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いいかげん「取り合わせ」の句って、やめにしません?

しばらくnoteを更新していませんでした。このところ、生きてるだけで、俳句を詠んでるだけで精一杯でした。世の中はキビシイっすね。

というわけで、書きたいことは結構溜まっているのですが、今回は「取り合わせ」について書きたくてムラムラして、スマホでフリック入力したりパソコンのキーボードを叩いたりしているわけです。

まあ、俳句の作り方に「一物仕立て」と「取り合わせ」があるというそもそも論はともかくとして、合評などで「取り合わせ」の句として解釈、鑑賞しましたなんていうことはよくあります。

それ自体は自然なことなのですが、恐いのは作句のときに、「取り合わせ」を意識して、あるいは上手い「取り合わせ」の句を作ろうとして、うんうん唸っている人が、あまりに多いのではないか、ということです。

RCは専ら吟行句会に参加しているので、季語を読み込むのは、基本的にそこにあるものとしています。写生句やその場の人事句はまあ問題ないとして、季題を前にして突然湧き上がってくる感情や言葉があり、それを句にすることが時々あります。

たとえばとうもろこしの花(なんばんの花)を前に、突然「なんで世界は平和にならないんだー!」と昂る感情が生じたら、それを句にする、なんてことです(今思いついた例なので、実際にこの句は詠んでいませんが)。

かなりのトンデモ句になったり冒険句になったりしますが、これを取ってくれる奇特な方もいらっしゃるし、主宰が珍しがって取ってくれることもあるので、これも句会の醍醐味かなと思います。

これって、解釈や鑑賞では「取り合わせ」の句として扱われるわけですが、作者のRCとしては「取り合わせ」ではなく、季語の動かせない、自分にとっての「一物仕立て」なのです。

まあ、季語を替えたら? なんていう評も出ますので、異は唱えません。もっともな評として受け取り、後でこの句を残すかどうかを考えればいいだけです。場合によっては自分で季語を替えたくなるかもしれませんが、それはその時の自分の真実と考えればよいでしょう。

まあ、RCの個人的な句の作り方を人に押し付けるわけにもいきませんが、とても気になっているのは、中七下五ができたので上五の季語は何にしよう、などという作り方、推敲が蔓延していることなのです。

これって、作句の理論に忠実かもしれませんが、俳句を作っていることになるんでしょうか。気の利いた付き具合の季語を見つける作業なら、AIでもできるんじゃないでしょうか。いや、いずれ学習の進んだAIの方が上手くなるかもしれません。

せっかく俳句に取り組んでいるのですから、自分の真実を詠みたいですよね。それが評価されようがされまいが、構わない。座の文芸ですから合評で句を鍛え上げていくのも楽しいですが、究極の楽しみは、自分の真実が言葉にできたときの快感です。

だから、「取り合わせ」を意識しては作らない、最近はそうした姿勢で作句しています。その句が佳句になるかどうか、独りよがりでなく他者の共感を得られるかどうかは、自分がどれだけ本質を見抜く努力をしているか、根源的(ラジカル)に生きているかにかかっています。

まあRCはこんなふうに生きてますから、最初の話にも戻りますが、もう精一杯になってしまうんですよね。

若い頃は、この生き方、「Rockだー」と思ってましたが、今は、「Haikuだー」です。

ともかくみなさま、これから梅雨に入りますので、お体を大切に。RCもみなさまと共に、ラジカルに生き続けますよ。

RC





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