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コロナ明け2

・・・てはまだいない。

「久しぶりに会おうか」

勇気を振り絞って送ったY子ちゃんからの返事は、意外なものだった。

Y子ちゃんとは同じ市内住みで高校から知り合った友達で、Y子ちゃんは常に同じ中学からの友達数人とつるんでいた。
 2年の合同体育の自習の時間に、一緒にダラけていたのがきっかけで、Y子ちゃんとその友達が私を面白がってくれて、それからは3人でつるんでいた。

3人でつるんでいたもう1人の友達とも、長らく年賀状だけの付き合いが続いていたが、その子から返事の年賀状が届かない年があり、翌年からは私も出さなくなり、もう音信不通となってしまった。
 寂しい気持ちもあるにはあるが、高校を卒業し、お互い家族が出来て、それぞれな生活がある中で、今更何を話せばいいのかももう分からなかったので、返事の年賀状が届かなかった時、内心ホッとした。

しかしY子ちゃんとだけは、その後もやり取りがあり、年の離れた女の子だったY子ちゃんのご両親やご主人の父親のご不幸を喪中はがきで知らされても、喪が明けた翌年にはまたお互いにやり取りしていた。

今年、Y子ちゃんからの返事が1週間ほど遅れて届き、毎年可愛い娘さんたちの写真付きだったのだが、干支のイラストの簡素な物になったのを受け取って、『あぁ、この関係も終わりが近いのかもしれない…』と少し寂しい気持ちになった。

高校を卒業した後、少し不通の時があったものの、Y子ちゃんの結婚式に出席してからずっと続いてきたこの関係をY子ちゃんの友達の時のようには終わらせたくなかった。

年賀状に添える手書きのメッセージよりも親密なコミュニケーションで、“年賀状仕舞い”を告げたかった。

そんな私の気持ちの中、Y子ちゃんから「会おうか」のメッセージを貰ったのに、なぜ意外だと思ったのか。

それは、Y子ちゃんの嫁いだ先の事情が関係している。

5年程前、まだ小学6年生だった娘を連れて、46km程離れたY子ちゃんの嫁ぎ先まで高速道路を飛ばして会いに行ったことがある。

その時も「会おう」という話になったのだが、Y子ちゃんが「自分で自由に乗れる車が無い」というので、私の方から出向いたのだ。

いざお宅に着くと、大きな敷地の中に主屋と一軒家が建っていた。

電話でY子ちゃんから「敷地内別居」だと聞いていたので、私たちはてっきりY子ちゃんたちの住まいの家にお邪魔するのだと思っていたら、主屋の方に通され、久しぶりのY子ちゃんとの語らいの中になぜかお義母さんも同席していた。

しばらくお茶やお菓子を頂きながら話をしていたが、昼の時間になったので、昼食に出ようということになった。

私の車は軽自動車で、私と娘とY子ちゃんと2人の娘となると重量オーバーだった。そこでY子ちゃんがお義母さんと一緒に使っているという5人乗りの乗用車を貸して欲しいとお願いすると、「スーパーに行くからダメ」と断られた。

仕方なく私たちは軽自動車に5人で乗り込み(本当はダメ)昼食を食べに向かった。

昼食は、近くに児童館があるというので、コンビニで昼食を買い、児童館の中で食べた。子供たちは遊具で遊びながらすっかり打ち解けて仲良く遊んでいた。

「お義母さんとうまくいってる?」

私が1番訊たい質問は、これだけと言っていい程、頭の中はこの言葉がグルグルしていたが、どう考えてもうまくいっているようには見えなかったY子ちゃんにこの言葉を投げかけるのは酷だった。

敷地内に建てられた離れには、お風呂が無く、キッチンも簡素な物で、大きな家庭用冷蔵庫を置くことも禁止されているのだという。「お風呂も食事も主屋で一緒に食べたらいい」と言われ、食事中に母乳をあげる為に席を外すことも許されなかったのだと。

しかし、お義母さんからはY子ちゃんへの憎しみや嫌味のような感情は受け取れなかった。むしろ溺愛。
 自分には2人の息子しかおらず、念願かなった義娘への強すごる愛。その愛は当然2人の孫も降り注がれていた。

別れ際には、私たちの帰宅を待ちわびて、これからスーパーへ買い物に行くというお義母さんが、乗用車にY子ちゃんたち3人を載せて、高速のインターまで並走して私たちを案内してくれた。(スーパー行ってねぇじゃねぇかよ!)

そんなY子ちゃんが「会おう」と返してくれたのである。

私は、喜びと、ザワつく心とで、少し緊張していた。

《つづく》

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