食費と心の健康:英国における大規模調査が示唆する意外な関係
近年、世界中でメンタルヘルスの問題が深刻化しています。日本でも、ストレス社会と言われる現代において、心の健康は重要な課題となっています。うつ病や不安障害などの精神疾患は、個人の生活の質を著しく低下させるだけでなく、社会全体にも大きな経済的損失をもたらします。WHO(世界保健機関)の推計によると、世界全体で精神疾患による経済損失は年間約1兆ドルにものぼるとされています。
心の健康を維持するためには、様々な要因が関わっていますが、その中でも特に重要な要素の一つとして、食生活が挙げられます。栄養バランスの取れた食事は、脳の機能を正常に保ち、ストレスへの抵抗力を高める効果があると言われています。とはいえ、食費の高騰や家計の圧迫により、健康的な食生活を送ることが難しいと感じている人も少なくないのではないでしょうか。
近年、英国では、食費と心の健康の関係について興味深い調査結果が発表されました。今回は、この調査結果を紐解きながら、食費と心の健康の関係についてより深く掘り下げて考えてみたいと思います。
英国における大規模調査「UK Household Longitudinal Survey」とは
今回参考にさせていただくのは、英国で実施された大規模調査「UK Household Longitudinal Survey(UKHLS)」です。この調査は、「Understanding Society」とも呼ばれ、2009年から2021年にかけて、英国の約5万世帯を対象に、食費、収入、メンタルヘルスなど、様々な項目について継続的に調査を行ったものです。調査対象者は、英国の全地域からランダムに選ばれており、年齢、性別、社会経済的地位などの属性も考慮されているため、英国の人口全体を代表するサンプルと言えるでしょう。
メンタルヘルスの状態は、全般的な健康状態を測定する質問票である「General Health Questionnaire-12 (GHQ-12)」を用いて評価されました。GHQ-12は、12個の質問から構成されており、それぞれの質問に対して「全くない」「少しだけ」「まあまあ」「非常に」の4段階で回答する形式となっています。各質問の回答を点数化し、合計点によってメンタルヘルスの状態を評価します。合計点が高いほど、メンタルヘルスの状態が悪いことを示します。
驚くべき調査結果:食費が少ない人ほど心の健康状態が良い?
調査の結果、驚くべきことに、食費の支出が少ない人ほど、GHQ-12の合計点が低い、つまり心の健康状態が良いという傾向が見られました。特に、低所得世帯において、この傾向は顕著でした。
この結果は、一見すると矛盾しているように思えるかもしれません。「健康的な食事にはお金がかかる」「食費を削ると栄養が偏り、心の健康にも悪影響が出る」といった考え方が一般的だからです。論文では、この現象について以下のような考察がされています。
まず、食費の支出が低いということは、食費を節約するために、外食を控えたり、安価な食材を選んだりしている可能性があります。確かに、これは食生活の質の低下につながり、結果として心の健康状態にも悪影響を及ぼす可能性を否定できません。同時に、自炊の機会が増えることで、家族とのコミュニケーションが増えたり、食生活に対する意識が高まったりするなど、プラスの影響もあると考えられます。
また、食費の支出が低いということは、必ずしも家計が苦しい状況であるとは限りません。食費を節約することで、他のことに使えるお金が増え、経済的な余裕が生まれる可能性もあります。例えば、趣味や旅行など、自分が楽しめることに支出することで、ストレスを解消し、心の健康を保つことができるかもしれません。
ロックダウンの影響:食費と心の健康の関係に変化
さらに、この調査では、新型コロナウイルス感染症のパンデミックに伴うロックダウンの影響についても分析しています。ロックダウン期間中、人々の行動は大きく制限され、経済活動も停滞しました。その影響は、食生活にも及び、食費の支出は増加傾向にありました。これは、食料品の価格が上昇したことや、外食ができなくなったことなどが原因と考えられます。
一方、メンタルヘルスの状態は、ロックダウン期間中に悪化する傾向が見られました。これは、外出や人との交流が制限されたことによるストレスや孤独感、将来への不安などが原因と考えられます。
興味深いのは、ロックダウン前後で、食費と心の健康の関係性が変化したことです。ロックダウン前には、食費の支出が多いほどメンタルヘルスが良いという正の相関が見られていましたが、ロックダウン後には、食費の支出が多いほどメンタルヘルスが悪いという負の相関に転じたのです。
これは、ロックダウンによって経済状況が悪化したことや、食料品の価格が上昇したことが、人々の心に大きなストレスを与えたためと考えられます。食費の支出が増えることは、家計への負担を増やし、経済的な不安を高めることになります。また、食料品の価格上昇は、健康的な食生活を送ることを難しくし、栄養不足によるメンタルヘルスの悪化にもつながる可能性があります。
白人と非白人の違い:食費と心の健康の関係性に差
この調査では、人種の違いによる食費と心の健康の関係性の差についても分析しています。調査の結果、白人と非白人では、食費と心の健康の関係性に違いがあることが明らかになりました。白人では、食費の支出が少ないほどメンタルヘルスが良いという傾向が見られましたが、非白人では、このような関係は見られませんでした。
この結果について、論文では明確な理由は示されていませんが、文化的な背景や社会経済的な状況の違いが影響している可能性が考えられます。例えば、白人社会では、健康的な食生活やスローフードといった考え方が普及しており、食費を節約してでも健康的な食事を心がける人が多いのかもしれません。一方、非白人社会では、伝統的な食文化や経済的な事情などから、食費を節約することが必ずしも健康的な食生活につながるとは限らない状況もあるでしょう。
調査結果が示唆するもの:食費と心の健康の関係は複雑
この調査結果からわかることは、食費と心の健康の関係は単純ではなく、様々な要因が複雑に絡み合っているということです。食費の支出を減らすことは、食生活の質の低下や経済的な不安につながる可能性があり、心の健康状態に悪影響を及ぼす可能性があります。一方、食費の支出が多いことは、必ずしも心の健康状態が良いことを意味するわけではなく、場合によっては、逆に悪影響を及ぼす可能性もあります。
政策への提言:食費と心の健康の両面から支援が必要
この調査結果を踏まえ、論文では、以下のような政策提言がされています。
まず、食料価格の高騰を抑え、低所得世帯でも健康的な食生活を送れるように、食料支援を行う必要があるということです。具体的には、無料の学校給食の提供やフードバンクへの支援、食料クーポン券の発行などが挙げられます。また、食費以外の支出、例えば、光熱費や住居費などの負担を軽減することも重要です。これらの支出の負担が減れば、食費に回せるお金が増え、より質の高い食生活を送れるようになる可能性があります。
さらに、人種や民族の違いによる食料へのアクセスや食習慣の違いを考慮した政策が必要であるとも指摘されています。例えば、特定の民族が好む食材を供給したり、食文化に関する教育を行うなどの対策が考えられます。
まとめ:心の健康を守るためには、食費との適切なバランスが重要
今回のコラムでは、英国における大規模調査の結果を参考に、食費と心の健康の関係について考えてきました。食費は、私たちの生活において必要不可欠なものです。そして、食費との適切なバランスを見つけることは、心の健康を守る上でも重要です。食費の節約ばかりに気を取られるのではなく、食生活の質を維持し、経済的な不安を軽減できるような工夫が必要です。また、行政は、食料支援や生活費の負担軽減など、食費と心の健康の両面から、国民の生活を支援する必要があるでしょう。
今回の調査結果を参考に、日本でも、食費と心の健康の関係について議論が深まることを期待します。
参考文献
Waqas, M., Iqbal, S., & Stewart-Knox, B. J. (2024). Food expenditure, income, and mental health: Outcomes from the UK Household Longitudinal Survey. PLoS ONE, 19(9), e0308987.