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ロッキンとフジロック、音楽シーンの再構築

ロッキンは中止になり、フジロックは開催できた。音楽シーンにおける対比構造となった両者で、得たものと失ったものは何だったのだろう。いつもなら詳しく調べたりして事実をもとに書いていくけど、今回は思いを巡らせながら、事実とは異なることだとしてもつらつらと書いていこうと思う。主観of主観の駄文記録みたいな感じだ。

莫大な金と時間を消費して消費して消費して、やっとの思いでフェスは開催される。沢山の人々の想いが紡がれて、様々な思惑が交差しながら構築されるステージという怪物に対して、適度に畏怖を持ちながら全ての人間が正面から向き合う。
音楽の力を信じた人々は、常日頃から音楽の力を享受し、フェスという非日常で与えあう。ハレとケの往来で蓄えた音楽の力を、最後のCDJで全て使って新しい1年を迎えることが日本の音楽シーンの循環な気がする。

去年からハレの日の相乗効果型の力は失われ、代わりにケの日に集約した。オンラインのライブストリーミングが流行し、ハレとケが融合した新たな力が生まれた。コメントという形で同時進行の共感が起こり、フェスの在り方そのものは変わらないとしても、派生型として一瞬にして受け入れられた。
思えば、Marshmelloや米津玄師がフォートナイト上でライブをやったときからこの流れは起こっていた気がする。そうするとこれは必然だったのだろうか。大学のOCがフォートナイト上で行われているという話も聞く。身体を電波に変換して、アバターが代わりに体験したものを身体に還元するという流れは、もう逃れられないのかもしれない。

そうすると、身体を時間と労力をかけて実際に運ぶフェスは、旧時代の遺物として衰退の一途をたどるのだろうか。そんなことはないだろう。身体でしか享受できないものがあり、いかにデジタルの流れが来ても身体に回帰するのだろう。Zoom飲み会がそうであったように。
フジロックはそれを証明したような気がする。都ナンバーの車が大集結したことが物語っているように、音楽の身体性は必要不可欠なのだ。スクリーンと振動板だけでは得られないものが、ステージにはあるのだ。

ロッキンは今までの努力が水泡に帰したが、世間に音楽の在り方を問うたのは、これからの音楽シーンを再構築していくうえで大きな役割を果たした。まるで全てを失ったかのように見えたロッキンは、ロッキンという役割を果たしていた。そう考えると、失ったものは無かったのかもしれない。物質的な損失はあるけど。

僕の生活の一部になります。