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奪いかけたソボスライのポジション、幻と消えた日本代表 セカンドチームから這い上がった奥川雅也の欧州挑戦

スポーツの世界に「たられば」や「if」は存在しない。

それでも、ファンはつい考えてしまう。「あのシュートが入っていれば…」や「あの選手を獲得できていれば…」などと。

元RBザルツブルクの奥川雅也には、まさにそうした“もしも”の物語がいくつも思い浮かぶ。今回は、京都サンガへの復帰が決定した奥川の欧州での奮闘の軌跡をたどる。


セカンドチームから這い上がる

奥川は2015年の夏、京都サンガからRBザルツブルクに移籍した。彼より半年先に南野拓実が加入していたが、奥川はJリーグでの出場機会がほとんどない中での挑戦だった。U19日本代表での活躍もあり、当時SDだったラルフ・ラングニックによってレッドブル行きが決まった。

移籍後、奥川はまずセカンドチームであるリーフェリングからスタートすることになった。トーマス・レッチュ(現RBザルツブルク監督)の指導の下、奥川はオーストリア2部で2シーズンにわたって8ゴール10アシストという成績を残した。

当時のリーフェリングには、ファン・ヒチャン(現ウォルヴァーハンプトン)、ダヨ・ウパメカノ、コンラート・ライマー(共に現バイエルン)、イゴール(現ブライトン)といった選手がチームメイトとして在籍していた。

その後、奥川はオーストリア1部へのローン修行を経験する。移籍先はマッテルスブルクだった。

マッテルスブルクの監督は、RBザルツブルクのアカデミーでの指導者キャリアを持つゲラルト・バウムガルトナーだったため、この繋がりが移籍の背景にあったのかもしれない。FWのスマイル・プレヴリャク(現ヘルタ・ベルリン)も、同時期にRBザルツブルクからマッテルスブルクにローン移籍していた。奥川はシーズン中盤以降からコンスタントに出場機会を得て、リーグ戦で5ゴール4アシストという結果を残した。

翌シーズン、奥川はドイツ2部のホルシュタイン・キールにローン移籍。RBザルツブルクの所属選手がドイツ2部で経験を積むというのは、定番ルートの一つだ。

キールでは、ティム・ヴァルター監督の下でプレーすることになった。ヴァルターは「常識外れの戦術家」としても知られ、奥川は様々なポジションやタスクをこなした。

『Spielverlagerung』でも取り上げられたヴァルターの戦術

奪いかけたソボスライのポジション

そして19/20シーズン、RBザルツブルクにジェシー・マーシュ(現カナダ代表監督)が新指揮官として就任し、ついに奥川は保有元クラブの構想に組み込まれることになった。

開幕戦では途中出場ながら早速ゴールを決め、チームの勝利に貢献。さらに第2節では先発の期待に応え、2試合連続となるゴールを記録した。この2試合では、南野との2戦連続”日本人コンビ弾”が話題を呼んだ。

当時のRBザルツブルクは基本フォーメーションとして[4-2-2-2]を採用しており、前線の4人はアーリン・ハーランド、ファン・ヒチャン、南野、ドミニク・ソボスライがレギュラーメンバーとして名を連ねていた。その中で奥川は、南野とソボスライが務めるダブル10番の控えという立場にいた。

奥川が好調な滑り出しを見せていた一方で、当時のソボスライはパフォーマンスにムラがあり、他のレギュラー3人と比べて存在感が薄かった。マーシュは攻撃陣の中でソボスライを真っ先に交代させることが多く、奥川がそのポジションを奪える可能性は十分にあった。

しかし、奥川は序列を上げる重要な局面で、ふくらはぎの負傷による離脱を余儀なくされた。もし、この時ソボスライからポジションを奪い、レギュラーとしての地位を確立していれば、クラブ史上初のCL出場を果たしたRBザルツブルクにおいて、奥川はさらなる脚光を浴びていたかもしれない。

それでも奥川は、冬の移籍市場でハーランドと南野がステップアップした後、先発出場の機会を増やしていった。RBザルツブルクでの実質的な初年度をリーグ戦9ゴールという成績で締めくくった。

幻と消えた日本代表

翌20/21シーズン、奥川は覚醒したソボスライや、高額移籍金で加入していたノア・オカフォー(現ACミラン)らに押され、序列が低下していた。そんな中でも、CLのバイエルン戦では自身初ゴールを記録し、存在感を示す場面もあった。

この時期、奥川にとって大きな朗報であり、それが失望に変わってしまったのが日本代表招集を巡る出来事だった。

当時の日本代表は新型コロナウイルス感染症の影響下で、海外組の選手のみで活動していた。コロナ対応が国ごとに異なる中、ビーレフェルトは再入国後の制限を理由に堂安律の派遣を拒否する事態となった。

それによって、オーストリアで試合が開催されるという地理的な要因も追い風となり、奥川が日本代表に追加招集されることに。彼にとって念願であり、日本代表初選出という大きな一歩を踏み出すはずだった。

ところが、このタイミングでRBザルツブルク内でクラスターが発生。代表合流日までには全員陰性の検査結果が出たが、JFAは安全上の理由から奥川の招集を見送る決断を下した。日本代表でも南野と共にピッチに立つ姿を見たかっただけに、非常に残念に思った。

叶わなかった個人残留

奥川はこの冬、ブンデスリーガの昇格組であるビーレフェルトにローン移籍した。この移籍先でも、監督はRBザルツブルクのアカデミーで働いた経歴を持つフランク・クラマー(現ホッフェンハイムSD)だった。

奥川はビーレフェルトで主力として半年間戦い抜き、チームの1部残留に貢献。5大リーグクラブへの完全移籍を勝ち取った。

21/22シーズンの奥川は、RBザルツブルク時代に見せたような得点力を発揮し、チームトップの8得点を挙げた。

しかし、このシーズンにビーレフェルトは2部降格という結果に終わる。奥川は目覚ましい結果を残したものの、試合全体での関与が少ないと評価されたことも影響したのか、トップリーグに「個人残留」することは叶わなかった。

降格したビーレフェルトからは、シュテファン・オルテガがマンチェスター・シティ、パトリック・ヴィマーがヴォルフスブルク、アモス・ピーパーがブレーメンへと移籍を果たしている。それだけに、奥川がトップリーグでのキャリアを継続できなかったのは悔しさが増す。

Jリーグでの新たな挑戦を応援したい

2部に降格したビーレフェルトで、奥川は引き続き主力としてプレーした。このシーズン、リーグ戦で5ゴール10アシストという成績を残すものの、クラブは2シーズン連続の降格を喫し、3部へと転落してしまった。

クラブの降格を受け、奥川はアウクスブルクへ移籍。トップリーグへの復帰を果たした。

しかしながら、前シーズン終盤に鎖骨を骨折していた影響で開幕に間に合わず。復帰には10月下旬まで時間を要した。半年間でのリーグ戦出場はわずか2試合にとどまった。

そのため、冬にキール時代の恩師ヴァルターからの誘いを受け、2部のHSVにローン移籍。だが、ここでも加入直後に負傷してしまい、さらにその間にヴァルターが解任されるという不運が重なった。HSVでも奥川の先発出場はゼロに終わり、得点を挙げることもできなかった。

今夏アウクスブルクにローンバックとなっていたものの、一連の流れからチームの構想に入らないのは明らかだった。今季トップチームのベンチ入りは一度もなく、4部リーグに属するセカンドチームでの試合出場が続いていた。

個人的には、Jリーグのキャンプインが始まり、移籍先が見つからず年明け以降もアウクスブルクに残留する可能性を危惧していた。日本への復帰は状況を変えることができたという点で、ひとまず安堵している。

ここ数シーズン、奥川はトップレベルでの試合出場が不足している。まずは、これをどこまで戻していけるかが鍵となるだろう。

これまでの奥川のキャリアを振り返ると、もう少し歯車がかみ合っていれば、欧州サッカーの中心地でさらに輝く存在になれたのではないかと思わずにはいられない。

「ソボスライからポジションを奪えていれば…」、「キャリアに日本代表の経歴が付いていれば…」、「もっと継続して5大リーグに在籍できていれば…」。様々な「たられば」が頭をよぎる。そして、奥川本人はその何倍も苦しい思いをしてきたはずだ。

それでも、Jリーグでの経験がほとんどない中で欧州へ飛び込み、5大リーグで得点を重ねるアタッカーにまで成長した彼の努力と実績には、ただただ敬意を抱かざるを得ない。

奥川にとって、J1は初めての舞台となる。10年ぶりの復帰となる古巣で、新たなチャレンジをする”古都のネイマール”を陰ながら応援したい。

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