見出し画像

自身の場面緘黙症について

※あまり話したくない事ですが自身の気持ちの整理のため、現在場面緘黙症で苦しんでる方々に役に立ててもらいたいと思い文章にしてみました。
※長いし途中文章が変になってるかもしれないですが最後まで読んで下さると嬉しいです。

☆場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)、選択性緘黙(せんたくせいかんもく、英: Selective Mutism,SM)とは、家庭などでは話すことが出来るのに、社会不安(社会的状況における不安)のために、ある特定の場面・状況では話すことができなくなる疾患である。 幼児期に発症するケースが多い。(wikipediaより引用)

☆はじめに
恥ずかしながら私が「場面緘黙症」という言葉を知ったのは、数日前にモリナガアメ様の『かんもくって何なの!?』を電子版で購入して読んでからでした。それまで私は家では話せるのに学校では話せないコミュ障、はたまた二重人格者かと思い込んでいました。しかし、モリナガアメ様の症状と私の症状が完全に一致した所から、「ああ私は場面緘黙症だったんだな」と納得がいったと同時に過去の辛い記憶を思い出してしまい泣いてしまいました。
現在は、場面緘黙症は治っており普通に仕事をし、友人にも恵まれています。しかし、私の場面緘黙症は幼〜高と約15年という長い期間患ってたため、人と目を合わせられない、嫌な事を押し付けられても断ったり怒ることが苦手、雑談が苦手、電話が苦手等様々な後遺症に悩んでおります。
場面緘黙症を治してから出来た友人·知人には今まで自身が元·場面緘黙症であった事はカミングアウトしておりません。(察しのいい方はもしかしたら気付かれてるかもしれないですが)ですのでこの文章を投稿した際にもし引かれたら……と不安になったのですが、できれば自身の過去について知ってもらいたい、そして今後場面緘黙症の方に会われた際に優しく接してあげて欲しいと思い勇気を出してこの文章を投稿しました。長くなりますが最後まで読んで下さると嬉しいです。

☆場面緘黙症の時の私
上記にも書いてある通り、私は幼〜高までの約15年間場面緘黙症でした。場面緘黙症になったきっかけは分かりません。モリナガアメ様のように家庭環境に問題があったという訳でもなく物心ついた時から幼稚園、学校で話せなくなっていたのです。
両親も変だと思ったのか1度私を障がい者向けの養護施設に連れてってくれました。しかし、学業を行う上では問題が無かったのか「ただの人見知り」と見てもらった先生に言われた事は覚えております。両親もそれで安心したのかその後は病院には行かずに約15年間過ごしました。
私の場合、場面緘黙症とは言っても音読、自己紹介、合唱等必要な時は話せました。また、頷く、首を振るという意思表示も出来るようなものでした。
ただ雑談と自身から話しかける事が全くできませんでした。そのため、「班で話し合いましょう」「2人組になって」等で辛い思いをしてきました。
今思うと話せなかった大きな理由として「人と話す事で嫌われるのが怖かった」というのが考えられます。まぁ、話さなかった事で不気味な人扱いされて結果的に嫌われてましたが……
当然、クラスメートからは「なんで話さないの?」「『あ』って言ってみてよ」等質問攻め、ケガをさせても「ごめんなさい」の一言がどうしても言えず嫌われ、6年間ほぼ孤立状態でした。(それでも話しかけてくれたり一緒に帰ってくれた子はいました。現在その子がどうしてるかは分かりません。)
他の場面緘黙症の方の体験談を読んでいると担任の先生が理解のある方でクラスに溶け込めた……というものもありましたが、私の場合は残念ながらそのような先生に巡り会う事はできませんでした。(これは私が授業等必要な時には話せるものであったからかもしれませんが)
特に小5の時の担任の先生は未だにトラウマでよくフラッシュバックします。給食の時男子の中で私1人女子で食べるのが嫌で首を振って断ったら、廊下に呼び出されて他の人が見てる中で説教を食らった苦い思い出があります。もし私が場面緘黙症でなくてちゃんと言い返せてたら……と思うと辛くて泣きそうになります。
当然こんななのでいじめにも遭ってました。小3では集団で遊ぶ時に男子に思いっきり腕を叩かれ、私の机の前に落ちてただけで泥棒扱い(何を盗んで泥棒扱いされたのかと言うとプラモの部品を外した際に出る枠のゴミです。今思うとこんなゴミのために泥棒扱いされたんだなと腹が立ちます。)(未練がましいですが未だにこの虐めてきた男子の名前を忘れられないです。)もし、この時「私はやってない」と一言言い返せてたら……と思うと後悔しかないです。
小4では席替えで隣になった男子に毎日「キモい」「死ね」と言われ続けました。今考えると何も話さないブスな女が隣になったらそりゃ嫌がるよな……とは思いますが、当時は何も言い返せませんでした。
小5ではカーストの上の方の女子に「キモい」「死ね」と虐められ、私が触った物はバイ菌扱いされました。(なんでこんなに虐められたんだ?と今考えると当然私が話さないってのもあると思いますが、私が通ってた小·中は結構荒れてたのも原因に含まれると考えております。)
小6では上記の仲良くしてくれた子と同じクラスになれて比較的平和な学校生活でした。
ちなみに両親の事にはいじめの事は言い、担任に伝えてもらい改善はしましたが、休ませてはくれませんでした。1度仮病を使って休んだらめちゃくちゃ怒られましたし、当然宿泊行事も行かされました。(今思うと休ませて欲しかったです……)
中学校に入学してからも場面緘黙症は治りませんでした。虐めは中2の時が特に酷かったです。クラスの活発な女子に「なんで話さないの?」
「『あ』って言ってみてよ」と延々と聞かれ、黒板にブスな似顔絵を描かれたり(これのせいで未だに人に似顔絵を描かれるのが怖いですし、見た目の話をされたくないです。)トイレを上から覗き込まれたりと、とても辛かったです。(この時の事は両親に言ってないです。幸い中3になってからは収まり比較的平和な学校生活を送れました。部活では趣味の合う友人もでき一緒に帰ったり修学旅行では同じ班の子に優しくして貰ったりと楽しい思い出も少なからずありました。)
高校では場面緘黙症を治すぞ!と思い、知り合いのいない私立の女子高(当時男子が嫌いだったためです。)に入学しましたが、失敗。しかし、穏やかな子が多い学校だったので幸い虐めには遭いませんでした。1年の時にまたブスな似顔絵を描かれたり、話さないのので日直のペアの子に嫌がられたり等ありましたが……
1年時は話さないながらも友人に恵まれ弁当もぼっちで食べる事なく済みました。しかし2年のクラス替えで離れ、それ以降は話しかけられる事も無く卒業までぼっちで食事してました。(2年の最初クラスの雰囲気が嫌でしばらく親に泣きついてましたが親も最終的に鬱陶しいと思ったのか「1年の時の友達も他の子と食べてるって事はあんたはその程度の存在なんでしょ?」と言われました。)
しかし、最初は嫌がってた2年のクラスも穏やかな子に囲まれ、あだ名を付けてもらったり等卒業まで平和に過ごす事ができたので良かったです。
後、あまりにもブスに見られる事が嫌で2年の時にダイエットを決行。19kg痩せる事ができましたが、結果的に便秘と生理が来ない事に苦しみ受験時にリバウンドしました。(そんなに勉強してなかったのに……)(現在は一番痩せてた時よりは太ってますが標準体重に戻す事に成功しました。)ニキビ面も嫌で皮膚科に行き、見事完治。今ニキビで苦しんでる方は一度皮膚科に行かれる事をおすすめします。

☆場面緘黙症が治ってからも
高3の時に父方の祖父が亡くなった際に参加した葬式で親戚に「可愛くない」「話し方がのろい」「弟君はまともなのに……」と言われました。(弟も私より期間が短いですが場面緘黙症を発症してました。この時には既に弟の場面緘黙症は治っており、更に私と違って要領も良いので結果的にどんどん惨めに思われる存在に……)
極めつけは父親に言われた「お前を親戚に見せて恥をかいた!」という言葉。当然私はめちゃくちゃショックを受けて泣きましたが、こんなに言われるのも私が場面緘黙症のせいだからだと思い、大学入学時までには絶対に治す事を決意しました。(この際母親は私の事を擁護してくれました。)(父方の親戚ははっきりと物事を言う人が多いからか見た目、性格のダメ出しをよく受けました。大学になってからは多忙のため全く会っていないです)
大学入学時まで、頑張って話す事をシミュレーションし見事欲しかった友人を部活に入る事で作る事ができました。しかし、クラスでは友人が3年になるまでできませんでした。(趣味が合わない、また私が自己紹介でイキったオタクみたいな自己紹介をしたのも原因かと思われます。)
アルバイトも場面緘黙症を治すために飲食のホールを選びました。最初は「愛想がない」「笑顔がない」だのしごかれる物も最終的にはバイトリーダーに近い地位まで上りつめることができました。(現在も掛け持ちとしてこのバイトには籍を置いてますがコロナの影響で全く呼ばれず今どうなってるのかは分からないです。)
後、見た目のコンプレックスも酷かったため、化粧·スキンケアを頑張り、髪を染め、体調を崩さない程度にダイエットをしてあの時似顔絵を描かれてた時よりは大分マシな見た目になりました。
最初に書いた通り、場面緘黙症が治った現在でも人と目が合わせられない、嫌な事をされた時に怒れない、頼み事を断れない、電話が苦手、会話が続かない等様々な後遺症に悩んでおります。
この後遺症のせいで2回生の時に入った委員会活動で「目を合わせろ」と言われ、同じグループの人に頼み事ができず結果的に1人で仕事を抱え込み、催しの当日にミスをしてめちゃくちゃ怒られました。3回生の時はせっかくできた友人の否定癖が嫌でLINEで諭したものの怒ることができずなぁなぁで終わり結果的にその友人とはこちらから縁を切りました。
さらに、バイト先も先輩達が就活で辞めることで一気に人手不足化。授業があるのに店長のシフト入ってくれが断り切れず授業を休んで働く……というのがよくありました。
こんな性格なので就活の面接も全部1次面接で落とされました。何しろ目が合わせられないし、すらすらと自分の事が話せない。説明会でもキャリアセンターでも「目を合わせるの苦手?」と言われ、何度かインターンシップでお世話になってた人にはあまりにも目が合わないし世間話ができないためか病気扱いされました。
しかし、今考えると仮に内定を貰って会社員になったとしても周りと馴染めなくて病んでそうだったので結果的に今の仕事で良かったのかも……と思っております。
現在は大学も卒業して非正規という形ですがずっと憧れていた図書館で働いております。ここでのシフトは早番·中番·遅番とシフトが分かれており一斉帰宅や強制飲み会も無くてとても自身に合った職場だと感じております。図書館のため職場内も静かで無理に話す必要も無いですし、とても働きやすいです。(モリナガアメ様の漫画を読んでから気づいた事ですが私も若干の聴覚過敏があると考えております。特に老若男女問わずくしゃみの音が苦手なため、移動中は常にイヤホンです。)
(帽子、カチューシャ等の頭を圧迫するような物も苦手です。長時間付けていると頭が痛くなります。)※聴覚過敏になった原因としては恐らく場面緘黙症時代に「もしかして自分の悪口を言われてるのではないか」と聞き耳を立てまくってたせいかと思われます。そして悪口を言われてたと分かった瞬間ヒュ……と氷を飲み込んだ時のような冷たさが全身を走るのがトラウマ。

☆場面緘黙症であった当時止めて欲しかったこと

①話す事を強制しないで欲しかった
他の方の場面緘黙症の話にも書かれておりますが、「話さない」のではなく「話せない」のです。だから「『あ』って言って!」等無理やり話させる行為はやめて欲しかったです。
先生からも「何で話さないの?」「何とか言いなさい!」とよく言われて辛かったです。今後少しでも場面緘黙症に理解のある先生が増えてくれればと願っております。(上記にも書きました通り、特に小5の時の担任がトラウマです。)

②1人にして欲しかった
何処の小、中学校でも必ずあったと思われますが、「休み時間は外に出てみんなで遊ぶ」という催しが本当に嫌でした。教室内で絵を描いたり、本を読んで居たかったのに……特に嫌だった遊びがドッチボールと大縄。ボールを当てられた時、失敗した時の周りの冷ややかな目が本当に怖かったです。
フルーツバスケット、椅子取りゲームも取り残されないように必死でした。(今思うとあんなゲームをさせられた意味が分からないです。バトロワでもさせるつもりだったのでしょうか?)
勿論体育祭も嫌いでした。私は場面緘黙症の上に極度の運動音痴であったため、常に足手まとい扱いされていました。歌と絵を描くのは好きだったため音楽会と文化祭は好きでした。
遠足や修学旅行の時も地獄でした。1人で居ると先生に怒られるのでバレないようにレジャーシートを付けたり、後ろに着いていくというホラゲーにありがちな行動……
普通の子なら喜ぶ「席替え」「自由行動」というワードを聞く度にぞっとしてきました。(今もします)
高校の修学旅行の時は先生にバレないように自由行動の時間はトイレ内で時間を潰してました。(折角の初海外旅行がこれって……)
宿泊行事の時はいつも休みたいと言ってましたが普通に連れて行かれました。でも、行ったところでこんな辛い思いをして帰ってくるだけなので今考えてもやっぱり休みたかったです。

③でも気づいて欲しかった
結局1人にして欲しかったのかして欲しくなかったのかどっちなんだよという話ですが、周りの人に「場面緘黙症」であるという事を理解して貰いたかったです。私は必要な時は話せるし首を動かして意思表示をする事はできたので周りからは「ただの大人しい子」という認識をされていたのでしょう。残念ながら私は自身を場面緘黙症と認識して理解してくれる先生とは出会えませんでした。「この子は場面緘黙症だから無理に話しかけないであげてね」と代わりに言って貰いたかったのです。
現在私は場面緘黙症の後遺症はあるものの普通に働いております。職場が市立図書館であるため、やはり様々なお客さんが来られます。勿論昔の私のように場面緘黙症っぽい方もよく来られてます。そのような方々に元場面緘黙症の私は何ができるのか、と考えております。

④責めないで欲しい
嫌な記憶程いつまでも残りやすいものです。その理由が何であれ「そんな事で?」「くだらない」と言うのは絶対にやめて欲しかったです。(私は無駄に記憶力が良すぎるので未だに小学校の時にされた虐めを鮮明に思い出すことができます。親に言ったら「まだ覚えてるの?」と絶対に言われるので話せないです。上記の文もよく親に言われました。)虐めてきた奴はきっと今頃何も知らない顔でパフェでも食べてると思い込んで必死に忘れようと努力してますが、全く忘れられずにもやもやしたままです。
バイト先の愚痴も親に言ったら「接客業なんだから〜」と言われるので言えませんでした。(バイト先の愚痴は友人に聞いて貰ってました。少しも嫌な顔せずに聞いてくれた友人にはとても感謝しております。)少しでもいいので約15年間の辛い思い出と後遺症について理解して貰いたいです。よく頑張ったね。と言って貰いたいです。
(しかし今考えるとよく不登校にならないで15年間乗り切れたなと思います。当時の私よく頑張った……)
後、宿泊行事、体育会等は本当に嫌だったので休ませて欲しかった。特に宿泊行事。家に帰れないのが本当に辛くて辛くて嫌でした。

☆場面緘黙症の後遺症で苦しんでること

①目を合わせられない
何回も申し上げてる通り、人と目を合わせる事が本当に苦手です。眉毛辺りを見る等のコツも私には通用しません。(私個人の理由としては、「うわ、こいつブスだな」と思われそうな恐怖感があるからです)
治す努力はしておりますが、いつ人の目を見てしっかりと話せるのだろうか……

②自己否定が酷い
上記の文から察しがつくと思いますが、私は非常に自己否定が酷いです。場面緘黙症の上に過去の辛い経験から見た目のコンプレックスも兼ね備えているため、どうしても自分に自信が持てないのです。折角褒められてもお世辞だと思ってしまいます。
上記の経験で「人に似顔絵を描いてもらう」というのが本当にトラウマになっています。でも、1度でいいから可愛く描いてもらいたいです。それがお世辞であったとしても。

③友人への依存度が酷い
幼〜高までまともに友人ができなかったため、友人との接し方がよく分かっておりません。LINEは頻繁に送っちゃうし、電話も何回も掛けてしまう。その友人が私の知らない人と話してるのを見ると嫉妬してしまう。こんな性格なので「私以外に友達いないの?」と言われた事があります。(もっとも言ってきた子は上記の否定癖の酷い友人でしたが)今後、現在仲良くしてる友人にうざがられたら……と思うとぞっとします。現在はLINEも間を空けて返信してるつもりですが、友人達は私の事をどう思っているのか不安で仕方がないです。

④怒れない、断れない
上記に書いた通り、私は友人に嫌な所があっても怒れなかったしバイト先でシフトを無理に入れられても断る勇気が出せませんでした。
場面緘黙症であった時もただ一言「やめて」と言い返せてたらどれだけ状況は一変していたのだろうかと思うと……
後、自身の悩み等も口で言うのが苦手です。親にも中学以降から殆ど話しておりません。(現に私の友人の名前も親は知らないです。)

⑤電話が苦手
私は必要な時は話せるタイプの場面緘黙症であったためマニュアルにある通りの定型文は話せるのですが、世間話等をされるとどうしても言葉が出てこなくなってしまいます。
これは面と向かってでもそうなってしまいます。「今日はいい天気だね」と言われても「そうですね〜」しか言えなかったり……いいともの観客みたいになります。
この後の沈黙もとても苦手なので必死に話題を探そうとするが見つからず……

⑥複数人での会話が苦手
2人では話せるのに、3人になった途端話す事ができないです。特にその内の1人があまり親しくない子だったら尚更です。
こんなんなので就活でのグループディスカッションもまともに活躍できませんでした……そもそも集団生活をずっと苦手としてきた私に集団生活を求められる会社員が務まるのかと考えると……
後、感情表現が苦手なため常にテンションが低いです。みんなが笑ってる所で笑えない……一緒にテーマパークへ行ったらテンションが下がるタイプです。

⑦話せなかった時のブランクが大きい
私の場面緘黙症は幼〜高と約15年という長い年月であったため、やはりブランクがとても大きいです。例えば思い出話する時も楽しい思い出が無さすぎるため何も話せない。他の子の楽しそうな思い出を聞く度自身の惨めな思い出と比べてしまう。
勿論成人式にも行ってません。どうせぼっち確実なのですから。
後、ろくに遊ぶ相手がいなかったため小学校の時流行ってた手遊び、UNO、トランプのルールも全く分かりません。(場面緘黙症が治った後何回か教えて貰いましたが経験が浅すぎるため結局覚えられず)

☆最後に
幸い、私は必要な時は話せるタイプの場面緘黙症であったため大学に入学してから治した際も店員さんと話す等ではさほど苦労はしませんでした。しかし、やっぱり約15年というブランクが大きすぎる為、今まで普通に学校生活を送ってきた子と比べるとやはり自身の事が異常に見えてしまいます。過ぎた事をいつまでも悔やむな!とよく言いますがやっぱり小さい時に場面緘黙症と診断されて適切な治療を受けて早くに治っていたらもっと楽しい学校生活を送れていたのかと思うと辛くなります。
また、やはり場面緘黙症の時に助けになったのは趣味でした。漫画·アニメ、本のおかげで辛かった現実から一時的にですが逃げられました。
当時自身が嫌いで嫌いで仕方なくて何度も死にたいと思ってましたが趣味のおかげでここまで生きてこられました。
現在でも場面緘黙症だった15年間の事と後遺症のせいで死にたいと思ってしまう事が多々ありますが何とか生きております。
今でももし場面緘黙症じゃなかったら、今の自分のままで幼〜高を過ごせていたら……と妄想してしまいます。しかし、過ぎた時間は一生戻らないですし辛い経験はいつまでも心に残り続けます。
後、両親とは今も関係は良好です。毒親じゃね?って思われる方ももしかしたらいらっしゃるかもしれませんが、当事者の私からすると毒親とは思っておりません。親だって人間なのですからキツい言葉を言ったりしてしまう事だってあると思います。
現在、コロナの影響で旅行できない状況ですがいつかあの時修学旅行で行って楽しめなかった広島やシンガポール等にもう一度行って全力で楽しみたいです。
その時、私が元場面緘黙症である事を理解してくれる友人も一緒に居てくれたらな、と願っております。
いつか、本当の自分をさらけ出す事ができるようになりたいです。心から可愛いと言って貰いたいし、自信が持てるようになりたいです。そしてこれからの人生は辛かった15年を忘れるぐらい幸せになりたいです。
今回、この文章で私が元場面緘黙症であった事で友人がどう思うか分かりません。もしかしたら、引かれるかもしれないし嫌われるかもしれない。それでも自身の過去を知って貰いたい、現在場面緘黙症で苦しんでる方々の助けになったらと考え、思い切ってこの文章を書きました。
念の為に言っておきますと、今回このような文章を書いたのは病気アピールしてちやほやして貰いたいからではないです。ただ場面緘黙症というものが世間にあるという事を皆さんに理解して貰いたかったからです。
「何でもかんでも病気って言うな!ちやほやされたいだけだろ!」という厳しい意見もよく目にします。確かに病気アピールしてちやほやされてる方も少なからず居るとは思いますが、全員がそういう訳では無く本気で悩まれている方もいらっしゃるという事を理解して貰えたらと思っております。(正直私も自身が場面緘黙症と分かるまで他の病気に罹って悩まれてる方に厳しい発言をしてきたかもと考えております。それについては反省しております。)
私の書いた支離滅裂なこの文章が場面緘黙症の方々に少しでもお役に立てたら幸いです。
この文章を上げたアカウントは普段趣味垢として非公開で使っておりますが、元場面緘黙症、現在場面緘黙症の方とも交流できるようにしばらく公開アカウントとして使っていきたいと思っております。(趣味の話でも仲良くできたらと思っております。)
今後とも場面緘黙症について勉強し、現在苦しんでる方々にアドバイスできるように頑張っていきたいです。
ここまで読んでくださりありがとうございました。

梅花