、この『AND』を破壊し、論理和『OR』に置き換える。だから、RCSが批判している理論は、もはやIUTではないのです」
説明を終えた私は、彼らの反応を待った。しかし、二人の沈黙は、私の言葉が彼らの心に響いていないことを如実に物語っていた。彼らは、私の言葉の論理を理解しようとはせず、「なぜコピーを同一視してはいけないのか、私にはわからない」という言葉を繰り返すだけだった。
議論は平行線を辿り、私は焦燥感に駆られていた。その時、私の脳裏に、ある鮮烈なイメージが浮かんできた。それは、学生時代に読んだポアンカレの言葉だった。
数学とは、異なるものに同じ名前を与える技術である
ポアンカレは、モジュラー関数の変換群と、上半平面の双曲幾何の対称群の類似性から、この言葉を思いついたという。そして今、私は、ポアンカレの言葉がIUTの本質を鋭く言い当てていることに気づいたのだ。
「そうです、IUTはまさに、ポアンカレの言葉の体現なのです!」
私は、ホワイトボードに大きく「コリーチ性」と書き込んだ。
「コリーチ性とは、Θリンクやlogリンクの両側にある構造の一部に『同じ名前』を与えること。そして、マルチレイディアリティとは、Θリンクで繋がれた異なる環構造と、一つの環構造に『同じ名前』、つまり『同型』を与えること。異なるものに同じ名前を与えることで、IUTは、従来のスキーム理論では不可能だった『数論的座標変換』を可能にするのです」
私の言葉に、二人の数学者は一瞬、顔を上げた。しかし、すぐに彼らの目は再び、虚ろな光を取り戻した。
「私には、まだよくわからない…」
一人が、力なく呟いた。彼らの頭の中には、ガウス分布の幻影が、Θ関数の調べが、微かに響いているのだろうか。私は、深い絶望感に襲われた。