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ポエジーの発露か、異端の発現か?! ーー小山玄紀『ぼうぶら』(ふらんす堂)を読む

RCは句集を買うのが趣味ですが、気に入ったのがあれば、勝手ながらに評をしていきたいと思います。

ふだんは書店の詩歌の棚で気になった句集を買うのですが、今回は出版社のブログで紹介していた記事を読んで、興味を持ち、取り寄せました。

それは小山玄紀『ぼうぶら』(ふらんす堂)です。

取り寄せて読み始めると、不思議な世界が目の前に広がり、今までの句集の読みとは異なる読み方をしている自分に気づきます。

この句集の特徴として、無季の句が多く収載されていることがあります。でも、「ああ、これは無季だな」と気づくまでには一瞬、間があります。同じように、有季であることにも、気付かずにさらりと読んでしまいます。

ふつうは、なぜ無季で句が成立しているのか、と考えてしまいます。でも、この句集に限って、その時間は必要ありません。一句一句立ち止まらずに読み進められます。有季なら、季語が効いているかな、などと考えますが、それもほとんど気にしないでどんどん読み進めます。難解な句も多いのですが、句自体が解釈を求めてきません。つまり、まず体感するのが、この句集の読み方だと思います。

それはなぜかというと、一句一句が詩的必然において完成されていて、高いクオリティをもっているからです。そしてこの句集全体が、一篇の叙事詩のように構築されているからです。ここにあるのはポエジーそのものであり、それをベースに叙事詩として『ぼうぶら』が成立している。そんな感じがするのです。

小山玄紀という若い俳人から、この叙事詩が表出したというエポックは俳句界にとって、密かな事件と言えるかもしれません。なぜ密かかというと、おそらくその重大さに気づいている人はまだ少ないと思われるからです。

しかし、時間が経つうちに、多くの人に見えてくるでしょう。社会事象がささいな出来事から大きく変化していくように、ここに俳句界の転機が訪れたと言えるのかもしれません。

彼のつくり出す世界は、難解といっても近寄り難いものは感じさせず、異端というには有季定型への愛と敬意を感じさせるので、とにかく不思議なものです。ご興味を持たれたら、ぜひお手に取ってみてください。

もう一度ゆっくり目を通して、十句を選んでみました。最後にご紹介して終わります。

【『ぼうぶら』より十句】
鎌倉や歌声のする穴一つ
定かなるもの顔と寒椿
チョコレート砕けて秋の渚かな
呼鈴に繫つてゐる浮寝鳥
青い膜拵へ昼の話せむ
CDを旅の鏡としてゐたり
寒卵弦のふるへを遥かにす
他人の夢にも釘打つてゆきにけり
青空を剝しゆきたる姉妹かな
星涼し火口へ親を伴ひて



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