僕は非道い人間だ。 どうでもいいけど。
僕は非道い人間だ。「非道い人間であること」をどうでもいいと思っているのだから余計に非道い。ただ、他己評価での「優しい人間」も、嘘偽りなく僕だ。僕も貴方も彼も彼女も、不機嫌にさせて良いことなんて何もない。そのために僕は優しくあろうと努力している。
決して僕は「非道い人間」を覆い隠すために「優しい人間」になるよう努めているわけではない。そもそも別に隠したいと思っていない。「非道い人間」を表に出すときだってある。ただTPOをわきまえているだけだ。
シチュエーションさえ整っていれば、非道さは笑いに昇華する。ある程度の関係値を築けば、非道さはいじりに変化する。チョコレートを食べたらポテチが食べたくなるような、そんな感じ。
僕は、「非道さ」は悪いものではないと思っている。これは自己弁護ではなく、「非道さ」の存在の話だ。「非道さ」は存在して良い、そう思っている。
これが悪となるとき、そこには何かしらの要因が絡んでいるのではないだろうか。前述のようなシチュエーションだったり関係値だったり。タイミングも大事なのだろう。
「非道さ」が人を助ける場合だってあるはずだ。
「非道さ」に自己嫌悪し、肯定感を下げてしまう人をそこそこ見かける。普段はそこまで気にしないが、ふとした瞬間に、この人は繊細なんだなと思う。それと同時に、窮屈そうだなとも思う。
僕は、「非道さ」と同時に「どうでもいい」を持つべきだと思っている。非道くたって良いじゃない、と割り切る。自己評価を曖昧にする。そうやって、自分を守る。
あいつはああなんだ、どうでもいいけど。こいつマジか、どうでもいいけど。同じように、俺やっば、どうでもいいけど。
そして考える。なぜ今自分は「やっば」になったのか。自分が原因なのか、相手が原因なのか。はたまた取り巻く環境が原因なのか。何をどうすれば「やっば」にならずに済んだのか。
それさえ分かれば、次の瞬間には肯定要素だ。自己肯定人間の出来上がり。素晴らしい。
正直僕は自己肯定とかもどうでもいいと思っている。わざわざ肯定とか考えることが面倒くさい。簡単に表すならば、興味ない。自分や他人、個としての人間に興味がない。楽しく生きれればそれでいいじゃない。そのために邪魔なものは、たとえ自分でも殺す。それで死ぬような個性は、どうでもいい。持ってたって、疲れるだけだ。楽しく生きるために、僕は「非道い人間」であり続ける。