普通のストレスとこころの病は、どこがどう違うの?
こころの病、お医者さんはどう見てるのか。
普通の悩み、ストレスと、
心療内科レベルのこころの病は、
どう違うのか。
お医者さんっぽく?(笑)
生物学的精神医学の立場から、
もう少し医者的発想を言語化してみました。
確かに人生の苦悩、生老病死は避けれないもので、
それ自体、生きてる証拠やね♫、ということです。
苦悩とは、だいたいが、恐れ(思考)という、
目に見えない、夢や幻想のドラマが作っているから、
悟りをひらいたお坊さんとかなら、
どんな苦境や痛みの中にあっても、
こころが大きく乱されることはないのでしょう。
しかし、こころの病の場合、
①思考(恐れ):物質的には実在しない
↓
②自律神経系の機能異常
内分泌系の機能異常
大脳新皮質の機能ダウン :物質・身体レベル
↓
③思考の固着:非物質だけど訂正困難、行動レベル
というイメージ。
①第1段階の思考、恐れは、
ある意味、健全な悩みの範囲で、
捉え方、認知再構成法、リフレーミングなどで、
人生の糧、彩り、豊かさにすることもできる。
生体の自然治癒システムが正常に機能しており、
セラピーや心理カウンセリングの、
最もよい適応になる病態水準です。
この内に対処しておくのが、一番です。
②第2段階では、非物質だったはずの思考が、
長期暴露により、心身機能にまで影響を与えた段階。
ここまでくると、迷走神経の過感受性や麻痺、
セロトニン、ノルアドレナリン系の枯渇、
大脳新皮質の慢性的な疲弊、機能ダウン、血流不良、
その他、ありとあらゆる心身機能の障害、
生物学的レベルに、具現化しています。
ここで、具現化するかしないかは、個体差があります。
遺伝や発育環境によって、
筋骨格が丈夫な体質、胃腸が弱い人、がいるように、
当然、中枢神経系の発達や、内分泌系の強弱個体差があり、
その人個人の意思ではないし、責任もない。
複合的な生体の事情が絡まって、
自家製のセロトニンなどが枯渇しているので、
自然治癒システムが追いつかず、
回復に、薬物によるセロトニン補助を行うか、判断が必要です。
この段階が、心療内科、精神科の出番、
生物学的精神医療の対象になる病態水準です。
生活習慣病の代表で、糖尿病や高血圧がありますが、
生活習慣、という非物質レベルが、
身体機能に具現化してくるのと似ています。
具現化するのは遺伝的脆弱性や環境因と絡み合っており、
いったん発病すると、自家製のインスリンが枯渇し、
生活習慣改善では回復が追いつかず、
インスリン補助療法が必要になるのと同じです。
ここで、ストレスの大小は関係ないです。
よく患者さんは、「みんなちゃんとしてるのに、この程度のストレスで泣きごとは言えない、、」と言いますが、違います。
それでは、皮膚や目の色や体質を差別する考えと、同じになってしまいます。ストレスの感じ方も、どの器官が弱いかも、みんな違います。
③第3段階は、
前向きになれない思考、
いくら努力しても自己否定的認知を変えられない、
主体的に人生を選択していくことはできない、
もはや脱出はできないのだ、
という思考に固定して、訂正困難になっています。
回避的になったり、非活動的になったり、
行動面で具現化しています。
日常生活レベルで支障が出てきたり、人間関係、
仕事や学校活動にも影響してくる段階です。
こんな段階では、自己啓発書や人生哲学を読んでも、
周りの励ましやアドバイスに答えられないのも、当然ですよね。
そこに、変われない自分を責めて、
ダメ出しして、ますます負の悪循環のスパイラルに落ち込む。
これは辛いですね。。。
回復への自己努力、
周囲の善意の優しさや、治療的意図が、
逆効果に働くのは、
病態水準や、医療的段階の見極めが
マッチしていない時ではないかと思います。