答えの出ない「欠席投句」問題
本年1月1日に発生した能登半島地震でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。ひと月が経ってもライフラインが復旧せず不便な生活を強いられている方々、避難を続けていらっしゃる方々の日常生活が、一日も早く取り戻せますように、切に願います。
さて、今日考えたいのは、「欠席投句」のことです。
RCが出席しているいくつかの句会でも、それぞれの方法で、その場にいない方の出句があります。欠席投句として事前に幹事か出席者が預るパターン、オンラインシステムを使ってその場にいなくてもリアルタイムで出句、選句ができるパターンなど。
後者は、もはや欠席投句とは言えないかもしれません。オンライン句会参加者のうち有志が、一緒に吟行したり句会として集まったりしている、という逆転した見方もできます。
でも、基本的には、その場にいない方の出句は「欠席投句」と考えたいと思います。
吟行句会で清記用紙やスマホ画面を眺めて選句していると、欠席投句の句はすぐわかります。中には「吟行想望俳句」とでも言えるような句を出す方もあり、名乗りの際に欠席投句とわかると、吟行句として選をした人たちは「やられたー」という感じで、会場が沸いたりします。
これは好みや考え方によりますが、吟行句会に、吟行句でない句が出されるのは面白くないとする向きがあるようです。これは欠席投句でなくともあることなので、また別の問題ではあります。
また、「いま・ここ」の場にいて詠むことこそ、正当な吟行句であるという考えもあるでしょう。ただ、過去に訪れた場所、歩きなれた吟行コースを想い、記憶を頼りに詠んだり、今ごろの時期の様子を想像して詠んだりするのは、俳人として当然のことでもあります。
つらつら考えると、欠席投句については次のようなことが言えるのではないかと思います。
◎メリット
・多くの人の出句があれば、句会がにぎやか。
・さまざまな事情で句会に出席できない人にとっては不可欠。
・やり方によるが、結果を欠席投句者に報告する人は、振り返りをするので勉強になる。
◎デメリット
・吟行句会の場合は、欠席の人の句はなんとなくわかってしまい、選にバイアスがかかる。
・出席者より多い人数分の句が出されるので、清記において出席者の負担増となる。
・実務上の手間が増えると、幹事の負担像となる。
・欠席投句者は振込みなど、会費納入の方式が複雑になる。
具体的にはこんなところでしょうか。
デメリットにある、負担増の件については、欠席投句者が多くなると句会が成り立たないということになりかねません。ただ、それほどの事態でなければ、なんとなく、メリットの方が大きいように見えます。
ここで、句会とは何かということに思いを馳せると、個々にいろんな意見があるでしょう。
俳句は座の文芸ですが、これにこだわるなら、やはり句会場にいる出席者だけで、出句、選句をしたい、という意見があると思います。
しかしオンラインシステム使用なら、同じ空間でなくても広く解釈して、オンライン句会そのものを座とみなすことも可能でしょう。
一番多い意見というか、感覚と考えられるのは、次のようなことかもれしません。
〈句座を共にする仲間は、その場にいてもいなくても構わない。よんどころない事情で出席できないときに、出句してくれるのは嬉しい。いろんな句に接することも楽しい。〉
これは、欠席の事情が病気とか、仕事の都合での転居などの場合は、句友の無事を喜ぶ思いもあり、なおさらのことでしょう。
いろいろ考えると、欠席投句者が出席者に比してある程度容認できる数であれば、むしろ歓迎されることと言えるでしょうか。
RC自身は、欠席投句をしません。オンライン方式でも、いまのところ避けています。それは、単純な理由です。自分が楽しくないだろう、と思うからです。
ただこれは、RCがまだ足腰丈夫で大病もなく、支障なく出かけられるから、という条件付きではありますが。
「欠席投句」のことって、考えると奥が深いです。答えが簡単には出ない問題かなと思います。
みなさんの句会ではどうなさっていますか?
RC
RC